第2話 最低等級スキル【在庫管理】
――九か月前。
王宮の大広間には、花の匂いと、人間の欲が満ちていた。
赤い絨毯の両側に、王国中の有力貴族が並んでいる。
誰も彼も、今日という日を祝うために集まったような顔をしていたが、その目は笑っていなかった。
見ているのは、俺たち王子の顔ではない。
王家に伝わる鑑定水晶だ。
今日、誰が強力な天恵を授かるか。
誰に近づけば得をするか。
誰から離れておくべきか。
貴族たちは、それを確かめに来ていた。
「緊張しているのか、レオン」
前に並んでいた第一王子ヴォルフ兄上が、声を潜めて話しかけてきた。
兄上は二十一歳。背が高く、金色の髪を短く整えている。黙って立っているだけなら、絵本から抜け出した英雄そのものだ。
「少しだけ」
「少しだけ、という顔ではないぞ。さっきから三度も袖口を引っ張っている」
「兄上こそ、ずいぶん詳しく見ていますね」
「俺も緊張しているからな。自分以外のことを気にしているほうが楽なんだ」
それを聞いて、俺は少し驚いた。
「兄上でも緊張するのですか」
「する。王子は人前で震えてはいけないだけで、震えないわけではない」
「いいことを聞きました」
「誰にも言うなよ。特にクラウスには」
「聞こえているぞ」
すぐ前にいた第二王子クラウス兄上が、肩越しに睨んできた。
赤みがかった髪と、細くつり上がった目。何かとヴォルフ兄上をライバル視している人だ。
「人の悪口を言うなら、せめて聞こえない声で言え」
「悪口ではない。お前が口の軽い男だと言っただけだ」
「それを悪口というんだ、兄上」
「ほら、すぐに口に出す」
「話にならん」
クラウス兄上は鼻を鳴らして前を向いた。
俺は思わず笑ってしまった。
その瞬間だけは、俺たちは王位を争う王子ではなく、どこにでもいる兄弟だった。
もっとも、その時間は長く続かなかった。
「第一王子、ヴォルフ・アルトベルク殿下。水晶へお進みください」
神官長の声が広間に響く。
ヴォルフ兄上は一度だけ深く息を吸い、祭壇へ進んだ。
透明な水晶へ右手を触れる。
光が走った。
水晶の内側に、銀色の文字が浮かび上がる。
【剣聖】
【等級――A】
一瞬の静寂。
直後、大広間が割れそうな歓声に包まれた。
「剣聖だ!」
「初代国王と同じ天恵ではないか!」
「やはりヴォルフ殿下こそ、次代の王にふさわしい!」
貴族たちが口々に褒めたたえる。
ヴォルフ兄上は誇らしげに胸を張った。
けれど祭壇から戻ってきたとき、俺にだけ聞こえる声で言った。
「膝が震えた」
「見えませんでした」
「なら、俺の勝ちだ」
兄上は笑った。
続いてクラウス兄上が水晶に触れる。
【炎魔導】
【等級――A】
再び歓声が上がった。
クラウス兄上の手のひらに、小さな炎が生まれる。赤、青、白と色を変えながら踊る炎に、貴族たちは見入った。
「二人続けてA等級とは!」
「王国の未来は明るい!」
「いやはや、これは頼もしい!」
同じ口から、よくも次々と言葉が出てくるものだと思った。
つい先ほどまでヴォルフ兄上こそ次代の王だと言っていた男が、今はクラウス兄上へ精いっぱい愛想笑いを浮かべている。
クラウス兄上は戻ってくるなり、俺の肩を軽く叩いた。
「気楽に行け、レオン」
「気楽に?」
「兄上と俺がA等級だ。三人目までA等級など、そうそうない。お前が何を授かっても、誰も責めはしない」
慰めているつもりなのだろう。
たぶん、本当に。
この人は性格が悪いのではない。人の気持ちを想像する前に口が動くだけだ。
「ありがとうございます。少しも気が楽になりませんでした」
「なぜだ?」
「そういうところだぞ、クラウス」
ヴォルフ兄上が呆れたように言った。
「第四王子、レオン・アルトベルク殿下」
名前を呼ばれる。
さっきまで笑っていたのに、急に喉が渇いた。
母はこの場にいない。
俺を産んだ母は王妃でも側妃でもなく、王宮で働いていた仕立て女だった。
七年前、流行病で亡くなっている。
母が生きていたら、何と言っただろう。
立派な天恵でなくてもいい。あなたはあなたなのだから――そんな優しいことを言っただろうか。
いや、母ならたぶん、もっと現実的だ。
『何でもいいから、食べていける技能にしなさい』
そんなところだろう。
「レオン?」
神官長に呼ばれ、俺は慌てて祭壇へ上がった。
水晶は、近くで見ると人の頭より大きい。
冷たそうだと思いながら、右手を触れた。
その瞬間だった。
蛍光灯の白い光。
積み上げられた段ボール。
鳴り続ける電話。
フォークリフトの警告音。
油と埃と、少し焦げたコーヒーの匂い。
『久我さん、在庫表と実数が合いません!』
『どの商品だ』
『ミネラルウォーターです。帳簿では二百ケースあるはずなんですが、現物は八十七しかなくて』
『出荷履歴を確認しろ。昨日の緊急便が未入力だ。あと、A列の奥に旧パッケージが混じってる』
『どうして見なくても分かるんですか』
『同じことを先月もやったからだ!』
俺は――久我直人は、物流センターの運営責任者だった。
三十四歳。
独身。
