十一、侍女の職分 2
「ルルカ殿。そちらは避けた方がいいですよ。ご婦人の絹靴では危ないですからね」
足を踏み出そうとしたところに声をかけられ振り返ると、キサリが困り顔で立っていた。
「破片があちこちに散らばっているんですよ」
「気がつきませんでした。ありがとうございます」
「いいえ。どういたしまして」
答えるキサリは微笑んでいたが、その笑みはぎこちない。曇りがちな表情に見え隠れするのが、自分が感じたものと同種の恐れのように感じられて、ここで起こったことを見たのかと聞いてみたくなったが、ルルカはその問いを呑みこんだ。
「このままでは危なくていけませんね。アイラ様のご衣裳なども奥の部屋から移さなければなりませんし、床だけでもきれいにしなくては。部屋係の者を寄こしますから、皆さまに一度テラスにお出でいただいてもよろしいでしょうか。お庭から隣の白百合の間にお渡りいただけます」
「わかりました。その方が人目に付きにくいですね。応接室までぞろぞろ歩いて行かれたら目立つでしょうから」
王子王女をまとめてテラスへ追い出そうというのは大胆なようだが、一番手っ取り早い。
外は炎天下でも極寒でもない。涼しさを感じるくらいの気持ちの良い夕べだ。昼間から少し肌寒かったせいで見たところ薄着ではないし、ちょうどいい。
「支度が整いましたらお迎えに上がりますので、こちらはお任せしてもよろしいでしょうか」
「はい。承知しました」
「お願いいたします」
ルルカは黒檀の間を出ると、人を呼んでいくつかの指示を与えた後、リエラの部屋に寄った。
リエラには二人の侍女をつけてある。そのうちの一人を呼び出して尋ねると、案の定、彼女にも騒ぎの噂は届いていたが、何があったのかはっきりしないのでまだリエラには話していないという。事実の確認のため、ルルカを探しに行くところだったらしい。
ルルカはクドゥル王子の言葉を伝え、この騒ぎをリエラの耳に入れないよう侍女に念を押した。詳しい説明を省いたにも関わらず、彼女は詮索をすることなく頷いてくれた。
ルルカは次席侍女の肩書を持っているので、こうして指示を出す立場になることは多い。しかしそれは役割分担上のことだと考えており、あからさまに上からものを言うようなことはない。誰に対してもそうしたものやわらかな態度を崩さず、女性的な包容力を感じさせるルルカは仲間内で非常に頼りにされている。商家の出身であるルルカに生家の身分が高い侍女たちが不満を持つことなく従うのは、そうした人柄によるものだ。
一息ついたのも束の間、続けて言われた内容にルルカは眉を寄せてしまった。
「ルルカ様。リエラ様がアイラ様をこちらへお招きしたいと仰っておいでなのですが、どういたしましょう」
「何かご用事がおありなのでしょうか」
「これといって……ただ、ご一緒にお過ごしになりたいと」
リエラがアイラと仲が良いことは知っている。けれど、このアイラ王女の人気ぶりはなんなのだろうと首を捻りたくもなる。
ソランはクドゥルの目を盗んでアイラの部屋を訪ねるし、それを聞いたクドゥルは血相を変えて駆け付けるし、水色のドレスの少女もアイラへ一目散だ。
ルルカは皆が皆アイラの近くにいたがることを不思議に思いながら、リエラのもとへ急いだ。
リエラは寝室で揺り椅子にゆったりと腰掛けて、侍女に髪を梳かせていた。
「ルルカ! どこへ行っていたの?」
リエラは白磁の丸い器からきれいな色の飴玉を選ぶ手を止めて、笑顔になった。
「申し訳ございません」
「謝らなくてもいいのよ。あなたが忙しいのはわかっているもの」
「お気遣いありがとうございます。リエラ様、アイラ様のことなのですが、お部屋へ入られてすぐ、お一人になりたいと侍女を下がらせておいでで……」
「あら、そうなの? なら、きっと眠っているんだわ。良かった」
ルルカが曖昧に語尾を濁すと、リエラは都合良く解釈をしてくれた。
「ミバからずっと、いつもわたくしより早く起きて遅く眠っていたのよ。あのアイラが、お昼寝もなし! アイラは否定していたけれど、無理して起きていたに違いないのよ」
眠り呆けという陰口はルルカも知っていた。それが事実無根ではないことも知っている。なぜなら、アイラの睡眠に対する執着はリエラからよく聞かされていたからだ。当然、リエラの話に悪意などなく、気持ち良い目覚めの演出に関する相談だったり、その日の楽しげな報告だったりという無邪気なものだが、睡眠時間の多さへの不満も含まれていた。
