第10話 凡人枠の仕事は、そこから
その夜、久しぶりにツクヨの夢を見た。
場所は、前世の歯科医院だった。
受付カウンターの向こうに、星柄マントの神様が座っている。なぜか胸元のワッペンは「MAGIC」ではなく「MOLAR」になっていた。
「奥歯ですか」
MOLAR。
前世の英語で、大臼歯。つまり奥歯のことだ。
「魔法のMAGICから、奥歯のMOLARへ。だいぶ歯科寄りの神様らしさですね」
「発注ミスです」
「でも、ちょっと粋な間違いです」
「そう言われると、ミスを認めづらくなるので困ります」
「神様の世界、発注管理が甘いですね」
「痛いところを突かないでください」
ツクヨは台帳を開いた。
「進捗確認です。リナ・カーレンさん。王都孤児院にて歯みがき習慣の定着。菓子工房にて味見時間の整理。呪術医ガルデに歯ブラシ製作手順を共有」
「あの。変な能力を使ったとか、言われていませんよね?」
「変な能力?」
「ほら、チート……でしたっけ。剣を振ったら山が割れるとか、手をかざしたら虫歯が全回復するとか、そういう」
「お持ちですか」
「持っていません。悲しいくらいに。ただ、前世の知識は使いました。インチキと言えば、まあ、インチキかもしれません」
「前世の実務経験は凡人枠の標準装備です。インチキではなく仕様です」
「仕様なら仕方ないですね」
「出ていません。地味すぎて審査部が眠くなったそうです」
「よかったです」
「ただし、上層部から質問が来ています」
「何ですか」
「みがき猫は魔具ですか、と」
魔具。
魔法の力を込めた道具のことだ。明かりの石や、決まった時間に鳴る鐘や、水を汲み上げる小さな装置など、便利で高いものが多い。
「歯ブラシを持った猫の絵が、自動で歯を磨いたりはしません」
「違います。ただの絵です」
「ですよね」
ツクヨは羽根ペンで何かを書いた。
「凡人枠としては、非常に順調です」
「世界を救ったわけではありません」
「最初に言ったでしょう。最初は一人でいい、と」
夢の中の歯科医院で、私は椅子の背に手を置いた。
前世では、この椅子に座る子どもたちへ何度も声をかけた。
大丈夫。
痛かったら手を上げて。
少しずつやろう。
その言葉は、世界が変わっても使えた。
「リナさん」
「はい」
「普通の仕事は、派手ではありません」
「知っています」
「でも、誰かが明日の朝も歯ブラシを持つなら、それはもう仕組みです」
ツクヨは台帳を閉じた。
「凡人枠の仕事は、そこからです」
目が覚めると、孤児院の鐘が鳴っていた。
朝だった。
その翌日の夕方、孤児院の庭で子どもたちが歯ブラシを干していた。
小さな木柄が、洗濯物のように紐へ並ぶ。風が吹くと、毛先が少し揺れた。
日中は外で乾かし、夜は食堂の「歯ブラシの宿」へ戻す。
宿泊費は無料。ただし、毛先を下にした客は追い出される。
エリノ院長が、おくちメモを抱えて隣に立つ。
「この半年、歯の痛みで夜泣きする子が減りました」
「よかったです」
「おくちメモを見る限り、ですが」
「記録つきなら、なおさらよかったです」
「全部がなくなったわけではありません」
「はい」
「でも、痛くなる前に言う子が増えました。水を飲む子も。小さい子の仕上げを、大きい子が手伝うようにもなりました」
院長は、壁に並んだ歯みがきカードを見た。
「丸が並ぶだけで、子どもは続けられるんですね」
「丸があると、昨日の自分が見えるんです」
前世でも、同じだった。
完璧な人はいない。毎日きれいに磨ける人ばかりではない。だから、責めるのではなく、見えるようにする。
できなかった日もある。
でも、できた日もある。
その小さな丸が、次の日の手を動かす。
ガルデが門のところで立ち止まった。
「リナ」
「何ですか」
「異端というのは、取り消さん」
