十、花籠離宮の夕べ 4
脅威が去ったことを感じて、ソランは剣を鞘に納めた。
言葉と気迫だけであっという間にそれを追い払った少女は、それは嬉しそうな笑顔をアイラに向けている。アイラはというと、先ほどの襲撃よりも少女の存在の方がよほど衝撃だったようで、顔を強張らせて立ち尽くしていた。
「おい、姫さん大丈夫か? 真っ青じゃねえか」
声をかけたが、耳に入っていないようだ。今にも倒れそうな様子にソランは思わず手を伸ばしたが、アイラは無意識にそれを押し退けた。
「どうして……」
「良かった。間に合って」
淡い金の髪の少女は子どもらしからぬ穏やかな口調で言った。
「でも、驚いた。こんなに一人で頑張れるなんて思ってなかった」
「わたくし、一人ではなかったわ。ソランがいたもの」
答えはしたものの、自分が喋っていることを理解しているのか不安になるような棒読みだった。
「そうだね。守る人がいてくれてよかったよ。アイラは自分のことだとここまで必死になれなかったかもしれないし」
ソランは片眉を上げた。
――アイラを守ってくれる人がいてくれてよかったよ。
――アイラが守らなくてはならない人がいてくれてよかったよ。
どうも後者の意味合いに聞こえる。
守られる側と決めつけられることには釈然としない気持ちも多少あるが、それを否定するほどソランは恥知らずではない。理屈はわからないが、アイラがいなければソランは手も足も出なかった。
何より、新鮮だ。クドゥルに次いでアイラにまで庇護対象にされたことに、何とも言えない可笑しさが込み上げてくる。
その空気を感じたのか、メルは初めて真っ直ぐソランを見た。
見透かしたように空色の瞳が笑った。
「両方の意味だよ。アイラは君を守ろうとして力を出せた。そして、君もアイラを守ろうとしてくれたからアイラが力を貸せたんだよ」
少女は優しくほほえんだ。
「アイラを庇ってくれて、ありがとう。よく立ち向かったね。普通だったら腰をぬかすか逃げ出してるよ」
礼だけならまだしも、労われた上に褒められた。
アイラも見た目通りのか弱いお姫さまではなさそうだが、どうやらこの少女はその上を行く。
「こりゃあ参ったね」
ソランは言葉とは裏腹に楽しそうに呟いた。
一方、クドゥルを追いかけてきたキサリは、青銀の輝きに包まれたアイラや、宙に浮いた家具をしっかり目撃してしまい、怪魔憑きという噂は本当だった――と思ったが、賢明にも口には出さなかった。
「殿下、ご無事で」
キサリは彼なりに混乱していたし恐怖も感じていたのだが、真っ先に主君の安否を尋ねたのは、身に染みついた習性に他ならない。
「おまえ居たのか」
「居ましたよっ」
薄情な台詞にキサリは声を高くした。クドゥルに多少遅れて黒檀の間に入った彼も、王子と並んで壁に押し付けられていたというのに、まったく視界に入っていなかったらしい。
「ということは見てたのか」
「ほぼ殿下と同じものを見たと思いますよ。この部屋の有り様からして現実みたいですけど、夢でも見ていたような気分です」
「まあそうだろうな。それが普通だ。ちょうどいいから夢だと思って気にするな」
「いやいやいや気になりますよ。というか、殿下は説明できるんですか? なんなんですかこれは。何が起こって――」
「こっちです! 扉が開いています」
「まさかここに?」
「構わん! 行け!」
「ご無礼致します……!」
キサリの声を掻き消す勢いで駆け込んできたのは警備兵たちだった。総勢四人。しかも一人は警備隊長である。彼らは室内の惨状を目の当たりにして一様に絶句したが、次の瞬間、探していた不法侵入者を発見して声を上げた。
「あっ、あの娘です!」
「ちょっ、ちょっと待て!」
今にも少女に向かって突進しそうな警備兵たちをクドゥルが押しとどめる。
押しとどめながら、ちょうどアイラがソランの影に隠れてほとんど見えないな。よし、そのまま衝立の役割を全うしろよ! と、こんなときにもかかわらず心の中で密かに声援を送ったことには、さすがのキサリも気づかなかった。もちろん、警備兵たちは気づくはずもない。遅ればせながら彼らが気づいたのは、自分たちの行く手を遮るのが第四王子クドゥルだということだった。
「クドゥル殿下……! なぜこちらに?」
若い警備兵は驚きの声を上げた。どうも皆が皆、視界が狭くなっているようだ。
黒檀の間は先ほどまでとは別の意味で騒がしくなった。
駆け込んできた男たちが少女を見つけて色めき立つのを見たソランは、口笛でも吹きそうな調子で言った。
