十、花籠離宮の夕べ 5
「ちょっ、痛! 殿下! いったん落ち着いて」
「これが落ち着いていられるかっ」
「いやいや、それはさすがにまずいでしょうよ……」
クドゥルによる見当外れのようでいてたまに鋭い一方的な追及と、それを宥めすかしながらのらくらとはぐらかすソランの弁明は、傍で見ている限り馬鹿らしくも面白いもので、少女は笑いを誘われた。
「クドゥル王子はわりと彼に気を許しているんだねぇ。なんだか楽しそうだ」
本人たちには異論もあるだろうが、アイラも同じような感想を抱いた。
アイラを出しに仲良くじゃれ合っているようにしか見えない。
実際、台詞の端々に多少の本気が混じっていたとしても、深刻な決裂につながるようなものでないことは明白だ。その証拠に、少女が笑いながら仲裁に入ると、二人は滑稽な掛け合いめいてきていたやり取りをあっさり中断した。
「はいはい、いつまでも遊んでないで。そこまでにしたら?」
割って入った少女の手がクドゥルに触れた。その際のクドゥルの反応は少し変わっていた。思案顔でその手を見つめ、幾分憚りながら少女に問いかけた。
「ずっと気になっていたのだが、君はなぜ、生身の少女の姿をしているんだ?」
「偶然、引っかかってね」
「引っかかった?」
「話すと少し長くなるけど……」
「クドゥル様」
会話に割り込む形になってしまったが、アイラは思い切って口を開いた。これ以上先延ばしにはできないと思った。このままずるずると、なし崩しに受け入れるわけにはいかない。
「どうかしたかい? アイラ」
「お願いがございます」
緊張のためか、アイラの声がかすかに震えた。
「クドゥル様も尋ねたいことがたくさんおありだと思います。でも、その前に、わたくしにそちらの――」
アイラは一度視線をクドゥルとソランの前に立つ少女に向け、改めてクドゥルを見つめた。
「メルと話すことをお許しください。お願いいたします」
そう言って頭を下げたアイラには、真剣さを通り越して悲壮感さえ漂っていた。
こんなに辛そうに、それでも目を背けず踏みとどまろうとするアイラを初めて見た。
アイラが辛くて痛くてたまらない顔をするときは限られている。いつも本当にアイラを傷つけるのは父だけで、そんなとき、彼女はいつも顔を俯ける。完全な拒絶を恐れて、自分の中に原因を求めて逃げてしまう。
けれど、今は違った。もたらされる何かに怯えながら、立ち向かおうとしている。
クドゥルの感覚は、少女がアイラの精霊だと教えていた。なのに、精霊に対するアイラの態度は最初から明らかにおかしかった。
アイラは何がそんなに悲しく、そして怖いのだろうか。
精霊の不在について尋ねたとき、そばにいる理由がなくなったとアイラは答えた。
その理由が関係しているのだろうと想像はついたし、クドゥルも気になっていたことだったが、同時に口を挟む立場でないことも心得ていた。
「わかった。私たちは席を外そう」
「いいえ。ここにいてください」
意外なほど強い懇願の眼差しを向けたアイラは、声を細くして言い足した。
「クドゥル様がよろしければ、聞いていていただけると心強いです」
父であるシュタル王に関すること以外でこんなふうに弱気な顔を見せるのは珍しいと思いつつ、クドゥルは同席することに頷いた。
「俺はどうしましょうかね?」
「どうぞあなたのなさりたいように。あなたには思いがけず慰めていただき、助けてもいただきました。お礼申し上げます。わたくしの個人的な事情に否応なく巻き込んでしまったようなものですもの。このうえは、あなたの意思を尊重します」
「俺の好きにしていいってことですか?」
「アイラといると、さっきおまえも体験したように常識が通用しないことがよく起こる。これ以上深入りしたくないなら、全部忘れて自分の部屋に戻れ」
「じゃあまあ、遠慮なく」
ソランは顎を撫でながら不敵に笑った。
「首を突っ込ませてもらうとしましょう」
「……やっぱりおまえ、馬鹿だろう」
半ば予想した答えだったものの、クドゥルはそう言わずにはいられなかった。
テラスに椅子は三脚しかなかったので、アイラと少女が並んでベンチに座り、クドゥルが椅子を近くに寄せて腰かけた。ソランは固辞して端の手すりのそばに立った。
思いつめた表情のアイラとは逆に、少女――メルは少しも緊張している様子はなかった。
「僕と話したいことって?」
「メル……」
アイラは硬い顔つきのまま尋ねた。
