8.新学期の前日
春休み前日、来実はいつもの精神科へ来ていた。
来実は膝の上に置いた封筒をぼんやり見つめた。
救急搬送先の病院から渡された診療情報提供書。
開封厳禁のシール。
少し折れた角。
受付で呼び出し番号を呼ばれ、診察室へ入る。
「こんにちは」
表情が少しだけ硬いが、いつもの声色で話した。
「……救急搬送されたんですね」
「まあ」
来実はへらっと笑った。
「ちょっと飲みすぎちゃって」
主治医は紹介状へ目を通す。
沈黙が長い。
キーボードを打つ音だけが響く。
「解離症状とフラッシュバック」
「はい」
「薬の量もかなり多い」
「覚えてないです」
「精神科入院も提案された」
「父が嫌だったみたいで」
主治医は小さく息を吐いた。
「来実さん」
「はい」
「あなた、自分が思っているよりかなり危ない状態ですよ」
来実は少し笑う。
「でも学校始まるんで」
「……その返事をすると思っていました」
主治医は椅子にもたれた。
「正直に言えば、入院レベルです」
「えー」
「笑い事じゃない」
少し強めの声だった。
来実は一瞬だけ目を瞬く。
「希死念慮、自傷、OD、解離、家庭環境。どれも重い」
「はい」
「“はい”じゃなくて」
主治医は言いかけて止まる。
来実は視線を逸らした。
責められている、とは少し違う。
多分この人は困っている。
どう助ければいいのか分からなくて。
「学校は行きたいです」
来実は静かに言った。
「行かない方が危ないので」
診察室が少し静かになる。
「……保健室の先生やスクールカウンセラーとは繋がれますか」
「まあ一応」
「完全に一人にはならないでください」
主治医の声はいつもより低かった。
「あと、薬の管理は変えます」
「ですよねー」
「頓服も日数制限をかけます」
「はーい」
「笑って誤魔化さない」
その言葉に、来実は少しだけ固まった。
主治医は来実を見る。
「本当にしんどい時くらい、“大丈夫そう”にしなくていい」
来実は返事ができなかった。
翌日ー新学期初日。
校門にはクラス替え表を見る生徒が集まっていた。
春の空気。騒がしい声。新品の教科書の匂い。
「来実ー!」「来実ちゃん~」
クラスメイトが駆け寄ってくる。
「同じクラスだった!」
「やったー!」
来実は反射みたいに笑顔を作る。
「ほんとだ、よかった〜」
誰かが腕を組んでくる。
別の子が新しい担任について話し始める。
来実はちゃんと笑う。ちゃんと会話を回す。ちゃんと空気を読む。
いつもの来実。
「春休み何してた?」
一瞬だけ、呼吸が止まりかける。
解離。病院。OD。過呼吸。点滴。
でも来実は笑った。
「めっちゃ寝てた」
「わかるー!」
みんな笑う。
その輪の中で、来実も笑う。
教室。ホームルーム。自己紹介。新しい席。
全部普通だった。普通にできた。
だから大丈夫。そう思おうとした。
放課後。
帰ろうとしていた来実は、廊下で担任に呼び止められる。
「来実、ちょっと保健室行ってくれる?」
「え?」
「先生から話あるみたい」
心臓が少しだけ沈む。
保健室の扉を開ける。
消毒液と柔軟剤が混ざったような匂い。
「こんにちは」
養護教諭が穏やかに笑う。
その横にはスクールカウンセラーも座っていた。
来実は一瞬で理解する。
病院から学校へ連絡が行ったのだ。
「あー……」
来実は苦笑した。
「なんかすみません」
カウンセラーが静かに首を振る。
「謝らなくていいよ」
来実は反射的にまた笑った。
その笑顔を、二人ともじっと見ていた。




