第7話 呪術医、赤く染まる
その通りだった。
夕方、孤児院の食堂は小さな口でいっぱいになった。
長机の上には、水桶、洗った木の杯、手鏡、歯みがきカードを並べた。歯ブラシは人数分ない。だから、今日は模型用の木片と見本だけだ。
水桶には、飲み水用の井戸から汲んだ水を入れてもらった。余裕がある日は煮冷ます。
毎回全部を煮るには薪がいる。理想と現実は、だいたい薪置き場で殴り合う。
口をつける杯は、使うたびに洗う。
面倒だが、口の道具で横着すると、あとで口が文句を言う。
私は最初に言った。
「歯ブラシは、一人一本が理想です」
子どもたちが目を丸くした。
「順番に使わないの?」
「できるだけ使わない。口の中の汚れや病気を、別の子に渡すことがあります」
「歯ブラシ、友だちになれないの?」
「歯ブラシは持ち主一筋です」
「重い!」
「口の道具は重いくらいでいいです」
ガルデが壁際で鼻を鳴らした。
私は子どもたちに聞く。
「甘いもの、好きな人」
全員が手を上げた。
干し果物を握っていた小さな女の子は、両手を上げた。片手を上げると干し果物が見えるから、両手でごまかしたのだろう。
「お菓子は悪くありません」
子どもたちの手が止まった。
「悪くないの?」
「食べていいの?」
「食べていい。ただし、だらだら食べない。食べたあと水を飲む。寝る前に磨く」
「干し果物は?」
両手を上げていた女の子が、そっと聞いた。
「干し果物や飴みたいに、歯に長くくっつく甘味は居座りやすい。量が少なくても、口の中に長くいると困る」
「居座る甘味」
「市場の場所取りが上手な甘味です」
「ずるい」
「だから、食べたあとに水。だらだら口に入れっぱなしにしない」
「今食べてもいい?」
「今は説明中」
「説明もだらだら?」
「それは私の責任です」
食堂に笑いが起きた。
笑うと、口が開く。口が開くと、歯が見える。前世の私は、笑顔を見るたびに、つい口の中を観察してしまう癖があった。
(職業病は転生しても残る)
私は一人の少年に手鏡を渡した。名前はニコ。前歯が少し白く濁っている。
前世の知識なら、白く濁った部分は初期の虫歯の可能性がある。けれど、ここで怖がらせても仕方がない。
大事なのは、今から変えることだ。
「まず、自分の歯を見る」
「見ても分からない」
「分からなくていい。最初は、見慣れるだけ」
次に、木の杯へ一人分だけ染め出し液を垂らし、水で薄めてから、少し含んでもらう。
瓶に直接口をつけるのは論外だ。
そんなことをしたら、私の中の前世の先輩が白衣姿で走ってくる。
「吐き出せる子だけです。飲まない。しみたらすぐ手を上げる。濃くしない」
「先生、注意が多い」
「口の中は、注意が多い場所です」
ニコが吐き出して鏡を見た瞬間、食堂に悲鳴が走った。
「赤い!」
「ニコの口が魔物!」
「俺、死ぬ?」
「死にません。磨き残しです」
「リナ先生、悪霊が僕の前歯に集まってます!」
「磨き残しです」
「でも赤い!」
「だから便利」
私は木片を口の模型代わりにして、歯ブラシを当てた。
「強くこすらない。小さく動かす。歯と歯ぐきの境目を狙う。奥歯の上は溝をなぞる」
「ごしごししないの?」
「歯ブラシは筋力ではなく毛先で仕事をします」
「毛先、えらい」
「えらいです。毛先が開いたら、仕事ができなくなります」
「年を取ったら?」
「掃除用に転職します」
「歯ブラシにも第二の人生がある!」
子どもたちは妙に納得した。
私はニコに、見本用の歯ブラシを持たせた。終わったらすぐ洗い、今日は彼の専用にする。見本は少なくても、共有は避ける。
赤いところを狙って、少しずつ動かす。
水でゆすぐ。
もう一度鏡を見る。
赤色が薄くなっていた。
「消えた!」
ニコが叫んだ。
「全部ではないけど、薄くなりました」
「僕、悪霊に勝った!」
「磨き残しに勝ちました」
「同じ!」
「同じではない」
食堂がまた笑った。
けれど、ガルデは笑わなかった。
彼は前に出て、子どもたちの前に立つ。
「お前たち、よく聞け。歯の痛みは甘味の悪霊だ。昔からそう教えられてきた。悪霊を侮れば、口の中で増え、隣の歯へ移る」
子どもたちの顔が固くなった。
怖がらせる言葉は強い。
特に、痛みを知っている子どもには。
私はおくちメモを持って立った。
「ガルデ先生。悪霊なら、なぜ痛みは甘味のあとに増えるんですか」
「甘味を好むからだ」
「では、なぜ水でゆすぐと楽になる子がいるんですか」
「水を嫌うからだ」
