第9話 歯ブラシの宿と水に合う菓子
半年が過ぎた。
王都の孤児院では、朝の鐘が鳴ると子どもたちが水桶の前に並ぶようになった。
歯ブラシは、最初の三本から二十本に増えた。
それでも全員分には足りない。
足りない日は、歯木組と歯ブラシ組に分かれる。歯木にも小さな印を刻み、持ち主を決めた。
子どもたちはなぜか歯ブラシ組を「剣士組」と呼び、歯木組を「枝の民」と呼んだ。
名称だけが無駄に壮大だった。
毛先が開いたら交換する、という説明には苦労した。子どもたちは、開いた毛先を「成長した」と主張したからだ。
毛先が開いたもの、においが残るもの、黒い点が出たものは、口には戻さない。掃除用に降格である。
「違います。疲れた歯ブラシです」
「休ませれば戻る?」
「戻りません」
「かわいそう」
「新しい子に交代です」
「古い子は?」
「掃除に使います」
「第二の人生だ!」
子どもたちは、また妙に納得した。
歯ブラシの置き方にも苦労した。
ある朝、ニコが自分の歯ブラシを水桶の中に沈めていた。
「何してるの」
「泳がせてる」
「歯ブラシは魚ではありません」
「でも水が好きでしょ」
「洗ったら、毛先を上にして乾かす」
「立って寝るの?」
「歯ブラシはそういう寝方です」
次の日から、食堂の壁に小さな穴あき板がかけられた。
歯ブラシは、毛先を上にして並ぶ。
子どもたちはそれを「歯ブラシの宿」と呼んだ。
歯みがきカードは、食堂の壁に並んでいる。
丸が続いたカードには、みがき猫の絵が増えた。翼のある猫。盾を持つ猫。なぜか鍋をかぶった猫。
最後のものはルカの作だ。
「歯を守る鍋猫」
「菓子工房の発想だね」
「親方が、鍋は焦げつく前に洗えって」
「いい教えです」
ルカは今も菓子工房で働いている。
奥歯は残っている。痛みが出る日もあるが、自分で記録し、無理な味見を避け、水を飲む。月に一度、私の前で口を開けて見せる。
彼はもう、椅子に座らされて泣く少年ではない。
自分の歯を守る方法を知っている、見習い職人だ。
ある午後、孤児院で小さな菓子会が開かれた。
マルタ親方が、余った焼き菓子を持ってきてくれた。甘い香りに、子どもたちはそわそわしている。
私は長机の前に立った。
「では、甘味の時間です」
「やった!」
「食べたら?」
「水!」
「寝る前は?」
「みがき猫!」
「悪霊は?」
「磨き残し!」
最後の返事に、私は少し吹き出した。
ガルデは食堂の隅で腕を組んでいた。最近は孤児院に来ても、鉗子を最初に出さなくなった。代わりに、古い木箱を持っている。
中には、彼が作った不格好な歯ブラシが入っていた。
毛先は少し硬い。
柄も太い。
けれど、子ども用に短くしてある。
普通の道具は、誰かが真似して初めて広がる。
「ガルデ先生の歯ブラシ、ちょっと怖い」
ニコが言った。
「怖いほうが悪霊に効く」
ガルデが答える。
「磨き残しです」
子どもたちが一斉に言った。
ガルデの眉間にしわが寄る。だが、腰の歯袋は以前より軽そうだった。
私は焼き菓子を一つ手に取った。
小さな浮遊花の形をしている。ルカが作った花弁は薄く、欠けていない。砂糖の表面が、窓から入る光を受けて白く光る。
「リナさん」
ルカが隣に立った。
「この菓子、歯に悪い?」
「食べ方による」
「じゃあ、歯にいい菓子は?」
「歯にいいというより、歯にやさしい食べ方がある」
「そっか」
ルカはしばらく考えた。
「じゃあ、今度、水と一緒だとおいしい菓子を作る」
「それはただの濃い味では」
「違うよ。水を飲むと、もう一回香りが出る菓子」
私はルカの横顔を見た。
歯の痛みで泣いていた少年が、菓子の未来を考えている。歯を恐れるのではなく、仕事と一緒に守ろうとしている。
それだけで、前世の診療室で積み残した何かが、少しだけ軽くなった。
「いいと思う」
私は言った。
「菓子も、歯も、どちらも大事にできる」
ルカが笑った。
今度は、歯を隠さずに。




