十五、離散 2
ソランが雛菊館へ戻る少し前。
湿った風が通りを吹き抜け、空を覆う雲がトルーセに水滴を落とし始めるころ。
雛菊館の夜は、まだ平穏の中にあった。
居心地良く整えられた寝室で、アイラは昼間と同じように乳白色の石のすべらかな表面を見つめ、頷いた。
また、夜に起こして。
昼間、眠りに落ちる間際にミシアは言った。
ミシアの意図はわからないが、アイラに拒む理由はなかった。だから、アイラは彼女の目覚めを促すべく手を差し出す。
そして、差し出されたアイラの手にメルは月長石の耳飾りを置こうとし、しかし途中で動きを止めた。二人は同時に視線を上げ、互いの瞳を見交わした。
すうっと二人の顔の前を小さな光がひとつ、横切っていく。それは先触れ。
ざわりと肌が粟立つ。
アイラは弾かれたように上を向いた。
空気が変わる。
一瞬の空白。そして、とんでもない数の小さな精霊たちが寝室にあふれかえった。
「な……っ」
息を呑んだメルの指をはなれた耳飾りが、ぽとりとアイラの掌に落ちた。
『おねが、い』
『――おねが、イ』
『――――おねが、イ』
いくつもの声が輪唱のように同じ言葉を追いかけて、重なりながら、アイラの耳に届いた。
『どうか』
『たす、けて――』
『ひめぎみ』
次々に落ちる雨粒が水面に波紋を広げ重なるように、高く低く声が落ちては空気を震わせる。繰り返し繰り返し、悲しみと痛みを落としていく。
こいねがう声に心が傾くのを止められない。
『たすけて――……』
アイラはその懇願を拒むことはできなかった。
言葉にしたわけではない。表情にさえ出なかった。けれど、そのとき、アイラは確かに応えてしまった。求める声に、応えてしまった。
寝室を埋め尽くす数の精霊がまとう儚い光は、いっせいに輝きを増した。
彼らは飛翔する。最期の飛翔を。渦巻く流れはアイラを包み、彼らのすべては一点に集約された。
雛菊館が大きく揺れた。
「アイラっ!」
伸ばした手の先に、アイラはいない。
メルは青ざめた顔で立ち尽くした。
なんてことだ。止められなかった。
大切なものをつかみ損ねた細い腕が、力なく落ちた。しかし、少女の柔らかい手はすぐに拳を作る。
メルは苛立ちと焦り、そして憐れみをもって、数えきれない数の小さな同胞が力尽き落ちていくさまを見つめた。
まさに、命懸けの嘆願だ。
「おい。何が」
声のした方へ顔を向けると、ソランが立っていた。
メルは唇を歪めた。
「アイラが連れてかれた……!」
告げられた内容にか、メルの切羽詰った様子にか、それともその両方にか、とにかくソランは顔をしかめ、足早にメルのそばに歩み寄った。
「昨日の精霊か?」
問いかけたソランに、メルは短く答えた。
「違う」
ソランには見えていないが、部屋の中は死屍累々の有様だった。しかし、それもすぐに跡形もなく消えるだろう。折り重なる小さな精霊たちの屍がさらさらと散っていく。
「あのぅ」
遠慮がちな声がして、ネイテが不安そうな顔をのぞかせた。すぐに収まったとはいえあれだけの大きな揺れだ。さすがに様子を見に来たのだろう。
「……あ。ソラン様、お帰りだったんですか?」
ネイテはおどおどと寝室を見回して首を傾げた。
「アイラ様は……?」
「わからない」
「え。わか、らない……って」
アイラはミシアの宿る耳飾りを持ったままだった。こちらには彼女の肉体がある。その上、メルとミシアは契約を交わしている。こちらと向こうをつなぐ二重の絆だ。常ならば造作もなく追うことができる。けれど、今はそれがひどく難しかった。
ただでさえ、契約のせいで制限された力しかふるえないというのに、アイラを引っ張る力に逆らった結果、かなり消耗してしまった。余力はあまりない。
なにか、他に方法は――。
「別の精霊が来たのか?」
思考を邪魔されてうるさそうにソランを見上げたメルは、みるみる目を見開いた。
「ソラン!」
メルはソランの腕をつかんで揺さぶった。
「君ならわかる」
「何が」
「アイラの居場所が!」
ソランはメルを真顔で見つめた。
「君は昨日、アイラの力を受けたばかりだ。きっと、まだ共鳴してる」
「どうすればいい?」
ソランは余計なことは口にしなかった。どうせ理屈はわからない。
「それは――」
メルはびくりと肩を震わせて言葉をとぎらせた。
「まずい……早いな。ネイテ」
「は、はい?!」
「すぐにこの部屋を出るんだ。そして、誰も近づかないよう見張ってて!」
「えええ?」
「早く行くんだ」
メルは寝室の入り口近くにいたネイテをぐいぐい押して、応接間を横切り客室の外に追い出した。
「僕が呼ぶまでここにいて。わかった?」
「わわわかりました!」
「よろしい」
メルはバタンと扉を閉めた。そして、ソランを振り返った。
「君とアイラの共鳴を、その響きを感知できるようにする。だから、お願いだ。アイラを追ってほしい」
「あんたは?」
