第1話 十万の兵士は、十万人の空腹である
十万の兵士を初めて見たとき、俺が考えたのは――こいつら、どこで用を足すんだろう、だった。
「殿下」
「なんだ」
「今、非常にくだらないことを考えていませんでしたか」
隣に立つリゼットが、半眼でこちらを見ていた。
雨に濡れた栗色の髪が頬に張りついている。いつもなら気づいた瞬間に不機嫌そうに払いのけるのだが、今夜の彼女には、その程度のことを気にする余裕も残っていないらしい。
「くだらなくはない。十万人分の便所は、立派な軍事問題だ」
「聞かなければよかったです」
「疫病は剣より多くの兵を殺す。排泄物の処理は重要だぞ」
「お願いですから、真面目な顔で便所について語らないでください。ここは軍議の最中です」
グラウゼン北方砦の城壁から見下ろす平原には、帝国軍のかがり火が広がっていた。
一つ一つは小さな火だ。
だが、それが地平線まで続いている。
夜の野原に、もう一つの巨大な町が出現したようだった。
あの火のそばに兵士がいる。
兵士の隣には馬がいる。
馬の後ろには荷車がある。
人間も馬も、腹を空かせる。
十万人分の殺意より、俺には十万人分の胃袋のほうが恐ろしかった。
「笑い事ではありません」
リゼットが濡れた書類を胸元に抱えた。
「帝国軍、推定十万。対する我が軍は、砦の守備兵と急募した領民兵を合わせても三千二百です。しかも、領民兵の半分は昨日まで鍬を持っていた人たちですよ。剣を渡されたからといって、今日から兵士になれるわけではありません」
「知っている」
「でしたら、どうしてそんなに落ち着いていられるんですか。私には、それが少し……いえ、かなり腹立たしいのですが」
「落ち着いて見えるか?」
「少なくとも、便所の心配をする程度には」
俺は自分の右手を外套の中から出して見せた。
指先が小刻みに震えている。
冷えたせいではない。
「怖いに決まっているだろう」
リゼットは黙った。
「俺だって人間だ。十万だぞ。数え間違いで、実は一万でしたと言われても十分に怖い。今すぐ砦の地下室に入って、扉の前に小麦袋を積んで隠れたい」
「……殿下でも、怖いのですね」
「俺を何だと思っていた」
「倉庫と帳簿があれば、三日くらい寝なくても平気な生き物かと」
「それはだいたい合っている」
「やっぱり人間ではないのでは?」
リゼットは、ほんの少しだけ笑った。
笑ったというより、口元の力が抜けたと言ったほうが近い。
彼女も怖いのだ。
当たり前だ。
帝国軍が砦を抜けば、その先にあるのは俺たちが九か月かけて立て直した町と村だ。ようやく冬を越せるようになった人々の家だ。子供たちが通い始めた学校だ。ニナが自慢げに走り回っている伝令所だ。
数字には表れないものばかりだった。
「殿下!」
階段の下から声がした。
猫獣人の少女が、ほとんど四つ足で駆け上がってくる。泥だらけで、片方の靴がない。尻尾には枯れ草が何本も絡みついていた。
「ニナ、靴はどうした」
「泥に食われた!」
「拾ってこなかったのか」
「帝国兵が十万人いるところに戻れって!? あたしの命と靴一足、どっちが大事だと思ってんの!」
「靴」
「殿下、そういう冗談は相手を選んでください」
リゼットに脇腹を肘で小突かれた。
「冗談だ。報告を」
「あとで新しい靴をくれる?」
「左右そろえてやる」
「上等なやつ」
「働きに見合ったものをな」
「けち」
悪態をつきながらも、ニナの表情からふざけた色が消えた。
「帝国の第三補給隊、まだ来てない。北の街道で荷車が百台以上、ぬかるみに捕まってる。車輪が軸まで沈んでた。牛も何頭か潰れてる」
「馬の様子は?」
「近くまで行って見てきた。干し草が足りないんだと思う。屋根を剥がして、その藁を食わせてた。村に残ってた鶏まで捕まえてたよ。あいつら、食べられるものなら何でも持っていく」
「村人は?」
「全員、避難所に入ってる。確認した。あたしが回った村は、だけど」
最後の一言だけ、ニナの声が小さくなった。
自分が確認できなかった村に人が残っていたら、と考えているのだろう。
「十分だ。よく戻った」
「……うん」
「今夜は休め。靴も受け取ってこい」
「上等なやつね」
「まだ言うか」
