9.共有事項
保健室の空気は、いつも少しだけ静かだった。
カーテン越しの日差し。
加湿器の音。
棚に並ぶ包帯と体温計。
来実は丸椅子に座りながら、落ち着かない気持ちで膝を見ていた。
向かいには養護教諭とスクールカウンセラー。
二人とも柔らかい表情をしているのに、逃げ場がない感じがした。
「まず、来てくれてありがとう」
養護教諭が静かに言う。
「病院から少し連絡をいただいています」
「……はい」
「最近かなりしんどかったみたいだね」
来実は曖昧に笑った。
「まあ、ちょっとだけ」
カウンセラーが優しい声で続ける。
「学校としても、来実さんの安全を考えたいと思ってる」
“安全”。
最近よく聞く言葉だった。
「担任の先生には、どこまで共有したい?」
来実はすぐ答える。
「……あんまり話したくないです」
「どうして?」
「普通に過ごしたいので」
沈黙。
「精神的なこと知られると、面倒だから」
来実はなるべく軽い感じで言った。
でも声が少し硬かった。
「担任の先生も、来実さんを支える立場だから」
「でも別に、学校では問題ないじゃないですか」
少しだけ声が強くなる。
「遅刻も欠席もしてないし」
養護教諭は困ったように息を吐いた。
「来実さん、“できている”ことと、“大丈夫”は違うんだよ」
その言葉が妙に刺さる。
「……だからって」
来実は視線を逸らした。
「そういうの知られるの、ほんと嫌です」
空気が重くなる。
カウンセラーが慎重に言った。
「全部を共有するわけじゃない。でも、緊急時対応のために最低限は必要だと思う」
最低限。
その“最低限”が、どこまでなのか分からなかった。
「自傷のこととか、ODのこととか、言うんですか」
「安全に関わる部分は」
来実はぎゅっと袖を握る。
「……やだ」
その言葉だけ、少し幼かった。
でも結局。話し合いは、“学校側で共有する必要がある”という方向で終わった。
来実は最後まで納得できなかった。
「ごめんね」
養護教諭が言う。
「でも、何かあった時に誰も知らない方が危ないから」
来実は笑えなかった。
「学校で自傷はしませんから…」
翌日。
ホームルーム後、担任が来実を呼び止めた。
「来実、ちょっといい?」
教室にはまだ数人残っている。
来実は一瞬だけ嫌な予感がした。
「最近体調大丈夫か?」
「……大丈夫です」
「なんか病院通ってるって聞いたけど」
来実の背中が強張る。
「睡眠とか?」
「まあ普通です」
「精神的に不安定だったり?」
悪気はないのだろう。
むしろ心配しているつもりなのだ。
でも。
教室。クラスメイトの声。開いた窓。
“普通”でいた場所に、急に病院の匂いが入り込んでくる。
「無理しないでな」
担任は続ける。
「なんかあったらすぐ言えよ。リストカットとかも、しない方がいいし」
来実の呼吸が止まりそうになる。
後ろの席の誰かが、こちらを見た気がした。
「……はい」
それだけ言って、来実は鞄を掴んだ。
帰宅すると、家は暗かった。
父親はまた数日出張らしい。
テーブルの上に封筒だけ置かれている。
静かだった。
来実は制服のまま床へ座り込む。
息が苦しい。
頭の中で、担任の声が何度も再生される。
『リストカットとかも』
『精神的に不安定』
『病院通ってる』
知られた。
全部ではなくても。
あの場所に、“普通じゃない自分”が混ざってしまった。
来実は両手で顔を覆う。
涙は出ない。
でも皮膚の下がざわざわする。
落ち着きたかった。
机の引き出しを開ける。
カッター。薬。
来実は慣れた動作で袖をまくる。
浅く。少しだけ。
赤い線が浮かぶ。
じわ、と滲む。
呼吸が少し戻る。
それから薬を取り出す。
前みたいには飲まない。
救急搬送は面倒だった。
でも少しだけ、静かにしたかった。
シートを押す。水を飲む。また押す。
部屋には誰もいない。
静かな家だった。