「どうして戻ったの?」
「どうしてって、あれでお別れなんて嫌だよ。そんなのはとても受け入れられない」
それを聞いたアイラはひどく狼狽して申し訳なさそうに謝った。
「ごめんなさい。そうよね。わたくしはあなたたちにお礼もしていなかった。どんなに言葉を尽くしても足りないけれど、本当に感謝しているわ。申し訳なくて、どうすれば償えるのかわからないの。わたくしにして欲しいことがあるなら言って。何でもするわ」
「アイラ。それってひどい勘違いだよ。僕たちは見返りなんていらない」
メルはそれは優しくアイラに微笑みかけた。
「あのとき言ったよね。続きは水蘭館に帰ってからにしようって。覚えてる?」
「覚えているわ」
「ここは水蘭館じゃないけど、いいよね」
質問の形を取ってはいたが、メルはアイラの返事を待たずに続けた。
「最初にアイラの様子がおかしくなったのは、アイラが生まれたから、僕たちはアイラのそばにいるためにボーマルッカに来たんだって言ったときだったね。あれはどうして?」
「……」
「どうしたの? そこを隠したら始まらない」
「……怖かったの」
アイラは大きく息を吸うと一息に喋った。
「あなたたちがいつかわたくしのもとから去ってしまう可能性に気づいて怖くなったの。ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「だって、そんなふうに思ったらいけないのよ」
「どうして?」
「あなたたちから自由を奪って無理やり従わせておいて、ずっと一緒にいて欲しいだなんて身勝手すぎるわ。契約だって聞いて……、捕らえられて、契約に縛られてわたくしを守っているのだとわかって、そんなのはだめよ。わたくし、知らなかったの。いいえ。知ろうともしなかった。疑問にすら思わないで、ずっと当然だと思って甘えていたの。わたくしは、自分のためにあなたたちの大切なものをたくさん犠牲にして、取り返しのつかないものを奪ってきたんだわ。なんてひどいことを強いてきたのかと……だから、絶対に、解放しなくてはならないと思った」
「それで契約を解く方法を訊いたんだね」
アイラはぎこちなく頷いた。
「ああもう! アイラはダメだなあ」
メルは笑みを抑えきれず口元を緩ませた。どうしても顔が笑ってしまう。
アイラは精霊たちのことだけを考えて、契約の鎖を斬ったのだ。自分のことなんかこれっぽっちも考えずに、ただ精霊たちの自由だけを願った潔い決断だった。
それに、アイラは当然のように甘えてきたと言ったけれど、そんなことはないとメルは知っている。
特にゼラなどは、真綿で包むようにあらゆる危険や苦痛から遠ざけて、大切に大切に守りたいようだったが、アイラがそうさせてはくれなかった。
交友関係が極端に狭くとも、アイラは隠されていたわけでも閉じ込められていたわけでもない。水蘭館の外に出れば、悪意や害意を向けられることもあった。
アイラはそういうものに無頓着で、それだけならまだしも、時にそれを甘んじて受けることを選択した。つまり、精霊の力で守られることを拒んだ。特に水蘭館の外ではその傾向が強かった。アイラなりに目立つことを避けていたのだろう。怪魔憑きという噂程度で済んでいるのはそのためだ。
腹に据えかねる所業にはきっちり報復しておいたが、すべて運の悪い事故ですんでいるはずだ。クドゥル王子が気づいていて最近まで何も言わなかったのは、彼も似たような気持ちだったからだと思っている。
アイラが時と場所を気にせず、躊躇いなく精霊の助力を願うのは、決まって自分以外の者に災難が降りかかったときだった。
「僕たちはアイラが好きなんだよ。アイラのそばにいられて嬉しいんだ。アイラが好きだから、役に立ちたいし助けてあげたい。最初が契約だったなんてそんなことより、今のアイラが好きって気持ちの方がずうっと重要で大切なんだよ。だから、戻ったんだ。契約なんてなくても僕はアイラのそばにいたいんだよ」
そこまで言っても表情から罪悪感が消えないアイラに、メルはやれやれと首を振った。
「ねえクドゥル王子。君もそう思うよね。だいたい、僕たちが仕方なーく嫌々アイラといるなんてどこをどうしたらそんなふうに見えるのか教えてもらいたいよ」
「まったくだ。かれらのアイラへの愛情は疑う余地もない。たまにいき過ぎて少し控えて欲しいと思うくらいだというのに」
「クドゥル王子。それ後半余計だから。アイラ。まだ僕の言葉が信じられない?」
