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10.保健室

次の日の朝。

教室へ入った瞬間、来実は空気が違うことに気づいた。

静か、というわけではない。

みんな普通に話している。

笑っている。

スマホを見せ合っている。

でも時々。視線が合う。逸らされる。

ひそひそした声が止まる。

来実は何事もない顔で席へ向かった。

「おはよー」

自分でも驚くくらい、いつもの声が出た。

「あ、おはよ……」

返事が少しだけぎこちない。

その瞬間、胸の奥が冷える。

担任だ。

昨日のことを、誰かに話したのかもしれない。

あるいは雰囲気だけで広がったのかもしれない。

理由は分からない。

でも教室の空気はもう、“今まで通り”ではなかった。

来実は机へ座る。

周囲の会話が遠い。

『病院通ってるらしい』

『精神的にやばい系?』

『リスカってほんと?』

実際に聞こえたわけじゃない。

でも頭の中で勝手に再生される。

シャーペンを持つ手が少し震えた。

授業は普通に受けた。

ノートも取った。

先生の問いにも答えた。

優等生の顔は、身体が覚えている。

でも休み時間になるたび、息が浅くなる。

誰かが笑うたび、自分のことかもしれないと思う。

後ろで小声がすると、身体が強張る。

四時間目の終わり頃には、もう限界だった。

チャイムが鳴る。昼休み。

「来実、お昼どうするー?」

クラスメイトの声に、来実は笑顔を作る。

「ごめん、ちょっと保健室行ってくる」

「大丈夫?」

「寝不足かも」

嘘ではなかった。

来実は教室を出る。

廊下を歩く速度がどんどん速くなる。

苦しい。

保健室の前へ辿り着く頃には、呼吸が少し乱れていた。

扉を開ける。

「……失礼します」

養護教諭が顔を上げた。

「あ、来実さん」

保健室には他に誰もいなかった。

ベッドのカーテンも開いている。

静かだった。

「どうした?」

来実は返事をしようとして、うまく声が出なかった。

「……ちょっと、しんどくて」

養護教諭の表情が少し変わる。

「こっちおいで」

来実は椅子へ座る。

その瞬間、急に全身の力が抜けた。 

「教室、つらかった?」

来実は少しだけ黙る。

「……別に」

「来実さん」

優しい声だった。

でもその優しさが、今は少し怖い。

「昨日の傷、増えてない?」

真白は反射的に袖を押さえた。

「……なんで」

「見せて」

「平気です」

「お願い」

来実は数秒動かなかった。

でも結局、ゆっくり袖をまくる。

浅い線が何本も残っていた。

昨夜できたばかりの赤い傷。

養護教諭が小さく息を呑む。

「消毒するね」

引き出しからガーゼと消毒液を取り出す。

来実は処置される腕をぼんやり見ていた。

ひりひりする。

「……ごめんなさい」

また勝手に謝っていた。

「謝らなくていい」

養護教諭は静かに言う。

「昨日、つらかったよね」

その言葉を聞いた瞬間、来実の胸に別の感情が浮かぶ。

つらかった。確かに。

でも。誰がこうしたんだろう。

共有するって決めたのは学校側だ。

担任に話したのも。

空気を変えたのも。

“安全のため”。

なのに今、優しくされている。

来実は処置されながら、ゆっくり視線を落とした。

「……先生たちって」

養護教諭の手が止まる。

「結局、話すんですね」

静かな声だった。怒鳴ってはいない。

でも冷えていた。

「来実さん、それは——」

「安全のため、ですよね」

来実は笑った。

でも全然笑えていなかった。

「分かってます」 

養護教諭は何も言えなくなる。

消毒液の匂いだけが、静かな保健室に残っていた。

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