十、花籠離宮の夕べ 2
ソランは笑みを消してアイラを見た。
「本当にわかってるのかい? 婚約者ってのは、姫さんに触れても許される男のことを言うんだぜ? 姫さんは自分が男をそそるってことを自覚した方がいい」
「わたくしに触りたいの?」
「そうだと言ったら、触らせてくれるのかい?」
「ええ」
ソランは目を丸くした。
「本気ですか?」
「どうぞ。お好きに触ってください」
「姫さん……あんた、そりゃあねえよ」
男は頭を抱えた。
「何か、お気に召しませんでしたか?」
「意味が分かって言ってるのか?」
「意味?」
「ただ手を握ってダンスをしたいわけじゃあないってことですよ」
「はい。婚約者や配偶者にだけ許される触れかただと解釈しましたが、違いましたか?」
「違わねぇ。けどな」
怪しいながら辛うじて体裁を保っていた言葉遣いが完全に素に戻ってしまった。
「婚約者だからってそう簡単に頷くのはどうかと思うぜ?」
「ああ、確か、正式に結婚するまでは奨励されないのでしたね」
アイラは知識を浚うような口調で誰にともなく呟いた。言ってから、ふと考えた。
アイラの母は嫁ぐ前にアイラを産んだ。婚約者以外との間のことで、変則的な事例だから参考にはならないかもしれないが、大雑把にまとめると、つまり、何事にも例外はあるということなのだろう。ソランはシュタル王が認めた相手なのだし、彼が望むのなら拒む理由はこれといってないように思う。
アイラ独特の至極大胆な論理展開は、危険な発言に拍車をかける。
「でも、絶対ではないのでしょう?」
ソランはあっけにとられた。
これでは誘っているととられても文句は言えない。女として当然持っているべき身の安全に対する危機感が、ごっそり抜け落ちているとしか思えない。
「……姫さん、あんた腹に子どもでもできたらどうするつもりだ」
最後の足掻きのような気分でソランが言うと、アイラは不思議そうに小首を傾げた。
「跡継ぎは欲しくありませんか?」
「そういうことを言ってるんじゃあねえよ」
「わたくしには産んで欲しくないということでしょうか?」
「だから、俺のことじゃねえんだよ。困るのはあんたの方だろうが」
アイラはますます不思議そうな顔になった。
「困るようなことはないと思います。あなたはわたくしと結婚するのですし、ありがたいことに、出産と子育てを手伝ってくださる方を雇うくらいのことはできます。何もかもうまくできるとは思いませんが、大切に育てます」
明らかに論点が違う。
ソランは悟った。
これは駄目だ。何が駄目だって、この姫さまは、己の言動の危うさも、何を心配されているのかも、きっと理解できない。それくらい変だ。箍が外れているというべきか、度量が広すぎるというべきか、恐ろしい。
ここは、通常なら、怖さを思い知ってもらうために脅かしておく必要のある場面だ。大人ぶった子どもが本当に火傷をする前に、お灸を据えるのは大人の義務だろう。
しかし、このままソランが、では遠慮なくと行動に出たところで、すんなりと受け入れそうな気がする。というか、たぶん、そうなる。動じないにもほどがある。
つくづく思い知った。ミリュウ王子とクドゥル王子の焦燥と心配も仕方のないことだったのだ。
武術大会への出場を頼んできたときの、ミリュウ王子の言葉を思い出す。
『アイラはね、私の体のことはひどく案じてくれるのに、自分の身は粗末にしがちなんだよ。我慢するとか、犠牲になるなんて考えはアイラにはない。ただ、気にしない。自分が傷つくことにあまりにも無頓着なんだ。あの子にとってはそれは本当に痛くも痒くもないどうでもいいことなのかもしれない。でも、私は嫌なんだ。もっと、大切にしてほしいんだよ』
己を曲げない頑固さとは裏腹な、形あるものや目に見えるものへのアイラの無頓着さは、王子たちには歯がゆいことこの上なく、これまで散々気を揉ませてきたが故の台詞だった。