「だから、眠っているならそっとしておいてあげたいわ」
これまでの経験と合わせて、すっかりそう信じて疑わない様子に胸が痛む。
「あ!」
リエラは何か思いついたようで、可愛らしく両手を打ち合わせた。
「ね、ルルカ。夕食のスープは冷たいものがいいわ。できるかしら?」
「厨房にきいてみましょう。他にご希望がございますか?」
「それから、デザートはお菓子より生の果物がいいわ」
甘い焼き菓子やタルトが好きなリエラにしては珍しい要望だった。
「……もしや、アイラ様のお好みでございますか?」
「そうよ。アイラが好きなの。それと、アイラのお肉は少なめにしてね」
そう付け加えて、リエラは表情を曇らせた。
「前からあまり食べなかったけど、この三日間はもっと少なくなっているの。食事が口に合わなかったのかもしれないわ。でも、好きなものなら食べてくれると思って」
素直にアイラを想っているリエラに本当のことを言えないのは心苦しくて仕方がなかったが、ぐっとこらえた。
リエラには、ルルカから中途半端な情報を伝えるより、当事者たるアイラかクドゥルから話してもらった方がいい。だから、まだ黙っているべきだというクドゥル王子の判断は正しい。今、あの四人の中にリエラが加わったらますます収拾がつかなくなるのは目に見えている。
「アイラ様も喜ばれますわ。おいしく召し上がっていただけるとよいですわね」
「夕食に間に合うようにアイラは起きてこられないかもしれないけれど」
リエラはちょっと笑った。本当にアイラの睡眠状況が身に染みてよくわかっているらしい台詞だった。
「お願いね。ルルカ」
「お任せくださいませ」
そんなやり取りの後、リエラの部屋から下がったルルカは、小間使いのネイテに夕食への要望と、ついでにもしかしたら一名分追加となるかもしれないことを言付けて厨房へ遣わせた。厨房からの返答はリエラ付きの侍女に報告するように指示をして、ルルカは白百合の間へ向かった。
白百合の間は黒檀の間の隣に位置し、ほぼ同じ間取りになっている。
真新しい蝋燭には火が灯され、黄金色の燭台が輝いて百合の模様の白い壁紙が優しく色づいて光を拡散する。白と金を基調として、しかし派手派手しさはなく、軽やかな優美さを感じさせる装飾である。
常日頃から離宮の清掃は行き届いているし、使用しない部屋も一通り点検済みだ。だから、寝具を整え、日用品を揃える程度で済む。
ルルカが来たときは、レフィアと小間使いのエレの手によってほとんどの支度が終わっていた。ルルカも幾つか細かいところを手伝い、最後に落ち度がないことを確かめて二人を労った。
「急がせてしまってごめんなさいね。二人ともご苦労でした」
順番に視線を合わせて微笑みかけると、レフィアはちょっと微笑んで軽く膝を曲げた。その後ろに慎ましく控えているエレもにっこり笑顔をみせる。
「ルルカ様」
呼んだのはレフィアだ。
「なんでしょう」
「黒檀の間にございますご衣装や小物をこちらにお運びしてもよろしいでしょうか?」
ルルカは少し答えに迷った。
今回、レフィアをアイラに付けたのは、彼女がアイラを悪く言うところを見たことがなかったからだ。とはいえ、変わり者の王女だということは散々聞かされているわけで、アイラ殿下のお世話を頼みますと伝えたときの顔は明らかに困っていた。それはどう接したらよいのかわからずに戸惑っているだけで、決して悪い感情は持っていない。けれど、あの部屋の有様を目の当たりにしたら気の弱いところのあるレフィアは怯えてしまうかもしれない。
「ルルカ様?」
レフィアは黙ってしまったルルカを不思議そうに見つめている。
黒檀の間に、片づけのための人を入れることにためらいを覚えなかったのは、彼女たちとアイラには距離があるからだ。主に清掃を担当する部屋係の召使にとって、王女は雲の上の人なのである。そこで起こったことも別世界の出来事だ。
だが、侍女であるレフィアはアイラに近く接する。だから余計に恐怖を身近なものとして感じてしまうだろう。あの部屋を見たレフィアは、きっと、アイラと結びつける。アイラがやったのだと思うかもしれない。