「僕はたぶん行けない。だから、ソラン」
空色の双眸に切迫した光を浮かべ、メルは強く男の名を呼んだ。
「わかった。必ず、姫さんを見つける」
「この手をかざして。君が何かを感じた方角にアイラがいる。アイラは精霊の力でとばされたんだ。一瞬で目的地までとんだはず。でも、少なくとも国内――いや、半径二百の範囲にいる」
メルはわずかの時間さえ惜しむように、ソランの左手をぎゅっと握りながら早口に言った。あのとき集約した力の大きさからだいたいの移動距離は推測できる。
限られた時間の中で、メルはできるだけ多くの情報をソランに渡そうと喋り続けた。
「アイラを連れ去った精霊たちに敵意はなかった。アイラに助けて欲しいと縋っただけで」
ミバの森で、トゥムファの祭司にリエラが傷つけられたとき、アイラの中の眠りの封印が解けてしまった。もっと正確にいうなら、アイラによって破壊された。五人がかりで施した封印はあっけなく壊されて、アイラが放った奔流は目を引くに十分すぎた。まさに狼煙を打ち上げたようなものだ。
中でも、あの森の精霊たちは見たはずだ。
メル自身はそう長くあの場に留まれなかったが、想像はつく。
顕現した古い力は美しく清んでいて、それを意のままに操った彼女の姿に小さきものたちが圧倒され、惹かれたのも当然のなりゆきといえる。その場に居合わせ、直接アイラを目にした数はわずかでも、噂は広がる。
窮地に陥った者たちが、そこに希望を見出したとしても不思議はない。しかし、すべてを投げ打ってくるとは思い切ったものだ。
「必死に願う声に心が動いた。だからアイラは」
メルは初めて少し笑った。
「昔からそうなんだよ。目を離すとすぐあっちこっちでさ。引っ掛かってる」
小さな儚い精霊たち。彼らは難しいことは考えない。基本的に勝手気ままで享楽的で忘れっぽい。それが、一致団結して助けを求めてきた。彼らをここまで追い詰める何かには、持続性と連続性があるはずだ。
「変わった事件が続いてるとか、良くわからない現象が頻発してるとか、そういうところにアイラはいると思う」
メルはソランの手を離したついでに、自分の倍以上ある太い腕を軽く叩いた。
「さ。これでいい。行って。もうすぐ昨日の精霊が来る。相手は僕がする」
メルが急いでいた理由、そして、自分は行けないと言った理由を初めて知ったソランは、推し量るような視線を少女の姿をした精霊に向けた。
メルの登場によって昨日はいったん引き下がった精霊が、様子見をやめて動いた。よりによってこの時点での接近に、標的であるアイラの不在に気づいていないとは思えなかった。となれば、ここへ来る意味は、一つしかない。
メルの口調にも表情にもいくらか余裕が戻ってきているが、相変わらず顔色は悪いままだ。恐らく、精神的な理由だけではないのだろう。しかし、体調の悪さなんてものは、指摘されるまでもなく本人が一番よくわかっているはずだ。
「なんとかするよ。だいじょうぶ」
メルがそう言えば、ソランがそれ以上言及してくることはなかった。
雨の音が聞こえる。
メルはそっと目を閉じた。
雨音とは別に耳を打つ音がある。
ああ。近いな。と思う。
もうあまり話している時間はない。
メルは廊下へ続く扉を指差してソランの体を押した。
「ネイテはここに置いて行って。しばらく動けなくなりそうだからね。こうなったらミシアの身体を看ていてもらわないと。ただし、僕が呼ぶまで絶対に部屋に入らないように言って。それと、ミシアの耳飾りはアイラが持ってっちゃったんだ。失くしたわけじゃないから」
「わかった。伝える」
踵を返したメルの背中にソランは声を投げた。
「うまくやれよ」
「そっちこそ」
メルは肩越しに少しだけ振り返ると、早く行けと片手を振った。
戻した視線が正面で止まる。
メルの背後でソランが扉を閉める音がした。
術者が関わっている可能性について伝え損ねたなと思ったが、なんとかなるだろうと思うことにした。とにかく、今はこいつにソランを追わせないことが第一だ。
ゆらりと目前に凝った人影にメルは目を細めた。
花籠離宮で、ただ逃がすのも芸がないとつけた目印。それくらいしかできなかったということもあるが、ある程度近づけば感知できるように細工した。
いわゆるあれだ。猫の首に鈴。
接近を知らせる音に気づいていながら、逃げも隠れもせずにいるというのもおかしな話だが、仕方がない。逃げ続けるのも隠れ続けるのも今のメルには厳しい。となれば、正面から対するしか道はない。
アイラがこの場にいないことはもうわかっているはずだ。にもかかわらずここへ来たのは、アイラの居場所を見失ったということに加えて、先に障害となるメルを排除するつもりなのだろう。
それならそれで、こちらとしても手間が省ける。
メルは優雅に微笑んだ。
「ようこそ。ノエ」
「我が名を御存知とは、光栄だ。守護者殿」
男は冷えた表情のまま少女を見下ろした。