あのときはよく意味がつかめなかったが、今なら王子の言いたかったことが少しはわかる気がする。心と体を完全に切り離して考える、そんな思考は普通できない。けれど、この姫さまはそれができる。理屈ではなくソランにはわかった。
むしろ、そういう考え方しかできないのかもしれない。この姫さまはどこかで、自分を違う生き物だと思っているのではないか。優越感や選民意識ではなく、ただ、種類の違う生き物だと。
なぜそんなことを考えたのかわからない。けれど、それはある意味アイラの本質を突いていた。精霊たちが危惧したアイラの歪みをソランは直感的に察知した。
しかし、アイラがどう自分を認識しようと、アイラは人なのだ。現実には、彼女が思っているほど、彼女の心は体と切り離されていない。心の痛みは、正しく体に表れる。
だから、あんなふうに泣くのだ。
ひどく辛そうに、混乱して、持て余して、耐えるように。
そうであるなら、逆もしかり。体の痛みも心に表れるに決まっている。なのにこの姫様は、まるで自分の肉体に価値がないかのように振る舞うのだ。兄王子たちが過保護になるのもわかる気がする。
ソランは少しだけアイラとの距離を詰めて、彼女の前に膝をついた。
「どうして泣いていたんだ?」
脈絡のない問いかけになったが、アイラは間を置くことなく答えた。
「わかりません」
「わからない?」
「勝手に、零れて、止まらなくなって――」
「何を考えたらそうなった? 何を、思ってた?」
アイラの表情が、頼りない心細げなものに変わった。
「――いなくなってしまった、ひと」
「そいつのことが好きなのか?」
「好き。なのに、もう、会えない。考えると胸が、痛くて」
アイラはぎゅうっと胸を押さえた。
「これは、なんなのかしら。こんな辛い思い、初めてなの」
ソランは言い聞かせるように、ゆっくりと言った。
「それは、切ないというんだ」
「切ない……?」
「戻らない、手に入らない恋しいものを想って胸を痛めることさ」
アイラの双眸には、いつの間にかいっぱいに涙がたまっていた。
「そう……これが、切ないという感情なのね」
見開いた目から、ほろりと大粒の涙が零れ落ちる。
ソランは大きな手を伸ばした。アイラの輪郭をなぞるように指を滑らせ、耳の後ろから包み込むようにして頬に触れた。
なんという不均衡。危なっかしくて見ていられない。
「泣きたいときは一人で泣くな。そういうときのために、婚約者ってのはいるんだぜ」
「初めて聞きました」
「俺も初めて言った」
「わたくし、あなたの黒い目が好きだわ」
止まらない雫を指で拭ってやりながら、ソランは笑った。
「そいつの目も黒かったのかい?」
「ええ」
「それに、あなたみたいに背が高くて、大きかった」
「それから?」
「話し方も、少し似てる」
浮かんだいくつもの面影に、アイラはまた涙をこぼした。
「そりゃあいい」
ソランはアイラの腰に腕を回して胸の中に抱き寄せた。簡単に抱え上げて、膝の上に乗せてしまう。
「今まで、我慢してたんだろう? もういいから、好きなだけ泣いとけ」
痛々しいほどに神経を張りつめていた少女。あんなに気を張っていたのでは疲れるばかりだろうと思った。
彼女を目にした時間はほんのわずかだ。
道中、休憩を取ったとき、一度だけ馬車の外に降りてきた。例の如く顔は隠していたが、クドゥル王子とリエラ王女に挟まれて、静かに立っていた。それでも、いやむしろ、離れて見ているからこそわかることもある。
最初から興味はあった。だから、自然と熱のこもった観察になり、気づいたのかもしれない。
アイラはクドゥルに気を許していなかった。リエラ王女に寄り添いながら、クドゥルの動向に注意を向けているような、そんな印象を受けた。
馬車の中の一幕を与り知らぬソランには、アイラの態度の理由は知る由もなく、溺愛している妹に警戒されるとは報われないことだと、軽く同情を覚えた。
離宮に着いて、リエラ王女がルルカという侍女と言葉を交わしたとき初めて、アイラの空気が和らいだ。なるほどと思った。