「ありゃあお嬢ちゃんを捕まえに来たんだな。なにやらかしたんだ?」
「急いでたからね。人目を気にしてる暇はなかったんだよ。あの人たちには悪いことしちゃったな」
確かに、こんな子どもの侵入を許したら警備の面目は丸つぶれだ。すぐにでも少女に向かって走り出しそうになるのをクドゥルが焦って止めている。
「彼女はアイラの客人だ」
クドゥルがそう言って宥めるのが聞こえ、ソランは少女に尋ねた。
「お嬢ちゃんはクドゥル王子とも知り合いか?」
「んー、なんて言うか、アイラを介した間接的な知り合い……かなあ」
「けどよ、姫さんはあんまりお嬢ちゃんを歓迎してないみたいだぜ?」
「それは……!」
アイラは顔を歪めてソランを振り仰いだ。けれど、言葉が続かない。
アイラはわけがわからなかった。会いたかったに決まっている。けれど、再会などありえないはずだった。こんなことは起こるはずがなかったのに、どうしてメルがここにいるのか理解できない。
「アイラ」
混乱するアイラを意図せず救ったのはクドゥルだった。
少女を追ってきた警備兵たちは、ひとまずキサリに押し付けてきたようだ。
アイラはクドゥルの顔を見てほっと息をついた。
「怪我はないか?」
「はい」
「そうか。状況を説明できるかい?」
「それが……わたくしにもよくわからないのです」
「ソラン」
「俺にもさっぱりです」
「おまえがここにいる理由は後でじっくり教えてもらうからな」
表面だけはにこやかな怖い笑顔で言い渡し、クドゥルは少女に向き直った。
「あなたは説明できるのでしょうね。聞かせてもらってもいいでしょうか」
丁寧な言葉遣いにソランは内心驚いた。へりくだっているわけではないが、少女に対して気を遣っているのは明らかだ。
「そうだね。全部は無理だけど、話せるところは話してもいいよ。知っておいてもらった方がいいこともあるからね」
「そう言われると怖いような気もするな」
「それは君次第だね」
ソランも大概言いたい放題しているから人のことは言えないが、年端もいかぬ少女の物言いとは思えない。クドゥルを相手に対等か、ともすると自分の方を上に置いて話しているように見える。そして、もっと奇妙なことに、クドゥルはそれを不満に思う様子もなく当然のこととして受け入れている。
少女はからかうような調子で続けた。
「ま、僕たちには共通の標語があるから平気でしょ」
目に見えぬ脅威を退けたことといい、普通の少女と言えないのは当然として、もしかして見た目通りの年齢ではないのかもしれないなどと考えていたソランは、耳に飛び込んできた単語に首を捻った。
「共通の標語?」
「つかめアイラのえがおー、できればひとりじめー、みたいな」
さすがに呆れたソランがそれを言葉にする前に、情けない呼び声が響いた。
「殿下!」
該当する人物はこの場に二人いたが、振り向いたのはクドゥルだけで、結果から言えばそれは正解だった。
見ればキサリが困り果てた顔で助けを求めている。
「この方たちまったく引いてくださらないのですけど! なんとかしてください!」
「王子サマが問題ないと言ったのに、ずいぶんしつこい連中だな」
「彼らはヒュダト兄上の直属だからね。ここに配されたのも兄上の指示だ。仕方がないな。ちょっと行ってくる」
クドゥルがいなくなったところで、ソランは素朴でいて核心を突く疑問を口にした。
「ところで、お嬢ちゃんはいったいなんなんだ?」
単なる素性というよりは、もっと根本的な在りようを見極めようとする眼差しに、対する少女の答えは簡潔だった。
「アイラの守護者だよ」
「違うわ! もう、違う」
「違わないよ」
アイラは頑固に首を横に振る。
そのやり取りでソランはぴんときた。
「成程なあ。姫さんが恋しがって泣いてた相手のお出ましってことかい。まさかこんな可愛らしいのだったとはねえ」
言ってから、ソランはふとアイラがその相手について語った言葉を思い出し、首を捻った。
「このお嬢ちゃんのどこが俺に似てるんだ?」
「なにそれ?」
「目が黒くて、体が大きいって聞いたぜ? ん? するってえと俺の勘違いか?」
「アイラがそんなことまで言ったの? それに、君の前でアイラが泣いた? 聞き捨てならないなあ」
「そう怖い顔するな。俺が泣かせたわけじゃねえよ」
少女は意味ありげにソランを見上げた。
「僕はアイラのことなら大概のことは知ってるけど、君のことは知らないな」
「彼は、ソラン」
アイラは素早く口を挟んだ。そして、寄り添うようにソランの横に身を寄せて、はっきりと告げた。
