十、花籠離宮の夕べ 1
花籠離宮はセイラン郊外にある王家所有の別荘で、風情のある庭と瀟洒な建物の美しい離宮だった。お披露目前の国王の愛妾に与えられたり、内密の会談の場になったり、目立たずこっそり何かをしたいときに使われることが多い。
そのため、敷地の外から中を窺うことは難しい造りになっている。
夕刻、離宮に到着したアイラたち一行は丁重な出迎えを受けた。
「クドゥル殿下、ご無事のご到着、祝着に存じます」
ルルカは艶やかな黒髪をふんわりと結い上げた優しげな女性だった。その後ろには、お仕着せを着た侍女が五人控えており、六人は角度まで見事に揃った礼を披露した。
他にも王宮から連れてきた従僕や小間使いがいるはずだが、出迎えを暁の館で馴染みの女性に限ったのは、主にリエラ王女への配慮だった。ミバから護衛を務めた騎士たちは、離宮の警備についている近衛の責任者に指示を仰ぎに行っており、ここにいるのはクドゥルと二人の王女、それにソランとキサリだった。
このとき、ソランはまだ王女たちに正式に紹介されていないどころか、近くに立ったのは今が初めてだった。だから、リエラもアイラも、彼をクドゥルの供の一人としか認識していない。
ちなみに、アイラは薄絹を被いている。それなしでは、リエラとクドゥルが断固として馬車から降ろしてくれなかったからだ。
「ルルカ……!」
リエラは我慢できずにクドゥルの後ろから飛び出した。
「リエラ様! ご無事でようございました……!」
ルルカは込み上げる感情を抑えかねて声を震わせたが、一旦クドゥルに向き直り、職務上の報告を優先させた。
「すべて御指示の通り滞りなく整えてございます」
「御苦労だった」
「一先ずお部屋でお休みくださいませ」
ルルカが侍女たちに目配せすると、まずクドゥル王子の前に案内の侍女が立った。
クドゥルはごく自然にアイラに手を差し出しそうになったが、人目のある場所でリエラを差し置いて構い過ぎるのもよくないかと思いとどまり、侍女たちに声をかけた。
「妹たちをよろしく頼むよ」
クドゥルがキサリとソランを引き連れ、離宮の奥に向かうと、ルルカはこれでようやく心置きなくリエラに寄り添えると思ったようで、取り乱しこそしなかったが、感慨も一入といった様子で目を潤ませてリエラを見つめた。そこで初めて頬の傷跡に気づいたルルカは息を呑んだ。
「なんということ……! ああ……さぞ恐ろしかったことでございましょう」
リエラも見事に雰囲気に引きずられ、二人は芝居がかった感動の再会を繰り広げた。
ひとしきり、大仰な主従のやり取りがなされた後、ルルカは目元をぬぐいながらリエラを促した。
「さあ、リエラ様。お部屋はこちらでございます。どうぞお越しくださいませ。お疲れでございましょう。お好きなお飲み物とお菓子をご用意しておりますわ。それともすぐにお休みなされますか? 湯あみの支度もできております。リエラ様のお好きな菫の精油もございます。温まられたら手足をお揉みいたしましょう」
ほとんど攫われるようにして連れて行かれたリエラと違い、アイラは腫れ物に触るような扱いで離宮の一室に案内された。
豪華さや仰々しさよりも、端正な品の良さを意識した色使いの部屋だった。藍色の陶器、薄い灰色の天鵞絨、銀通しの青鈍色の垂れ幕、黒檀の小卓、ごくわずかに使われた焦げ茶と金が華やぎを添えて、洗練された趣味の高さを感じる。
漆黒の飾り枠を施された両開きの硝子戸の外には小さなテラスがあった。庭では薄黄色の花房が満開で、微風にほろほろと揺れる様子が見える。反対の奥にある扉は寝室に続いているのだろう。
世話はいいので一人にしてほしいと告げると、侍女はほっとした様子で出て行った。
アイラは薄絹を頭から滑らせて肩に落とすと余った両端を腕に絡ませた。それから硝子の水差しを取ってグラスに水を注いだ。ゆっくり一口含んで飲み下す。こくりこくりと続けて半分ほど飲んでしまって、グラスを置いた。
クドゥル王子に、何を、どこまで話すべきだろう。
考えても、正しい判断ができるとは思えなかった。そもそも、どうなることが正しいのかわからない。どうしたいのかも曖昧だ。こうなりたいという未来図が描けないのに、そこに至る正しい手段など選択できるはずがなかった。
アイラは糸の切れた人形のように、天鵞絨張りの大きな肘掛け椅子に沈み込んだ。行儀が悪いとわかっていたが、膝を抱えて小さく背を丸める。
花籠離宮に着いて、アイラはどれだけ安心したことだろう。
ここはまだ王宮ではないが、王家の領域内には違いない。言うなれば、リエラの慣れ親しんだ環境だ。そこではリエラをよく知る侍女たちが王女のために心を尽くすだろう。リエラもルルカになら安心して所持万端を任せられるに違いない。
アイラは膝に回した腕に力を込めた。
「ギル……」
アイラは驚いて唇を押さえた。
リエラを守るという一心で抑圧していた感情が抑えを失って噴き出した瞬間だった。
無意識の呟きは、アイラの希求する心を如実に表している。
逢いたかった。いつものように、そっと頭に手を置いてほしい。低く響く穏やかな声で呼んでほしい。空色の瞳で微笑んでほしい。明るい笑い声が聞きたい。優しく抱き寄せる腕が恋しい。
「ギル……セリム……、メ……ル……、カタム……ゼラ……っ」
愛しくて愛しくてたまらない言の葉は、一度こぼれてしまうと止まらなかった。