ルルカにしたところで、あの地震に襲われたような部屋を見てしまうと、アイラ王女が怖くないと言い切る自信はない。事情が分からないから余計に、漠然とした恐れは消えてくれない。ただ、クドゥル王子にまったく恐れるところがなく、リエラ王女が慕っている相手だから、なんとか平静でいられるに過ぎない。敬愛する主人がそうするなら自分もそれに従うまでだ。
けれど、レフィアはどうだろうか。レフィアはごく普通の娘だ。得体のしれない力を怖がり、近づきたくないと思うのは当然だ。時間をかければ、もしかしたら取り除けるものなのかもしれないが、今それを試す気にはなれなかった。
黒檀の間にレフィアを通すのは、元の状態とまではいかずとも、ある程度後始末を終えてからのほうがよいように思える。
「アイラ様のお品についてはわたくしがいたします」
「ルルカ様がなさるのですか?」
「手が必要になりましたら改めてお願いしますね。レフィア様はお呼びがあればすぐに対応できるよう、こちらの部屋に控えていた方が良いでしょう」
「はい……、承知いたしました」
ルルカは手燭に火を移した。
「わたくしが殿下方をお連れしますので、あなたはここでお出迎えするように」
そうレフィアに言い置いて、ルルカは隣室のテラスへ向かったのである。
まだ足元がおぼつかないほどの暗さはなく、微妙な朱から薄青へ変わりゆく空が美しい、曖昧な境目の時間だった。
誰何の声に、手燭をかざした。
「お待たせいたしまして申し訳ございませんでした。お部屋のご用意が整いましたので、ご案内いたします」
ルルカは階段の脇に立ち、テラスから四人が降りてくるのを待った。
一番に少女が、そしてクドゥルとアイラ、最後にソランの順に小道のタイルを踏んで近づいてくる様子を眺めながら、ルルカは違和感を覚えた。最初は薄暗さのせいだと思った。けれど、クドゥルに手を取られ白百合の間に入ってきたアイラと眼差しが交差し、再びの彼女の変化に驚きを隠せなかった。
つい先ほど感じた吸い寄せられるような輝きはどこにもない。
よく見れば肌は雪のように白くなめらかで、顔立ちは繊細に整っている。けれど、華がない。たった一つの、決定的な違いだった。
黒檀の間で見た姿は幻だったのだろうか。ほんの一瞬視線が交わっただけで強烈な印象を残したあの瞳を、こんなにもはっきりと思い起こせるというのに、あれはいったいなんだったのか。
驚いたし、疑問に思いもしたが、まさかその場で問いただすわけにもいかなかった。
ルルカはレフィアとともに四人分の飲み物を用意し、白百合の間を退室した。
その後いくつか用事を済ませ、こうして片づけの済んだ黒檀の間に戻ったわけだが、同じ場所に立つとよけいに鮮明に思い出せる。
ルルカは不思議な気分だった。
惜しいと思った。
同時に、喜ぶ気持ちがあることに戸惑いを覚えた。
あの場限りで消えてしまったことを、余人の目に触れなかったことを幸いと思う独占欲が自分の中にある。
そのとき、ルルカにはクドゥルやリエラがアイラに惹かれる気持ちがわかったような気がした。論理的な説明はできずとも、それはとても収まりの良い形をしていて、受け入れることに少しも抵抗がなく、不思議とさわやかな気分になれる考えだった。
ルルカはふと、キサリもこの黒檀の間で、あのアイラ王女を見ていたことに気がついた。
「キサリ様は――」
ルルカは言葉を途切らせた。
自分が何を知りたいのか、何に頷いて欲しいのかうまく言葉にならなかった。
「どうかしましたか?」
ルルカは黙ってキサリの顔を見つめた。
キサリは榛色の瞳に困惑の色を浮かべ、戸惑い気味に名を呼んだ。
「ルルカ殿……?」
「あ、いえ……」
結局、ルルカは適切な質問が思い浮かばず、曖昧に微笑むことで誤魔化した。
「わたくしはアイラ様のご衣裳をご用意いたしませんと。まだ、お着替えもされておられないようにお見受けいたしましたから」
ありがたいことに、キサリは前後のつながりの不自然さには触れずにいてくれた。
「そういうことでしたら、私にお手伝いできることはなさそうですね。では、私はこれで」
「お力をお貸しくださりありがとうございました」
キサリは軽く頭を下げて踵を返した。
ルルカはその後ろ姿を見送ってから、寝室へ続く扉を開けた。




