第3話 栄転という名前の追放
成人の儀を終えて自室へ戻ると、俺の荷物はすでに半分ほど箱へ詰められていた。
「……仕事が早いな」
思わず感心すると、衣装棚の前にいた従者トーマが、畳んでいた上着を取り落とした。
「殿下、これは、その……」
「責めていない。いつ出発しろと言われた?」
「三日後でございます」
俺が北部へ送られると決まってから、まだ一時間も経っていない。
いや、正式な辞令すら受け取っていなかった。
「ずいぶん前から準備していたように見えるが」
「その……成人の儀で、もしも殿下が地方赴任に適した天恵を授かった場合に備えるよう、昨日のうちに侍従長から命じられておりました」
「なるほど」
俺が強い天恵を授かるとは、最初から誰も考えていなかったらしい。
自分でも意外なほど、腹は立たなかった。
レオンとして王宮で暮らしてきた十六年間、こういう扱いには慣れていた。
ただ、その慣れているという感覚に、久我直人としての三十四年間が反発している。
社員の配属先を、本人に知らせる前から机ごと片づけるようなものだ。前世でそれをやった管理職がいたら、俺は本人のところまで文句を言いに行っただろう。
「トーマは北部へ同行するのか?」
「わ、私は……」
四十歳を過ぎた従者が、見るからに困った顔をした。
目が泳ぐ。額に汗が浮かぶ。何かを言おうとして唇だけが動く。
見ているこちらまで苦しくなった。
「行きたくないなら、そう言えばいい」
「申し訳ございません!」
トーマは、その場に膝をついた。
「妻が、もうすぐ子を産みます。初めての子でして……北部までお供すべきことは分かっております。けれど、今、王都を離れるわけには……」
「それなら残れ」
「ですが」
「俺についてきて、北部で妻の心配ばかりされても困る。仕事にならないだろう」
「殿下は、私をお怒りでは……」
「少しは腹が立っている」
正直に言うと、トーマは顔を上げた。
「一緒に来てくれれば助かるからな。知らない土地へ行くんだ。顔見知りが一人でもいたほうが心強い。だから残念ではある」
「……はい」
「だが、俺の都合でお前の子供から父親を取り上げるほど怒ってはいない。王宮に残れ。侍従長には俺から話す」
トーマは深く頭を下げた。
感謝されるようなことではない。
それでも、これで俺に同行する古参の使用人は一人もいなくなった。
人間というものは、情だけでは動かない。
家族がいる。生活がある。出世の見込みも考える。
最低等級の天恵を授かり、辺境へ追いやられる王子についていきたい人間など、普通はいない。
「殿下。国王陛下がお呼びです」
扉の外から声がかかった。
やっと正式な辞令を渡してくれるらしい。
◇
父は謁見の間ではなく、私的な書斎で待っていた。
人払いがされており、室内には俺と父しかいない。
机の上には、二枚の辞令書と、小さな銀の印章が置かれていた。
「座りなさい」
「失礼します」
「二人きりだ。そこまで堅くならなくてもよい」
「急に親子らしく振る舞えと言われても困ります」
言ってから、少しきつかったかと思った。
だが、謝る気にはなれなかった。
父は疲れたように息を吐き、椅子の背にもたれた。
「怒っているのか」
「何に対してでしょう。F等級だったことですか。それとも、本人が知らないうちに荷物をまとめられていたことですか」
「荷造りについては、私の命令ではない」
「止めることはできたでしょう」
「……そうだな」
父があっさり認めたので、逆に言葉に詰まった。
もっと王としての事情を並べてくると思っていた。
「グラウゼン行きは追放ではない」
「では、なぜ誰も赴任したがらないのですか」
「あの土地は重要だ。北の国境を守る要衝でもある」
「重要なのに食糧管理官が半年も空席です」
「よく調べているな」
「先ほど辞令の下書きを見せてもらいました」
調べたというより、そこに書いてあっただけだ。
父は苦いものを飲み込んだような顔をした。
「お前を王都に置いておけば、貴族たちはお前を利用する」
「F等級の王子を、ですか?」
「王位継承の道具に、能力は必要ない。王族の血があれば十分だ」
父は机の上で手を組んだ。
「ヴォルフを支持する者。クラウスを支持する者。どちらにも属さない者たちが、お前を旗印にするかもしれない。お前自身に王位への意思がなくても関係ない」
「だから、俺を遠ざける?」
「生かしておくためだ」
その言葉だけ、父は王ではなく、ひどく疲れた男の声で言った。
「お前の母が亡くなる前、私に頼んだ。あの子を王にしなくていい。偉くしなくてもいい。ただ、長く生かしてほしい、と」
「それで北部へ?」
「王都よりは、王位争いから離れられる」
「盗賊と飢餓で人が死ぬ土地へ送るのに、生かすためだと言われても、少し理解が難しいのですが」
「分かっている!」
父が机を叩いた。
銀の印章が跳ね、小さな音を立てて転がった。
父は自分でも驚いたように手を見つめた。
「……分かっている。これが最善だなどとは思っていない」
「なら、なぜ受け入れたのですか」
「お前一人を王都へ残すために、何人の貴族を敵に回せばよいと思う」
「知りません」
「私も正確には分からん。分からんから、恐ろしいのだ」
その言葉は、妙に正直だった。
国王だから、何でも知っているわけではない。
何でもできるわけでもない。
父は父なりに俺を守ろうとした。
その結果が、辺境への追放だった。
愛情があれば正しいことができる、などというのは、ずいぶん都合のいい話なのだろう。
