最終話
児童相談所の一時保護が正式に決まる前。
来実は病院を抜け出した。
夏の夜だった。
風は日中よりひんやりとしていて、人の声が遠い。
スマホと現金と小さくて白くて丸いモノをビニール袋に入れて持っていた。
学生証も、充電器も。
帰る場所は思いつかなかった。
でも病院へ戻る気もしなかった。
駅前。コンビニ。
来実はそういう場所を転々としていた。
学校からの着信は増えていく。
養護教諭。担任。
知らない番号。
父親からは、一度だけ短いメッセージが来た。
『連絡してください』
それだけだった。
来実は返信しない。
SNSを開く。
匿名アカウントのタイムライン。
知らない誰かの愚痴。恋愛。自傷画像。希死念慮。
いつも通りの世界。
来実はぼんやりスクロールを続ける。
その途中で。
偶然、母親の名前を見つけた。
再婚後の名字。地方の写真。写り込んだ店名。
辿れば行ける気がした。
数日後。
来実は電車を乗り継いで、知らない住宅街へ来ていた。
夕方だった。
小さな公園。新しい家。白い車。
真白は少し離れた場所から、その家を見ていた。
しばらくして、玄関が開く。
母親だった。少し髪が短くなっていた。
でもすぐ分かった。
その後ろから、小さな男の子が飛び出してくる。
「おかーさん!」
母親が笑う。
しゃがみ込んで、その子の頭を撫でる。
続いて、知らない男が出てくる。
自然な動きで母親の隣へ立つ。
普通の家族だった。
あまりにも普通だった。
来実は電柱の影からそれを見ていた。
胸は不思議なくらい静かだった。
怒りもない。悲しみもない。羨ましいとも思わない。
ただ…「ああ」と思った。
私がいなくても、生きていけたんだ。
それだけだった。
母親は最後まで、来実に気づかなかった。
来実はその場を離れる。
夕焼けの住宅街。ランドセルの子ども。晩ご飯の匂い。
世界は普通に続いていた。
自分だけが、ずっと外側にいたみたいに。
夜。
来実は駅のホームに座っていた。
スマホの通知欄には大量の未読。
『来実さん、連絡ください』
『心配しています』
『どこにいるの』
スクロールしていくと、養護教諭からのメッセージが止まっていた。
代わりに最後、短い文章だけが残っている。
『生きていてください』
来実はしばらく画面を見つめる。
それからスマホを閉じた。
小さな白くて丸いモノをたくさん口に含んだ。
今までの何倍もの量の。
そして、電車が来る音が近づいてくる。
夏の夜風が吹く。
来実は静かに目を閉じた。
もう、頑張らなくていい気がした。




