第8話 抜く仕事を否定しない
その日、孤児院に最初の歯みがきカードが配られた。
朝と夜の欄。
食後の水の欄。
甘味の時間の欄。
歯ブラシが足りない子は、まず歯木と水から始める。道具が揃うまで何もしない、では遅い。
ただし、共有はしない。
歯ブラシも歯木も、口に入れる道具は持ち主を決める。自分専用という響きだけで、子どもたちは少し誇らしそうだった。
字が書けない小さな子には、丸だけでいい。大きな子が、小さな子のカードを見てあげる。エリノ院長が、寝る前に水桶を用意する。
制度というには小さすぎる。
けれど、仕組みではあった。
私がいなくても回るように、やり方を紙にした。誰が見ても分かるように、丸と絵にした。できなかった日を責めるのではなく、できた日を褒める。
前世の医院で、何度もやってきたことだ。
場所が王都の孤児院になっただけである。
三日後、孤児院の子どもたちは歯みがきの歌を作った。
「上をこしょこしょ、下をこしょこしょ、奥は逃げるな、みがき猫!」
歌詞はだいぶ怪しい。
だが、奥歯を磨くことは覚えた。
五日後、エリノ院長がおくちメモをつけ始めた。
正式名称は口腔観察メモだが、孤児院でその名を使うと子どもが三人くらい逃げる。
痛む子。
痛む時間。
食べたもの。
歯ぐきの赤み。
寝る前に磨いたか。
字は丸く、ところどころ間違っている。けれど、記録は記録だ。
七日後、マルタ親方が工房の味見表を作った。
「朝、昼、夕。味見はここに記録。こっそり食べたら、猫の罰」
「猫の罰って何ですか」
「みがき猫を十枚描く」
「それは私への罰では」
親方は笑って、焼き菓子を箱に詰めた。
ルカはその隣で、砂糖の浮遊花を作っている。奥歯は残っている。痛みが完全に消えたわけではないが、彼は仕事を続けている。
短期の成果としては、それで充分だった。
全部を治す話ではない。
今日、その子が仕事を続けられること。
今日、その子が自分の歯を怖がらずに鏡で見られること。
今日、その子が寝る前に歯ブラシを持つこと。
その積み重ねが、長い成果になる。
もちろん、ガルデは諦めなかった。
王都の広場で、彼はしばらく私を「赤い液の異端」と呼んだ。子どもたちはその呼び名を気に入り、私を見るたびに手を振る。
「赤い液の先生!」
「染め出しの先生です」
「赤い液!」
「染め出し」
「赤い!」
(評判というものは、思った方向に育たない)
ある日の夕方、孤児院の門でガルデが私を待っていた。
腰には鉗子がある。
ただし、いつものように鳴らしてはいない。
「リナ」
「何ですか」
「小僧が来た」
「小僧?」
「ルカではない。別の小僧だ」
「頬が腫れていた。眠れんほど痛むと言った」
ガルデは不機嫌そうに目をそらした。
「口を開けるのもつらそうだった。歯ぐきから膿の匂いがした」
私は水桶を置いた。
前世の記憶が、すぐに警鐘を鳴らした。
強い腫れ。
眠れない痛み。
膿。
これは、歯ブラシで七日様子を見る話ではない。
「その子は?」
「奥歯を抜いた。抜かねば危なかった」
「そうですか」
胸の奥が、少し重くなった。
抜いたのなら、もう戻らない。少なくとも、その子の家が金貨を積めないなら。
それでも、助かった命がある。
「お前なら、歯ブラシで治せと言うかと思った」
「言いません」
私は首を横に振った。
「そういう子は、急いで助ける必要があります。抜歯が必要な場合もあります」
ガルデは、少しだけ眉を動かした。
「抜く仕事を否定するのではないのか」
「必要な抜歯は否定しません。私が否定しているのは、見ずに抜くことと、抜く前にできることを教えないことです」
「それで何が変わる」
「抜く歯が減ります」
私は即答した。
「全部ではありません。でも、痛くなる前に気づく子が増えれば、銀の鉗子まで行かずに済む歯は増えます」
「夢みたいな話だな」
「夢より地味です。丸をつける話なので」
ガルデが不愉快そうに鼻を鳴らした。
「それに、抜く歯が減れば、再生魔法の見え方も変わるかもしれません」
「金貨の山が平民に降ってくるのか」
「降ってきたら、まず歯より頭が危ないです」
「では何だ」
「再生した歯が、また同じように悪くなる。そういう話が広がると、再生魔法は実際の値段より高く見えます。せっかく金貨を払っても長持ちしないなら、誰だって遠ざかる」
王都には、王侯貴族向けの再生魔法がある。
けれど、戻した歯を守る手順がなければ、金貨を払って入口に戻っただけになる。
それは治療というより、豪華な振り出しだ。
「でも、歯みがきが広がって、食べ方を変えて、記録を残して、戻した歯を守れると分かったら」
「分かったら?」
「再生魔法は、少し現実に近づきます。少なくとも、ただの貴族の贅沢ではなくなるかもしれない」
ガルデは答えなかった。
私は続けた。
「虫歯が、ただの呪いではなく、対応できるものだと分かれば、抜く以外のやり方を考える人も出るはずです」
「お前がやるのか」
「私は歯科医師ではありません。そこは歯を治す人の領域です」
悪いところだけを少し削る魔具。
穴をふさぐ詰め物。
詰め物を固める魔法。
歯の痛みを見分ける道具。
前世の知識からすれば、いくつも言葉は浮かぶ。けれど、今の私の手には、歯ブラシと紙しかない。
「でも、基本が広がれば、応用を考える人が出ます。どんな技術も、最初から立派な治療院の看板を背負って生まれてくるわけではありません」
「歯ブラシから、魔法の道具まで行くと言うのか」
「行くかもしれません。少なくとも、歯ブラシがない場所では、そこまで行く道も見えません」
「……面倒な女だ」
「よく言われました」
「菓子工房でか」
「その前の仕事で」
私はそれ以上を言わなかった。
前世のことを、この世界の人に詳しく話すことはほとんどない。言っても信じられないし、説明が長くなる。
ガルデはしばらく私を見ていた。
「面倒なことを毎日やれば、痛みが減るのか」
「減ることがあります」
「全部ではない」
「全部ではありません」
「それでも、やるのか」
「痛くなる子が一人でも減るなら」
ガルデは鼻を鳴らした。
それから腰の袋から、小さなものを取り出した。
歯ではなかった。
古い木の柄だ。毛先はなく、柄だけになっている。
「昔、母が使っていた。柳の枝を噛んで歯をこすっていた」
「歯木ですね」
「悪霊祓いだと思っていた」
「それも、磨くことに近いです」
「……ふん」
ガルデは柄を私に押しつけた。
「馬の毛を植えれば、歯ブラシになるのか」
「なります。できれば柔らかい毛が必要です」
「作り方を書け」
「はい?」
「俺のところに来る子にも渡す。抜いたあと、隣の歯まで痛むのは面倒だ」
言い方は最悪だった。
けれど、私はすぐに頷いた。
「書きます。洗う、煮る、乾かす、毛先を短くする。そこも全部です。あと、抜いたあとのおくちメモも」
「紙が好きだな、お前は」
「記録が好きなんです」
「悪霊より厄介だ」
「磨き残しです」
「それは違うだろう」
初めて、ガルデの口元が少しだけ動いた。
笑った、というには硬すぎる。
それでも、鉗子を鳴らす音よりはずっとよかった。




