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後日談

来実が来なくなってから、二か月が経った。

学校では、最初の頃だけ噂になった。

「転校したらしいよ」

「入院って聞いた」

「いや、児相じゃない?」

でも高校生の噂は長く続かない。

新しい中間テスト。文化祭準備。恋愛。進路。

教室は、少しずつ来実のいない空気に慣れていった。

席替えで、来実の机もなくなった。

養護教諭だけは、ときどき職員室の出席簿を見る癖が抜けなかった。

“無断欠席”。

あの日の表示が、まだ頭に残っている。

児童相談所から学校へ伝えられた情報は少なかった。

本人とは現在も連絡が取れていないこと。

警察へ捜索願が出ていること。

それだけ。


ある日の放課後。 

養護教諭は保健室の棚を整理していた。

その時、古い救急セットの奥から、小さなヘアゴムが落ちる。

黒い、よくあるヘアゴム。

来実が以前、

「切れたからください」

と保健室から持っていった物だった。

養護教諭はしばらくそれを見つめる。

あの時、もっと違う関わり方はあったのか。

“安全のため”は、本当に真白のためだったのか。

答えは出ない。

窓の外では、運動部の声が響いていた。




教室は夏の盛りを過ぎていたものの、暑さは残っていた。

クーラーの音。

文化祭実行委員の声。

進路調査票。

来実のいた席には、もう別の机が置かれている。

担任は出席簿を閉じながら、一瞬だけその場所を見る。

最初、正直よく分からなかった。

来実は成績も悪くないし、むしろトップ層だった。

提出物も出す。

笑う。

友達もいる。

だから、

『リストカットとかも、しない方がいいし』

あの時、自分が何を言ってしまったのか、本気では理解していなかった。

“声をかけた”。

そのつもりだった。

でも今なら分かる。

あれは確認だった。

普通から外れていないか。

問題を起こさないか。

そんな目で見ていた。 


職員室で、別の教師が言う。 

「最近ああいう子増えてますよね」

担任は曖昧に笑った。

何も返せなかった。


放課後。

誰もいない教室で、担任はふと来実の名前を検索する。

ニュースにはなっていない。

まだ見つかっていないのかもしれない。

担任はスマホを伏せる。

窓の外では、生徒たちが笑っていた。

あの日まで…来実も、あの中で笑っていた。

自分は最後まで、“普通に見える壊れ方”を知らなかったのだと思う。




診察が一段落した夕方、主治医は電子カルテを閉じようとして、ふと一つの名前に視線を止めた。

来実。

診察予約は、もう何か月も前から空白になっている。

“無断キャンセル”。

最後の受診記録を開く。

『最近、自分のことを話したくなさそうな様子あり』

『支援への不信感強い』

『家庭環境不安定』

『希死念慮慢性化』

どれも、今になって読むと嫌に静かな文章だった。

主治医は椅子にもたれ、目を閉じる。

最初に会った時の来実を思い出す。

へらへら笑っていた。

『薬足りなくなりました〜』

まるで他人事みたいに。

でも、本当に危険な子ほど、案外ああいう顔をする。

怒鳴らない。助けを求めない。静かに壊れていく。

主治医はあの日の診察を思い返す。

『高校生になってここ来るまで、誰も助けてくれなかったです』

あの言葉。

あれが来実の“本音”に一番近かった気がする。

精神医療では、「支援拒否」という言葉を使う。

でも、本当に拒否だったのだろうか、と主治医は思う。

最初から誰も信じられなかった子に、

「助けを求めて」

と言うのは、酷だったのかもしれない。

電子カルテ上には別の患者の情報が次々に追加されていく。

不眠。パニック障害。適応障害。

待合室には、今も誰かが座っている。

診察は続く。

それでも時々、主治医は考えてしまう。

来実は、最後にどこへ行ったのだろう。

ちゃんと食事をしているのか。

まだ生きているのか。

数週間前。

養護教諭から一本だけ電話があった。

『まだ見つかっていません』

その声は酷く疲れていた。

『あの子、学校ではずっと笑ってたんです』

主治医は返事ができなかった。

診察終了時刻を知らせるアナウンスが流れる。

主治医は最後に、来実のカルテへ短く記載した。

『受診中断』

たった四文字。

でも、その言葉だけでは足りない気がした。

受診を中断したのではない。 

もっとずっと前から。

来実は、誰かを信じること自体を中断していたのかもしれなかった。





児相職員は、夜の事務所で記録をまとめていた。

一時保護。家庭調整。虐待対応。電話。

机の上には書類が山積みになっている。

来実のケースファイルも、その中にあった。

『高校二年生』

『精神科通院』

『OD歴あり』

『父親による監護不十分』

事実だけ並べれば、珍しいケースではない。

もっと幼い子もいる。

暴力もある。

食事すら与えられない家庭もある。


だから最初、来実を見た時、少し戸惑った。

笑っていたから。受け答えもできたから。学校も通えていたから。

『私、そんなにやばいですか』

あの言葉を、時々思い出す。

児相職員はファイルを閉じる。

本当は。

“やばくなってから”しか、制度は動けない。

倒れて。消えて。命の危険が見えて。

そこまで行って、ようやく介入になる。

窓の外は暗い。

スマホに新しいケースの連絡が入る。

児相職員は小さく息を吐き、立ち上がる。

仕事は終わらない。

それでも時々、考えてしまう。

もし来実がもっと小さい頃に、誰かへ辿り着けていたら。

何か一つでも、違ったのだろうかと。





来実の部屋は、ほとんどそのままだった。

父親は久しぶりに家へ戻り、ネクタイを緩めながらリビングへ入る。

静かだった。

以前から静かな家だったはずなのに、今は妙に音がない。

テーブルの上には、学校からの封筒。

児童相談所の書類。

警察の名刺。

父親はそれらを見ないまま、冷蔵庫を開ける。

賞味期限切れのゼリー飲料だけだった。 

来実が買ったものだった気がする。

娘がいなくなって、数週間。

父親は相変わらず仕事へ行っていた。

部下との会議。取引先への電話。出張。

生活は続く。

だが最近、ときどき分からなくなる。

最後に、来実と何を話したのか。

『次は困る、迷惑をかけるな』

車の中でそう言った記憶だけが残っている。

父親は来実の部屋のドアを開ける。

整頓された机。制服。使いかけのノート。

引き出しの奥には、大量の薬袋が押し込まれていた。

父親はそこで初めて、少しだけ表情を変える。

こんな量、知らなかった。

いや。見ていなかっただけかもしれない。

スマホが鳴る。

仕事の電話だった。

父親は数秒だけ画面を見つめ、それから応答する。

「はい、お世話になっております」

いつもの声だった。

部屋の中には、誰もいない



夏は終わり、秋が近づいている。

世界は変わらず進んでいく。

来実がいなくなったあとも。


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