「父上は、俺に行ってほしいのですか」
「行ってほしくはない」
「では、残ってほしい?」
「残ってほしいとも言えない」
「ずるい答えですね」
「ああ。私はずるい」
父は机の上から銀の印章を拾い、俺の前へ差し出した。
「北部食糧管理官としての権限を認める印章だ。王家直轄倉庫への立ち入り、食糧帳簿の閲覧、緊急時の備蓄放出を許可する」
「予算は?」
「ない」
「兵士は?」
「現地の守備隊を使え」
「新しい役人は?」
「お前が探せ」
「父上」
「言うな。私もひどい辞令だとは思っている」
「思っているだけですか」
「今すぐ用意できるものがない」
情けないが、嘘ではないのだろう。
俺は銀の印章を受け取った。
軽い。
この軽さで、どれほどの責任を押しつけられたのかは分からない。
「一つだけ、約束してください」
「何だ」
「俺が失敗しても、すぐに切り捨てないでください」
父の眉が動いた。
「助けてほしいとは言いません。援軍も金も、期待しません。ただ、俺が何かを変えようとしたとき、王都で笑われたという理由だけで取り消さないでほしい」
「……約束しよう」
「今の言葉、記録しておけばよかったですね」
「息子にまで書面を要求されるのか」
「人間の約束は、本人の都合で意味が変わりますから」
俺が答えると、父は少し寂しそうに笑った。
「お前は今日一日で、ずいぶん変わったな」
「そうかもしれません」
「何があった?」
「長い夢から目を覚ましたようなものです」
それ以上は説明できなかった。
久我直人という人間の記憶が蘇ったなどと言えば、神官を呼ばれるか、悪霊に取り憑かれたと疑われる。
「レオン」
「はい」
「生きて帰ってこい」
父はそれだけを言った。
俺も、分かりましたとは言えなかった。
代わりに一度、頭を下げて書斎を出た。
◇
「レオン」
廊下で待っていたのは、ヴォルフ兄上だった。
「少し話せるか」
「荷造りがありますので、少しなら」
「三日後に出ると聞いた」
「俺はつい先ほど聞きました」
「……すまない」
「兄上が決めたことではないでしょう」
「それでも、広間で何か言うべきだった」
あのとき、兄上は口を閉じた。
俺は別に気にしていないつもりだった。
だが、気にしていないなら、こんなにも鮮明に覚えているはずがない。
「そうですね」
俺が答えると、兄上は傷ついたような顔をした。
ここで「気にしていません」と言えば、兄上は楽になれる。
けれど、それは俺の仕事ではない。
「何かできることはないか」
「今のところは」
「金なら、私個人のものを少し用意できる」
「いただきます」
「……遠慮しないのだな」
「してほしかったのですか?」
「いや。断られたらどう説得しようか考えていた」
「では、お互いに時間を節約できました」
兄上は困ったように笑った。
「変わったな、お前」
「父上にも言われました」
「北部へ行っても、手紙をよこせ。返事ができないこともあるだろうが、必ず読む」
「読んだ証拠に、たまには返事をください」
「ああ。約束する」
今日は約束の多い日だ。
どれが守られるのかは、まだ分からない。
◇
三日後の早朝。
王宮の正門前に用意されていたのは、馬車二台と護衛騎士十人だけだった。
荷物の確認をしていると、書類箱を両腕に抱えた若い女が歩いてきた。
栗色の髪を後ろで結び、飾り気のない灰色の服を着ている。年齢は俺より少し上だろう。
「レオン殿下ですね」
「そうだが」
「北部食糧管理官付財務官、リゼット・クロイツです。本日より同行いたします」
彼女は書類箱を馬車へ積むと、俺の顔を上から下まで眺めた。
「先に申し上げておきます。私は殿下のお世話係ではありません」
「安心しろ。俺も君を母親代わりにするつもりはない」
「食事が合わない、寝台が硬い、風呂がないと泣きつかれても知りませんから」
「何日くらいで泣くと思っている?」
「三日」
「では、四日目なら助けてくれるのか」
「そういう意味ではありません」
「残念だ」
リゼットは露骨にため息をついた。
「私の役目は財務管理と、殿下が北部で何をしたか王都へ報告することです」
「つまり監視役か」
「言い方を柔らかくすれば、そうなります」
「柔らかくなっていない気がするが」
「隠しても、いずれ分かりますので」
愛想はない。
だが、嘘をつかない人間らしい。
「これが北部の直近五年分の収支報告です」
「もう集めたのか?」
「仕事ですから」
差し出された帳簿は、項目別に付箋が挟まれ、問題のある数字には赤い線が引かれていた。
仕事はできる。
それだけで、ずいぶんありがたかった。
「一つ聞いていいか」
「内容によります」
「グラウゼンでは、毎年多くの餓死者が出ている。それで間違いないな?」
「はい。今年は例年より悪いと聞いています」
「だが、この報告書では、中央倉庫だけで領民を三年間養える小麦があることになっている」
「そうですね」
「おかしいと思わなかったのか?」
リゼットは一瞬だけ俺を見つめ、それから馬車の扉を開いた。
「それを調べるのが、殿下のお仕事でしょう?」
少しも可愛げがない。
けれど、彼女の言うとおりだった。
俺は王都を振り返った。
閉じられていく城門の向こうで、見送りに来た父も兄たちも、もう見えない。
戻れるかどうかは分からない。
それでも今は、帳簿にある三年分の小麦が、実際にどこへ消えたのかが気になっていた。
「出発しよう」
俺は馬車へ乗り込んだ。
こうして俺は、栄転という名前の追放を受け入れた。