「忘れられたら困るから」
ニナは片足で跳ねるように階段を下りていった。
入れ替わりに、老兵站官ガルドが上がってくる。
鎧の上から雨具を羽織った大男だ。左頬にある古い傷が、雨に濡れて黒く見えた。
「聞きましたぞ」
「ああ。補給隊は遅れている」
「ならば今夜、騎兵を出すべきです。荷車を焼けば、敵はさらに苦しくなる」
「駄目だ」
「しかし」
「今夜の雨で、こちらの馬も消耗している。それに三百騎を失えば、敵が撤退を始めたとき追う者がいなくなる」
ガルドの眉が動いた。
「撤退するとお考えで?」
「違う。撤退させる」
俺は城壁の上に広げた地図へ、小さな石を並べた。
赤い石が帝国軍。
白い石が補給隊。
赤い石は十万の大軍を示しているのに、その後ろに続く白い石は妙に少なかった。
「帝国兵一人が、一日に食べる穀物を少なく見積もって一キロ。十万人なら百トンだ」
「ひゃく、とん?」
「こちらの単位なら、小麦袋およそ一万袋だ。それが毎日消える。しかも兵士だけじゃない。軍馬は人間より食う」
リゼットが地図をのぞき込む。
「帝国軍の軍馬は、推定一万八千頭です」
「一頭につき、最低でも一日八キロの飼料が要る。百四十四トンだ。人間の食糧より多い」
ガルドは腕を組み、平原の火を見た。
「だから帝国軍は、道中の村から食糧を奪うつもりだった」
「そうだ。十万人分を帝都から運ぶのは難しい。最初から、この土地にある食糧をあてにしていた」
「ですが、村にはもう何もありません」
リゼットが言った。
「焼いたわけでも、捨てたわけでもない。街道と倉庫を使って、全部こちら側へ運んだからな」
九か月前なら不可能だった。
村ごとに荷車の車輪幅が違い、道は雨が降るたび沼になり、どの倉庫に何が入っているのか誰も知らなかった。
だが、今は違う。
道がある。
荷車がある。
倉庫がある。
何より、それらを動かす人間がいる。
「敵の携行食糧は?」
ガルドが尋ねた。
「ニナの報告、捕らえた輜重兵の証言、捨てられていた小麦袋の数から考えて、あと三日」
「三日……」
「今日を含めてな」
リゼットが俺を見た。
「もし、計算が間違っていたら?」
「負ける」
「もう少し安心させる言い方はできないのですか」
「できるが、嘘になる」
彼女は腹立たしそうに息を吐いた。
「本当に、殿下はそういうところが嫌いです」
「知っている」
「ですが、嘘をつかれるよりはましです。ほんの少しだけ」
「それは好意として受け取っていいのか?」
「受け取った瞬間に返却してください」
ガルドが、わざとらしく咳払いをした。
「軍議を続けても?」
「すまない」
「仲がよろしいのは結構ですが、帝国軍が待ってくれるとは限りませんぞ」
「仲良くありません」
リゼットの返事だけが妙に早かった。
俺は城壁の下で待つ兵士たちを見た。
槍を握る手が震えている者がいる。
故郷の方角を何度も振り返る者がいる。
逃げたいのだろう。
俺も同じだ。
「ガルド。今夜の出撃は禁止する」
「承知しました」
「代わりに、砦中の炊事釜を使え。明日の朝は全員に温かいものを食わせる。塩も肉も惜しむな」
「敵を前に、御馳走ですか」
「敵から見える場所で煙を上げる。こちらには食糧があると見せつけるんだ」
「性格の悪い策ですね」
リゼットが言う。
「褒め言葉として受け取っておく」
「今のは、だいたい褒めています」
平原の向こうで、ひときわ大きなかがり火が揺れた。
その前に銀色の髪をした人物が立ち、こちらの砦を見上げている。
顔までは見えない。
それでも、なぜか目が合ったような気がした。
あれが帝国第三皇女アーデルハイトだと、このときの俺は知っていた。
だが、彼女が九か月前、女商人を名乗って俺の倉庫へ入り込んでいたことまでは、まだ知らなかった。
そもそも九か月前の俺は、十万の軍勢どころか、腐った小麦にさえ勝てると思われていなかったのだ。
すべての始まりは、成人の儀の日。
水晶板に浮かんだ、たった一行の文字だった。
【在庫管理――最低等級】
それを見た瞬間、王宮の広間は笑い声に包まれた。
同時に俺は、前世の記憶を取り戻した。
――物流センター運営責任者、久我直人として生きた、三十四年分の記憶を。