彼女は本当に妹王女が大切なのだ。しかし、リエラ王女やクドゥル王子の前では吐き出せないものも抱えている。
緊張が緩むのは、一人になったときだ。そして、緊張の度合いが大きいほど、それを強いられた時間が長いほど、緩んだときの反動は大きい。
柄にもなく気になって来てみれば、案の定だ。声を殺して一人嗚咽を堪えていた。
いろいろと予想外の展開もあったが、それも含めて面白いと思ったことは否めない。放っておくという選択肢もあったはずなのに、気がついたらこの有様だ。
これではクドゥル王子を笑えない。
まだ、捕まったとまでは言えないが、このまま関わり続ければそれも時間の問題だと、早く逃げた方がいいと警鐘が鳴る。だが同時に、捕まってみたいと思わせるところが最高に質が悪い。抗いがたい誘惑だ。
銀色の髪が乱れ散る震える背中が目に入る。女の涙にほだされるほど純情ではないはずだ。それに、女と言い切るにはまだ年が足らないとも思う。
自分の中に生まれた感情を素直に認めるのは悔しいような気もして、ソランはアイラを抱えて半ば途方に暮れていた。
その大きな体に、突如、緊張が走った。肌に突き刺さる物騒な気配を感知して、ソランを包む空気が一変する。別人のように鋭い視線がテラスへ続く硝子戸へ走り、左手は無意識に床に置いた剣の鞘を握る。
両開きの戸が、すうっと音もなく開いた。
「下がって」
今まさに自分が言おうとした台詞の先を越され、驚くソランの肩にアイラの手がかかる。荒事とは無縁のはずの少女が過たず殺気の源を注視したまま、立ち上がった。当然のようにソランを庇って前へ出ようとした細い体に慌てて手を伸ばした。
だが、ソランが引き寄せる前にアイラの体が背中から胸の中に飛び込んできた。
華奢な少女がぶつかってもソランはどうということはないが、アイラには相当の衝撃があったのだろう。短い悲鳴を上げてそのままずるりと落ちかけた体を支えると、アイラは踏みとどまって顔を上げた。
「あなたは誰?」
誰もいない場所に問いかけるアイラの肩に、ぐっと力が入ったのを感じる。
「なぜ、こんなことをするの?」
声が辛そうに掠れ、呼吸が浅く不規則になる。
ソランには何が起こっているのかさっぱりわからなかったが、アイラの身を良くないものが襲い、彼女が一人で耐えていることはわかった。
「姫さん、あんたには何が見えてる?」
「あなたは、自分の部屋へ戻りなさい」
「馬鹿言うな」
「ここにいても、あなたには、何もできないわ」
アイラはソランから離れようと体をよじったが、アイラがいくら暴れようと、腕力でソランを振り払えるはずがない。
このままでは埒が明かないと思ったのか、アイラは大胆にも相対していた何かに背を向けて、くるりとソランに向き直った。ほぼ真下から見上げる瞳とかちりと目があう。泣いて腫れた瞼の縁にまだ濡れた睫毛が見える。だが、赤く充血した目はもう乾いていた。
「早く、出て行って! ――ああっ」
アイラは声を上げて背を反らせた。
「姫さん……! くそ、何が――」
悪態をつきかけて、ソランは目を凝らした。何かが見える。何か、ではない。ぼんやりとだが、確かに人の形をしたものがそこにいる。
ソランは一瞬も迷わなかった。アイラを自分の背後に押しやると、抜きざまに斬りつけた。
「なっ」
声を上げたのはソランだった。ついさっきまで見えていたものが、また見えなくなっている。
「だめよ。その剣では斬れないわ!」
アイラはソランの腕にしがみついた。途端、ソランの目が人影を捉えた。
ぞくりと肌が泡立つ。アイラにだけ向いていた殺気がソランにも向けられた瞬間だった。
迫りくる圧力にソランは咄嗟に剣を振るった。手ごたえはあった。斬った、というよりも刀身に重い塊がぶつかって弾けたような感覚だ。
「あなた……」
「わかったぜ、姫さん。あんたに触れてると、俺にもどうにかなるようだ」
ソランは片手でアイラを抱き寄せ、剣を構え直した。




