表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
滅亡寸前の小国の第四王子に転生した元物流マン、【在庫管理】から王国再建を始めます ~倉庫・街道・兵站を整えたら、十万の帝国軍が戦わずして干上がりました~  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/5

第1話 十万の兵士は、十万人の空腹である

 十万の兵士を初めて見たとき、俺が考えたのは――こいつら、どこで用を足すんだろう、だった。


「殿下」


「なんだ」


「今、非常にくだらないことを考えていませんでしたか」


 隣に立つリゼットが、半眼でこちらを見ていた。


 雨に濡れた栗色の髪が頬に張りついている。いつもなら気づいた瞬間に不機嫌そうに払いのけるのだが、今夜の彼女には、その程度のことを気にする余裕も残っていないらしい。


「くだらなくはない。十万人分の便所は、立派な軍事問題だ」


「聞かなければよかったです」


「疫病は剣より多くの兵を殺す。排泄物の処理は重要だぞ」


「お願いですから、真面目な顔で便所について語らないでください。ここは軍議の最中です」


 グラウゼン北方砦の城壁から見下ろす平原には、帝国軍のかがり火が広がっていた。


 一つ一つは小さな火だ。


 だが、それが地平線まで続いている。


 夜の野原に、もう一つの巨大な町が出現したようだった。


 あの火のそばに兵士がいる。


 兵士の隣には馬がいる。


 馬の後ろには荷車がある。


 人間も馬も、腹を空かせる。


 十万人分の殺意より、俺には十万人分の胃袋のほうが恐ろしかった。


「笑い事ではありません」


 リゼットが濡れた書類を胸元に抱えた。


「帝国軍、推定十万。対する我が軍は、砦の守備兵と急募した領民兵を合わせても三千二百です。しかも、領民兵の半分は昨日まで鍬を持っていた人たちですよ。剣を渡されたからといって、今日から兵士になれるわけではありません」


「知っている」


「でしたら、どうしてそんなに落ち着いていられるんですか。私には、それが少し……いえ、かなり腹立たしいのですが」


「落ち着いて見えるか?」


「少なくとも、便所の心配をする程度には」


 俺は自分の右手を外套の中から出して見せた。


 指先が小刻みに震えている。


 冷えたせいではない。


「怖いに決まっているだろう」


 リゼットは黙った。


「俺だって人間だ。十万だぞ。数え間違いで、実は一万でしたと言われても十分に怖い。今すぐ砦の地下室に入って、扉の前に小麦袋を積んで隠れたい」


「……殿下でも、怖いのですね」


「俺を何だと思っていた」


「倉庫と帳簿があれば、三日くらい寝なくても平気な生き物かと」


「それはだいたい合っている」


「やっぱり人間ではないのでは?」


 リゼットは、ほんの少しだけ笑った。


 笑ったというより、口元の力が抜けたと言ったほうが近い。


 彼女も怖いのだ。


 当たり前だ。


 帝国軍が砦を抜けば、その先にあるのは俺たちが九か月かけて立て直した町と村だ。ようやく冬を越せるようになった人々の家だ。子供たちが通い始めた学校だ。ニナが自慢げに走り回っている伝令所だ。


 数字には表れないものばかりだった。


「殿下!」


 階段の下から声がした。


 猫獣人の少女が、ほとんど四つ足で駆け上がってくる。泥だらけで、片方の靴がない。尻尾には枯れ草が何本も絡みついていた。


「ニナ、靴はどうした」


「泥に食われた!」


「拾ってこなかったのか」


「帝国兵が十万人いるところに戻れって!? あたしの命と靴一足、どっちが大事だと思ってんの!」


「靴」


「殿下、そういう冗談は相手を選んでください」


 リゼットに脇腹を肘で小突かれた。


「冗談だ。報告を」


「あとで新しい靴をくれる?」


「左右そろえてやる」


「上等なやつ」


「働きに見合ったものをな」


「けち」


 悪態をつきながらも、ニナの表情からふざけた色が消えた。


「帝国の第三補給隊、まだ来てない。北の街道で荷車が百台以上、ぬかるみに捕まってる。車輪が軸まで沈んでた。牛も何頭か潰れてる」


「馬の様子は?」


「近くまで行って見てきた。干し草が足りないんだと思う。屋根を剥がして、その藁を食わせてた。村に残ってた鶏まで捕まえてたよ。あいつら、食べられるものなら何でも持っていく」