「わたくしの婚約者よ」
少女は空色の双眸を見張った。
まじまじとソランを見上げ、ややあって口の端を上げた。
「……ふうん。君がねえ」
値踏みしていることを隠そうともしない視線を正面から浴びせられたソランは、居心地の悪いことこの上なかった。その上、何故かアイラはソランの腕をぎゅっと掴んで離さない。
またこの姫さまは……と、ため息をつきそうになる。そう無防備に男に体を押しつけるのはやめたほうがいいと言っても、きっとわからないのだろうなあ、という諦めの境地にソランはいた。
娘を案じる父親というのはこんな気分なのだろうか。しかし、保護者と言い切るには少々怪しい部分もあり、そうすると、少女の言った守護者というのは非常に都合のいい言葉のような気がしてきた。などと思ってしまう時点でかなり調子を狂わされている。
ソランは軽く体を引いてみた。それによって隙間はできたが、アイラの手はソランに触れたままだ。右肩の下あたりから視線を感じる。あの青紫の瞳に見つめられているかと思うとなにやら落ち着かない。彼女の瞳には魔力でも宿っているのではなかろうか――あまりに恥ずかしい思考に自分で自分を殴りたくなった。
少女はアイラとソランを見比べて、微笑した。
「思ってたよりまともそうだ」
何をもって少女がそう判断したのかは不明だが、どうやら王女の守護者様に一昨日きやがれと叩き出されずにすみそうだ。
「そりゃあどうも」
「みんながなんて言うか楽しみだな」
「みんな?」
「そう。例えば黒い目の人とか大きな体の人とかね」
「姫さんの守護者ってのは嬢ちゃんだけじゃねえのか?」
「そうだよ。他に四人いる」
「へえ。するとお嬢ちゃんを入れて五人か……あ、殿下。あいつら追っ払えましたか?」
つかつかと不機嫌顔で戻ってきたクドゥルは、無言でアイラとソランを引き離した。
「ぶっ」
少女が堪えきれずに噴き出した。
「やだなあもう。自分で彼をアイラの婚約者にしたくせに」
「ソランがそう言ったのか?」
「違うよ。何か手は打ってそうだとは思ってたから。一緒にいるし、彼がそうなんだろうなあっていう推察」
「当たりですよ。だからどうせすぐに婚約は解消だ」
「解消……?」
アイラの呟きは小さすぎて、ソランもクドゥルも気がつかなかった。
「とにかく! アイラに触るな近寄るな。油断も隙もない」
「そりゃ少しひどくないですか? 人を害虫みたいに。俺はこれ以上にないくらいお上品に振る舞ってますよ」
「いくら振る舞いに気を付けても性格は変わらないからな。悪影響を与えるに違いない」
「言いがかりですよ。そんなに言うなら具体例を挙げてください。例えばどんなことですかね?」
「悪趣味が感染る」
「感染るわけないでしょうが。そもそも俺の趣味は悪くないですよ」
「自分の店に紅蜘蛛亭なんてつける男は悪趣味だろう」
「うちは紅雲ですって。赤く染まったきれいな夕焼け雲を見たらうちを思い出して寄ってほしいなーという」
「それはそれで胡散臭いな」
「さらっと傷つくことを言ってくれますね」
ふざけているのか真面目なのか、ぽんぽんと調子のよい応酬は妙に息が合っていた。
「紅蜘蛛を連想されたって、あれは美女だって相場は決まってる。別に悪かあねえでしょう。まあ、ちょっとした洒落です」
「それが悪趣味なんだ」
「ねえねえ、彼のお店って男の人をばりばり食べちゃうような女の人がいる店なの?」
見た目は抜群に可愛らしい少女にあっけらかんと問われて、男二人は我に返った。
「あー……俺と殿下の会話の方が教育上良くなかったですかね」
「不本意ながら、そのようだ」
「僕に気を遣わなくてもいいよ。アイラは――」
クドゥルとソランを交互に見やり首をかしげるアイラの様子に、少女は苦笑した。
「たぶん右から左に抜けてるよ」
少女はアイラの正面に立つと真面目くさった顔で言った。
「あれだね。アイラは僕のそばにいた方がいいみたいだよ。それが一番、平和的」
アイラはきゅっとこぶしを握った。
戸惑うアイラを置き去りにしてどんどん場に馴染んでいく少女に向かい、アイラは意を決して口を開きかけた。しかしその決意も空しく、彼女の勇気を振り絞った行動はやってきたキサリに出端をくじかれ、不発に終わった。
「ご歓談中申し訳ないのですが……。皆さま。よろしいですか」
「なんだキサリ」
「ここを少し片づけて、アイラ様のお荷物を隣の部屋へ移動しますから、ここにいられると邪魔なんですよ」