「では、なぜ奥歯の磨き残しが多い子ほど痛がるんですか」
「奥に潜むからだ」
「ずいぶん几帳面な悪霊ですね」
子どもの一人が吹き出した。
ガルデの頬が動く。
「口が達者だな、異端」
「口を見る仕事でしたから」
前世では、口を見る仕事だった。
口の中だけではない。その人がどう食べるか。いつ寝るか。どんな仕事をしているか。子どもなら、誰が仕上げ磨きをするか。
歯は生活の一部だ。
だから、一本だけ見ても足りない。
「私は呪術を否定しているのではありません。祈って安心する子がいるなら、それも大事です」
私は子どもたちを見た。
「でも、痛みを全部呪いにすると、できることを見逃します」
水を飲むこと。
甘味の時間を決めること。
寝る前に磨くこと。
赤く染めて、どこが残ったか見ること。
カードに丸をつけて、続けたことを見える形にすること。
どれも小さい。
どれも地味だ。
けれど、歯を守るのは、派手な奇跡ではない。
毎日の、嫌になるほど普通の習慣だ。
「それから、乳歯はどうせ抜けるから大丈夫、ではありません」
小さな女の子が、口元を押さえた。
「子どもの歯は、次に生える歯の場所を守っています。早くなくなると、あとで歯並びにも困ることがあります」
「歯も場所取りするの?」
「します」
「市場の屋台みたい」
「少し似ています」
子どもたちが自分の歯を舌で触り始めた。
「大人の歯はいくつあるの?」
ニコが聞いた。
「親知らずまで数えると三十二本。人によって違います」
「じゃあ、ガルデ先生は?」
「数えようとするな」
ガルデが即座に言った。
食堂に笑いが広がった。
その笑いが消えないうちに、干し果物の女の子が手を上げた。
「ガルデ先生も、赤い悪霊を見るの?」
食堂が静まり返った。
全員の視線が、ガルデに集まる。
ガルデは眉間に深いしわを寄せた。
「俺は呪術医だ」
「悪霊に強い?」
「当然だ」
「じゃあ大丈夫だね」
子どもの理屈は、ときどき逃げ道を塞ぐ。
ガルデの手が鉗子に触れた。だが、ここで断れば子どもに負ける。彼はそれを理解したらしい。
「……少しだけだ」
私は瓶を差し出した。
「含んで、吐き出してください。飲まないで」
「分かっている」
ガルデは赤紫の液を含み、木桶に吐き出した。
私は手鏡を渡す。
次の瞬間、子どもたちが一斉に身を乗り出した。
「赤い!」
「先生にも悪霊!」
「下の前歯の裏にいる!」
「奥にもいる!」
ガルデの顔が固まった。
私は咳払いをした。
「下の前歯の裏は、汚れが残りやすい場所です。唾液の出口が近いので、硬い汚れもつきやすい」
「唾液の出口?」
「口の中には、唾液が出る場所があります。唾液は口を洗ってくれる小さな修理屋です」
「よだれ、すごい!」
「呼び方」
ガルデは鏡を握りしめたまま、低く言った。
「これは、悪霊ではないのか」
「磨き残しです」
「俺にもあるのか」
「人間なので」
「呪術医だぞ」
「人間なので」
食堂の隅で、エリノ院長が肩を震わせていた。
ガルデはしばらく黙っていた。
やがて、手鏡を私に返す。
「……磨け」
「自分で磨いてください」
「俺が?」
「自分の口は、自分が一番よく分かります」
ガルデは歯ブラシを受け取り、ぎこちなく動かした。
子どもたちが、妙に真剣に見守る。
「強い!」
「毛先が泣く!」
「小さくこしょこしょ!」
さっき教えた言葉が、もう飛んできた。
ガルデの手が止まる。
「お前たち、呪術医に指図するな」
「歯ブラシは筆!」
「剣じゃない!」
「掃除係!」
(吸収が早い)
ガルデは渋い顔で磨いた。
水でゆすぎ、もう一度鏡を見る。
赤色は薄くなっていた。
食堂に、小さなどよめきが起きた。
「先生も消えた」
「悪霊に勝った」
「磨き残しです」
私が言う前に、子どもたちが言った。
ガルデは鏡を見つめたまま、何も言わなかった。
沈黙を破ったのは、エリノ院長だった。
「リナさん。再生魔法で戻した歯も、磨いたほうがいいのでしょうか」
「もちろんです。戻した歯も、口の中にあるかぎり同じように汚れます」
エリノ院長は、少し考える顔をした。
「せっかく高いお金を払って歯を戻したのに、また痛くなった子がいると聞いたことがあります」
壁際で、ガルデの眉がわずかに動いた。
「それなら、再生魔法は実際よりずっと遠いものに見えるはずです。戻してもまた悪くなるなら、怖くて頼めない」
私は赤く染まった水桶を見た。
「でも、戻したあとに守れるなら、話は少し変わります」