部下は正社員と派遣社員を合わせて百八十人。
毎朝、出勤して最初に見るのは天気予報。その次が高速道路の渋滞情報。台風が来れば寝る時間がなくなり、大雪になれば電話が鳴りやまない。
最後の記憶は、事務所の机だった。
『久我さん、顔色、かなり悪いですよ。今日はもう帰ったほうが』
『この出荷だけ確認したら帰る』
『昨日も同じこと言ってましたよ』
『昨日の俺は嘘つきだった。今日の俺はたぶん正直だ』
『たぶんじゃ駄目でしょう』
そう言って笑った部下の顔。
机に置かれた、飲みかけのぬるいコーヒー。
胸の奥に走った痛み。
床へ落ちていく書類。
誰かが俺の名前を呼んでいた。
そこで、久我直人の人生は終わった。
膨大な記憶が、一度に頭へ流れ込んでくる。
俺は久我直人だ。
同時に、レオン・アルトベルクでもある。
二人の人生が混ざり合い、どちらが本物なのか分からなくなる。
母の顔が二つある。
生まれた家も二つある。
俺は三十四歳なのか、十六歳なのか。
「レオン殿下!」
神官長に腕をつかまれ、我に返った。
俺は祭壇に片膝をついていた。
「大丈夫ですか」
「あ……はい」
「水晶をご覧ください。天恵が現れています」
広間が静まり返っている。
水晶の内側に、文字が浮かんでいた。
【在庫管理】
【等級――F】
誰かが吹き出した。
それをきっかけに、小さな笑いが広間のあちこちから漏れた。
「在庫管理?」
「倉庫番の技能ではないか」
「王子殿下が小麦袋でも数えるのか?」
「剣聖と炎魔導の弟が、鼠の数を調べる技能とは」
声を抑えているつもりなのだろう。
だが、静かな広間では全部聞こえた。
父である国王エドガーが玉座から立ち上がる。
「静まれ!」
笑い声が止んだ。
「天恵は神より授かるものだ。高低によって笑うことは、神への不敬である」
父は俺を庇ってくれた。
その言葉が嬉しかった。
嬉しかったからこそ、父が次にわずかに目を伏せたことにも気づいてしまった。
残念だったのだ。
期待していた息子が、F等級だったことが。
「陛下」
宰相グライゼン公爵が進み出る。
「確かに、天恵そのものを笑うべきではございません。しかし王子には、それぞれの天恵にふさわしい役目がございます。剣聖には軍を。炎魔導には魔導士団を。そして在庫管理には――」
公爵は少し考えるふりをした。
「倉庫を、ということになりましょうか」
今度は誰も笑わなかった。
国王に叱責されたからだ。
ただ、彼らの目が笑っていた。
「レオン」
父が俺を呼ぶ。
「その天恵で、何ができる?」
俺は水晶へ視線を戻した。
頭の中には、説明が浮かんでいる。
管理権限を与えられた倉庫内の品目、数量、品質、搬入日、搬出日を把握できる。
品物を生み出せるわけではない。
遠くへ運べるわけでもない。
腐った小麦を元に戻すこともできない。
確かに、剣聖や炎魔導と比べれば地味だ。
だが、前世の俺は知っている。
どれほど立派な商品を作っても、必要な場所へ届かなければ存在しないのと同じだ。
どれほど強い軍隊も、食糧が尽きれば三日と戦えない。
「倉庫の中に、何が、どれだけ、いつから置かれているか分かります」
正直に答えると、クラウス兄上が首を傾げた。
「それだけか?」
「今のところは」
「地味だな」
「兄上は正直ですね」
「嘘をついても天恵は変わらんだろう」
そのとおりだった。
ヴォルフ兄上は何か言おうとした。
けれど周囲の貴族たちの視線に気づき、口を閉じた。
それが妙に胸に残った。
庇ってほしかったわけではない。
俺だって兄上の立場なら、同じように黙ったかもしれない。
だからこそ、腹が立つ場所がなくて困った。
「陛下」
グライゼン公爵が、穏やかな声で言った。
「そういえば、ちょうど適任の役職が一つございます」
父の顔が曇る。
「どこだ」
「北部辺境グラウゼンの食糧管理官です。前任者が病に倒れ、空席となっております」
広間が、今度は別の意味で静まり返った。
グラウゼン。
食糧不足と盗賊被害で、毎年のように死者を出している北部辺境。
王都の貴族たちが、誰も行きたがらない場所だ。
「第四王子殿下の天恵を生かすには、これ以上ない任地かと」
公爵は俺に向かって微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、理解した。
これは任命ではない。
王位継承争いから、俺を遠ざけるための追放だ。
俺は再び水晶板を見た。
【在庫管理――F】
前世では、在庫が合わないたびに頭を下げた。
今世ではどうやら、国一つ分の在庫を押しつけられるらしい。
笑うしかなかった。
「何かおかしいことでもございましたか、レオン殿下」
「いえ、公爵」
俺は顔を上げた。
「倉庫の中身を数えるだけで済むなら、楽な仕事だと思いまして」
このときの俺は、まだ知らなかった。
北部の帳簿には三年分の小麦が記録されていることも。
その倉庫に、食べられる小麦がほとんど残っていないことも。
そして、腐った小麦より人間のほうが、ずっと扱いにくいということも。




