12.離脱
診察室は静かだった。
来実が「もうあんまり話したくないです」と言ったあと、主治医はすぐには何も返さなかった。
キーボードを打つ手も止まっている。
しばらくしてから、主治医は静かに息を吐いた。
「……来実さん」
「はい」
「私は」
主治医は少し言葉を選ぶように続ける。
「あなたに、自分を傷つけないで、心から笑える日が来てほしい」
来実は何も言わない。
「ただ、それだけなんです」
診察室の蛍光灯が白く滲む。
普通なら、優しい言葉だったのかもしれない。
救いになる人もいるのかもしれない。
でも来実の中には、別の感情が先に浮かんだ。
どうして今さら。
小学生の時は?
頬を腫らして学校へ行っていた時は?
髪を抜いていた時は?
手首を切り始めた時は?
誰も。
誰も気づかなかった。
いや、違う。
気づいていた人もいた。
でも“深く関わらなかった”。
結局、自分はずっとひとりだった。
「……高校生になって」
来実はぽつりと言った。
「ここ来るまで、誰も助けてくれなかったです」
主治医は黙って聞いている。
「気にかけるとか、そういうのも別に」
来実は笑おうとした。
でもうまくできなかった。
「だから今さら急に、“心配してます”って言われても」
喉が詰まる。
「……よく分かんないです」
主治医は静かに言った。
「そう思うのは自然だと思います」
来実は返事をしない。
診察終了の時間が近づいていた。
次の患者が待っている。
結局、その日の診察は大きく空気を変えられないまま終わった。
「薬は続けてください」
最後に主治医はそう言った。
「急にやめると危険です」
来実は曖昧に頷く。
「はいはい」
でもその時点で、もう決めていた。
飲まなくていいや。
帰宅後。
来実は机の上へ薬袋を置いたまま開かなかった。
抗うつ薬も。睡眠薬も。抗不安薬も。全部。
どうでもよくなっていた。
どうせ誰も、本当には助けられない。
そう思った。
最初の二日は、少し楽だった。
薬を飲まなくていい開放感。
眠気も少ない。
頭も軽い気がする。
でも三日目の夜から、おかしくなり始めた。
眠れない。身体がざわざわする。落ち着かない。心臓が速い。汗が止まらない。手が震える。
四日目。
授業中、黒板の文字がうまく読めなくなった。
音が遠い。息苦しい。
五日目。
朝、制服に着替えようとして、急に立ち上がれなくなった。
視界が揺れる。吐き気。動悸。
身体の中を虫が這っているみたいだった。
それでも学校へ行こうとして、玄関まで歩いた瞬間。
来実の視界が真っ白になる。
次の瞬間、床へ倒れていた。
呼吸がうまくできない。
身体が震える。怖い。
助けを呼びたい。
でも家には誰もいない。
父親はまた出張だった。
静かな部屋で、来実は床に横たわったまま、荒い呼吸を繰り返す。
テーブルの上には、飲まれていない薬袋が置かれていた。