「でも、あまりにわたくしに都合のいい話だわ」
「アイラに気を遣って嘘を言ってるかもしれないって?」
アイラは黙ったままだったが、表情がメルの言葉を肯定していた。
「あのね、仮にそうだったとしても、それはアイラが好きだからだよ。悲しませたくないからそうするんだよ。契約のことを言わなかったのは確かにその通りだよ。アイラはきっと僕たちのために心を痛めると思ったから、黙ってた。そういう隠しごとはこれからもするかもしれない。でも、気持ちを偽ったりしないよ。契約だったと知ったからって、アイラに心まで疑われるなんてそっちの方がよっぽど悲しい。だいたいね、僕たちがアイラを大切にしてるってことくらい、言わなくてもわかってくれてると思ってたのになあ……」
最後は独り言のように呟いて、メルは疲れたように息を吐いた。
「アイラは、僕が……僕たちが仕方なくそばにいるように見えたの?」
メルはひどく心細そうで、寂しそうで、不安げな、傷ついた表情をしていた。
「いいえ……!」
何か考えるより早く、否定の言葉が口を突いて出た。
突然、霧が晴れて目の前が開けたように、本当に唐突にアイラは気づいた。
「いいえ――! いいえ、そんなことないわ。違うの、ごめんなさい」
上っ面の事実に目を奪われて、本当に大切なものが何も見えていなかった。
「ごめんなさい。メル……ごめんなさい」
恥ずかしかった。
あんなに悲しそうな顔をさせてしまうなんて。
一緒に過ごした時間を、積み重ねた思い出を、全部否定するようなことをしてしまった。
「わたくし、本当に……馬鹿だわ…………ごめんなさい」
謝り続けるアイラを宥めるように、メルはアイラの髪を撫でてくれた。
それは、覚えているより小さな手だったけれど、ゆっくり滑る動きは同じものだ。
アイラはそっと顔の横を滑りおりたメルの手に自分の手を重ね、頬を寄せた。
この血に彼らを繋いでいた鎖が切れても、切れないもの。決して、失われないもの。
そばにいてくれる理由なんて、こんな簡単なことだったのに。
「戻って来てくれて、ありがとう。おかえりなさい。メル」
瞳を潤ませてはにかんだ笑みを浮かべるアイラに、メルは春の陽だまりのような微笑みで応えた。
「ただいま。アイラ」
両手で包み込むようにして互いの手を握り合い、見つめあう少女たちの髪が茜色に染まっている。
クドゥルは眩しそうに目を細めた。
それは一幅の絵のようで、沈みゆく夕日のせいか、微笑ましさより厳粛さを感じさせる光景だった。
「どうやら一件落着ってとこですかね?」
「しかし、そうすると、他の精霊たちが戻らないことが気になる」
メルは一貫して『僕たち』という言葉を使っていた。つまり、精霊たちはみな同じ気持ちだということだ。少なくとも、メルはそう考えている。
「本当なら、僕もこんなに早くは来れなかったよ」
クドゥルの呟きが耳に入ったらしく、メルが言った。
「メルはみんなと一緒にいたのではないの?」
「うん。アイラと別れてから会ってない。みんなバラバラに弾き飛ばされたからね」
「もしかして、あんな形で契約を解いたのは、あなたたちの負担になることだったの?」
「それは大丈夫。いたって元気だと思うよ」
心配顔のアイラに明るく答えた後、メルはちょっと難しい顔になって続けた。
「ただ、少し面倒なことになってるかもしれなくて……もしかしたら、迎えに行った方がいいかもしれない」
「どういうこと?」
「うん。何があったのか最初から話すよ。クドゥル王子。君の疑問も大方それで解消できるんじゃないかな」
「それはありがたいな」
「うーん。それにしても、ちょっとこれは問題だね」
メルは改めてアイラの姿を上から下まで眺めて苦笑した。
「目立ち過ぎ。クドゥル王子も驚いたでしょ?」
「なんというか……衝撃的でしたね」
アイラとソランには意味の分からないやり取りだった。
「とりあえず応急処置が必要だね。うん。これでいいかな」
「ああ! すごいな。元に戻った」
クドゥルは感心し、それ以上に喜んだ。
何がそんなに嬉しいんだかと思いながら手すりにもたれたソランは、黄昏に沈みつつあるテラスに人影が近づいてくるのを認め、声をかけた。
「どちらさんで?」
手燭を軽くかざし、会釈を返したのはルルカだった。
「お待たせいたしまして申し訳ございませんでした。お部屋のご用意が整いましたので、ご案内いたします」