瞬いた瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれた。びっくりするくらい、止まらない。胸にあふれる思いも、両の目からあふれる雫も、尽きることがない。
こんな感情をアイラは知らなかった。
悲しさと恋しさで胸が締めつけられる。
嗚咽がこみ上げる。
「メ、ルっ、セ、リム……ゼラ……ぁ……カタ、ぅ……」
アイラはひゅっと息を吸った。
「ギル――っ」
たまらなくて、口を覆った。
これ以上、呼んでしまったらいけないと思った。
「ぅ……っ……」
声を殺して、身体を丸めた。曲げた膝に額を押し付けて、ぎゅっと目を閉じた。
アイラは堪えることに一生懸命で、だから近づいてくる気配に気が付かなかった。
「姫さん」
アイラはびくりと震えて目を開いた。聞いたことのない声。見上げると、一応、知った顔があった。クドゥルが連れていた従者の一人だ。
「そんなふうに泣いちゃあいけないよ」
男の声は優しかった。クドゥルは彼のことを、確か、こう呼んでいた。
「ソラン」
男は闇色の双眸を上機嫌の猫のように細めた。
「名前を呼んでくれるたぁ嬉しいね。あんたの声はすごくいい。喜んで惑わされてやろうって気にさせる」
意味が良く理解できなかったが、声を褒められたことだけはわかった。
「わたくし、の、こえ……聞きにきた……の?」
「いいや。挨拶に来た」
「あいさつ……?」
「このままじゃあ恰好がつかないから起きてくれるかい?」
まだ幾分頭が働いていないアイラは、素直に曲げていた膝を下ろして、椅子に浅く座り直した。
まだ濡れている瞳がソランを見上げる。少しだけ不安そうに寄せた眉。噛みしめていたせいで赤さを増した唇と、涙の痕の残る頬。ソランは眉間にしわを刻んだ。
「あんまり男にそういう顔を見せるもんじゃないよ」
「ごめんなさい」
見苦しいところを見せてしまったと思ったアイラは俯いて、腕に絡めた薄絹で頬を拭った。
ソランは腰の剣を床に置いて、アイラの前にしゃがみ込んだ。今度は男が見上げる形になる。
「俺は、姫さんの婚約者だよ」
アイラは黙って男を見つめた。心を隠すことを知らない真っ直ぐな眼差しを、男は怯むことなく受けとめた。
やがて、アイラはゆっくりと首を傾けた。
「不思議」
泣いていたせいか、アイラの声は少し掠れていた。
「何が?」
「あなたは、ちゃんとわたくしを見ているから。きっと、わたくしのことなんて見もしないと思っていたのに……」
「へえ?」
好奇心を刺激されたのか、男の目が楽しげにきらりと光った。
「姫さんはそれで良かったのか?」
「だって、わたくしも興味がなかったから」
男は堪えきれず失笑した。
「そりゃ、確かに、道理だな」
肩を震わせながら、男は笑った。
「そんなにおかしい?」
「いや、感心した。徹底してる」
アイラはなぜか安堵の表情を浮かべた。
「やっぱり、その方がいいしょう? 少し、前に、きちんとあなたのことを考えなければならないと注意されてしまって、でもどうしたらいいのかわからなくて、困っていたのですけど、そうする理由もなくなったので」
「待った。何を言っているのかよくわからないんだが」
「わたくしがあなたのなさることに口出ししないほうが、煩わしくなくてよろしいでしょう?」
当然のように言われたが、微妙に先の台詞と繋がっていないような気がする。ソランは苦し紛れに、彼なりにありがちな思いつきを言ってみた。
「それは、お互い不干渉の仮面夫婦を演じようという提案かな?」
「仮面?」
アイラは怪訝な顔になった。
「夫婦で仮面を被るのですか? なんだか邪魔そうですけど」
「いやそういうことではなく」
「もしかして、わたくしに仮面をつけろと仰っているのでしょうか? あの……リエラもクドゥル様も、わたくしの顔を隠そうとしているようなんです。王宮の外の方に会ったことがないので気がつかなかったのですけど、見せないほうがいいくらい、そんなに変な顔なのでしょうか?」
アイラは真剣な顔で言い募り、肩に降ろしていた薄絹をそろそろと持ち上げて頭にかぶると顔の前で交差させた。
「そうでした。最初に顔を見せるなと言われていましたのに……」
「見せるなと言ったのは、あんまり目の毒な……いやいや」
ソランは言い掛けて途中で首を振った。こういう言い方ではまた違う方向に勘違いする。しかし、ソランに馴染のある言葉を使うのはさすがに躊躇われた。別の意味にとられない、精一杯お上品な単語を探して頭を回転させる。
「ええと、ですね、とても扇情的だったので」
「扇情的、ですか?」
アイラは薄絹の隙間から少しだけ目を覗かせた。
長い銀色の睫毛の向こうに、青い炎が揺れるような紫がかった瞳が垣間見える。
ソランはなぜだか一気にすべてが面倒くさくなった。
そんな目をされたらどうしようもない。抵抗するのが空しくもなる。
「ったく……」
「ソラン?」
「――男の情欲を煽るんだよ。あんたは」
それでも抑えた言い回しになったのは、我ながら上出来だったと思う。
アイラはぱちぱちと瞬きした。顔を隠す薄絹を持つ白い手がぱたりと膝に落ちる。
現れた清雅な顔を見上げて、今度は何を言い出すのかとソランは知らず身構えた。
「気をつけます。でも、そういうことなら、あなたになら見せてもよいのではないでしょうか」
身構えていたにもかかわらず、ソランは自分の額を手のひらで叩いた。
「あんたが本気だってのはわかるが、性質が悪すぎるぜ」