「村人は?」


「全員、避難所に入ってる。確認した。あたしが回った村は、だけど」


 最後の一言だけ、ニナの声が小さくなった。


 自分が確認できなかった村に人が残っていたら、と考えているのだろう。


「十分だ。よく戻った」


「……うん」


「今夜は休め。靴も受け取ってこい」


「上等なやつね」


「まだ言うか」


「忘れられたら困るから」


 ニナは片足で跳ねるように階段を下りていった。


 入れ替わりに、老兵站官ガルドが上がってくる。


 鎧の上から雨具を羽織った大男だ。左頬にある古い傷が、雨に濡れて黒く見えた。


「聞きましたぞ」


「ああ。補給隊は遅れている」


「ならば今夜、騎兵を出すべきです。荷車を焼けば、敵はさらに苦しくなる」


「駄目だ」


「しかし」


「今夜の雨で、こちらの馬も消耗している。それに三百騎を失えば、敵が撤退を始めたとき追う者がいなくなる」


 ガルドの眉が動いた。


「撤退するとお考えで?」


「違う。撤退させる」


 俺は城壁の上に広げた地図へ、小さな石を並べた。


 赤い石が帝国軍。


 白い石が補給隊。


 赤い石は十万の大軍を示しているのに、その後ろに続く白い石は妙に少なかった。


「帝国兵一人が、一日に食べる穀物を少なく見積もって一キロ。十万人なら百トンだ」


「ひゃく、とん?」


「こちらの単位なら、小麦袋およそ一万袋だ。それが毎日消える。しかも兵士だけじゃない。軍馬は人間より食う」


 リゼットが地図をのぞき込む。


「帝国軍の軍馬は、推定一万八千頭です」


「一頭につき、最低でも一日八キロの飼料が要る。百四十四トンだ。人間の食糧より多い」


 ガルドは腕を組み、平原の火を見た。


「だから帝国軍は、道中の村から食糧を奪うつもりだった」


「そうだ。十万人分を帝都から運ぶのは難しい。最初から、この土地にある食糧をあてにしていた」


「ですが、村にはもう何もありません」


 リゼットが言った。


「焼いたわけでも、捨てたわけでもない。街道と倉庫を使って、全部こちら側へ運んだからな」


 九か月前なら不可能だった。


 村ごとに荷車の車輪幅が違い、道は雨が降るたび沼になり、どの倉庫に何が入っているのか誰も知らなかった。


 だが、今は違う。


 道がある。


 荷車がある。


 倉庫がある。


 何より、それらを動かす人間がいる。


「敵の携行食糧は?」


 ガルドが尋ねた。


「ニナの報告、捕らえた輜重兵の証言、捨てられていた小麦袋の数から考えて、あと三日」


「三日……」


「今日を含めてな」


 リゼットが俺を見た。


「もし、計算が間違っていたら?」


「負ける」


「もう少し安心させる言い方はできないのですか」


「できるが、嘘になる」


 彼女は腹立たしそうに息を吐いた。


「本当に、殿下はそういうところが嫌いです」


「知っている」


「ですが、嘘をつかれるよりはましです。ほんの少しだけ」


「それは好意として受け取っていいのか?」


「受け取った瞬間に返却してください」


 ガルドが、わざとらしく咳払いをした。


「軍議を続けても?」


「すまない」


「仲がよろしいのは結構ですが、帝国軍が待ってくれるとは限りませんぞ」


「仲良くありません」


 リゼットの返事だけが妙に早かった。


 俺は城壁の下で待つ兵士たちを見た。


 槍を握る手が震えている者がいる。


 故郷の方角を何度も振り返る者がいる。


 逃げたいのだろう。


 俺も同じだ。


「ガルド。今夜の出撃は禁止する」


「承知しました」


「代わりに、砦中の炊事釜を使え。明日の朝は全員に温かいものを食わせる。塩も肉も惜しむな」


「敵を前に、御馳走ですか」


「敵から見える場所で煙を上げる。こちらには食糧があると見せつけるんだ」


「性格の悪い策ですね」


 リゼットが言う。


「褒め言葉として受け取っておく」


「今のは、だいたい褒めています」


 平原の向こうで、ひときわ大きなかがり火が揺れた。


 その前に銀色の髪をした人物が立ち、こちらの砦を見上げている。


 顔までは見えない。


 それでも、なぜか目が合ったような気がした。


 あれが帝国第三皇女アーデルハイトだと、このときの俺は知っていた。


 だが、彼女が九か月前、女商人を名乗って俺の倉庫へ入り込んでいたことまでは、まだ知らなかった。


 そもそも九か月前の俺は、十万の軍勢どころか、腐った小麦にさえ勝てると思われていなかったのだ。


 すべての始まりは、成人の儀の日。


 水晶板に浮かんだ、たった一行の文字だった。


【在庫管理――最低等級】


 それを見た瞬間、王宮の広間は笑い声に包まれた。


 同時に俺は、前世の記憶を取り戻した。


 ――物流センター運営責任者、久我直人として生きた、三十四年分の記憶を。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