それは確かにその通りなのだろうが、仕える王子にはっきり邪魔と言い放つキサリはなかなか遠慮がない。
キサリはすっと左手を伸ばした。
「テラスへ出ていていただけますか」
そうして西日が目に眩しく射し始めるころ、四人は部屋の外へ追い出された。
テラスの床はほんのり淡い藤色のタイルが敷き詰められており、きらきらと光を反射する瑠璃色と翡翠色の小さなタイルで幾何模様が描かれている。大小の藍色の鉢にはこんもりと緑が植えられていて、他には華奢なテーブルと椅子、それからベンチがあった。
ソランは横抱きにしていたアイラを、意外なほど優雅な動作で腕から降ろした。
居間からテラスへ移動するにあたり、床にいろいろなものが散乱していて危険だと、最初にアイラを抱き上げようとしたのはクドゥルだった。アイラは自分で歩いて行けると主張したが、強硬な反対にあって許されなかった。結局アイラは運ばれることを承諾し、異母兄ではなく婚約者を指名した。
「ソランがいい」
アイラにそう言われたときのクドゥルの顔といったらなかった。
ちなみに少女は、このくらいの距離なら跳べると言って、その通りにした。
軽々とアイラを抱き上げたソランは面白そうに尋ねた。
「どうして俺なんだい?」
「だって、申し訳なくて……」
アイラは、リエラのようにクドゥルを『お兄さま』とは呼ばない。同じ国王の子であっても、他の兄弟姉妹と対等ではない。一歩下がって控えるべき立場なのだという自覚がそうさせていた。
「確かに、俺に遠慮は要らねえな」
「あなたを軽んじているのではないのです」
「わかってるさ。それにこの場合、相手があの人じゃなかったとしても、俺が妥当なんだろうぜ」
ソランが妥当だと言ったその理由が、婚約者という一点にあることに思い至り、アイラは連鎖的に先のクドゥルの台詞を思い出した。
ソランはテラスの中央辺りまで進み、腰を落としてアイラの足をそっと床に着けた。
「ありがとうございます」
アイラは立ち上がって、軽くスカートの前部分を撫で下ろした。ふわりとタイルの上で裾が揺れる。
「ソラン」
アイラは思い出した疑問をソランにぶつけた。
「先ほどクドゥル様がおっしゃっていましたが、わたくしとの婚約は解消なさるのですか?」
「俺はそうするように言われてる」
「当たり前だ」
アイラに拒絶された落ち込みから復活したらしいクドゥルが口を挟んだ。
「私は最初からこんな婚約は認められないと言っている。アイラも同意してくれただろう」
アイラは身に覚えのないことを言われ、驚いて否定した。
「いいえ。婚約は受け入れます。精霊たちを説得するつもりでした」
「そうなんだよ。クドゥル王子。アイラを読み切れてなかったねー。残念でした」
「そうきたか……」
クドゥルは額を抑えて唸った。
アイラは再びソランに尋ねた。
「ソラン。あなたはどうするつもりなの?」
「俺ですか?」
「あなたもクドゥル様と同様、一時的な婚約のつもりでいたの?」
「まあ、そうですね。その予定で引き受けましたよ」
「だからわたくしに触れなかったのね……」
アイラがぽつりと漏らした呟きに、真っ先に反応したのは少女だった。
「今のどういうこと? なんかすごく意味深に聞こえたんだけど」
「わたくしに触れたいとソラ――」
「おい! 姫さん待て!」
ソランは焦ってアイラの言葉を遮った。
しかし、少女の耳はしっかり言いかけの単語を拾っていた。
「触れたい? ソランがアイラにそう言ったの?」
「おまえたち私が来る前にいったい何をしてたんだ?!」
クドゥルの声が大きくなる。
「僕が来たときも思い切り腰を抱いてたし、さっきだって抱き上げてたよねえ。え? それは数に入らないって何? それ以上の接触って」
「おまえアイラに何をした!」
「何もしてねえって! 姫さんは触れなかったと言ったんでしょうが!」
「ソランの言う通りです」
けっこうな騒ぎになっていたが、幸か不幸かアイラの声は良く通る。
「わたくしは好きにして構わないと申しましたが」
「おいおい! 頼むから姫さんは黙っててくんねえかな。あんたが喋るたび俺を窮地に追い込んでるって気づいてくれよ」
「……ソラン、そこへ直れ」
ついにクドゥルの声が聞いたこともないくらい低くなった。目が完全に据わっている。
「殿下。俺は潔白ですよ。こちらの王女殿下の突拍子のなさは殿下の方がよくご存じでしょう。俺は終始振り回されてただけです。まさにこんな感じで!」
「ああ成程ねえ。なんとなく状況がつかめたかも」
少女は呑気にぽんと手を打った。