「そうですか」
「だが、歯ブラシは悪くない」
彼はそれだけ言って、背を向けた。
腰の小袋が揺れる。以前より、音は少なかった。
私は笑わないようにした。笑うと、また意地を張られる。
代わりに、おくちメモの端に小さく書いた。
ガルデ先生、歯ブラシを認める。
記録は大事だ。
夜の鐘が鳴った。
子どもたちが食堂へ戻り、寝る前の歯みがきが始まる。水桶の前に列ができ、年長の子が年少の子の手を取る。
「小さくこしょこしょ!」
「奥は逃げるな!」
「みがき猫!」
歌は相変わらず変だった。
けれど、歯ブラシは動いている。
毎日、少しずつ。
王都の子どもを守るものは、聖なる剣ではなかった。奇跡の魔法でも、悪霊を砕く銀の鉗子でもなかった。
普通の歯ブラシ。
赤く染まる磨き残し。
水を飲む習慣。
丸をつけた歯みがきカード。
そして、痛みを呪いで終わらせないための小さな記録。
私は空になった水桶を持ち上げた。
明日の朝も、また水を汲む。歯ブラシを洗う。カードに丸をつける。口を見て、話を聞いて、必要ならメモを書く。
地味で、面倒で、終わりのない仕事だ。
でも、その仕事の先で、子どもたちは歯を見せて笑う。
(——うん。やっぱり、この仕事は大事だ)
食堂の壁で、みがき猫が丸だらけのカードを抱えていた。
その下で、子どもたちの歯ブラシが明日の朝を待っている。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
この作品は、「凡人枠シリーズ」の一編です。チートなしで異世界に転生した現代日本の専門職が、前世の実務経験だけで目の前の問題を解決していくシリーズから、歯科衛生士編を全十話の連載版として構成しました。
歯科衛生士の仕事は、「痛くなってから治す」より前の場所にあります。歯みがきを教える。磨き残しを見えるようにする。食べ方を一緒に考える。続けられるようにカードや記録を作る。どれも地味ですが、歯を守るうえではとても大事な仕事です。
この話では、主人公が頼れる都合のよい治療魔法も、聖女の奇跡も出てきません。あるのは、木の柄に洗って煮て乾かした馬毛を植えた歯ブラシと、赤く染まる磨き残しと、丸をつけるカードだけです。けれど、そういう普通の道具が、子どもの明日の笑顔を守ることがあります。
作中の口腔ケアや歯の症状の描写は、物語用に簡略化しています。口に入れる道具を共有しない、洗う、乾かす、といった最低限の描写は入れていますが、現実で強い痛みや腫れがある場合は、歯科医院で相談してください。リナが作中で繰り返し言っているとおり、歯ブラシだけで済まない歯もあります。
現実のむし歯予防では、歯ブラシだけでなく、フッ化物配合歯みがき剤、定期的な歯科受診、シーラントなども大切です。作中では異世界設定上フッ化物が出てきませんが、現代の読者の方は自己流の道具作りではなく、歯科医院で相談してください。
また、この作品は抜歯そのものを否定する話ではありません。必要な抜歯は、人を助ける治療です。ただ、「抜けば終わり」で済ませる前に、残せる歯をどう守るかを考えたい。そこを、異世界の銅貨と金貨の差に重ねました。
ガルデ先生も、悪役というより「今ある手段で痛みを止めてきた人」です。そこにリナが、予防と記録という別の手順を差し込んだ形にしています。歯ブラシ一本で権威に殴り込む話ではありますが、殴ってはいません。歯ブラシなので。
凡人枠シリーズの芯は、道具や制度を「自分がいなくても回る形」にすることです。今回のリナが残したのは、歯ブラシそのものよりも、子どもたちが明日の朝も歯ブラシを持てる仕組みでした。
——チートで壊した世界は、チートでは直せない。
——自分がいなくなっても回る仕組みを作る。
——「当たり前」の反対は、「有り難い」。
外交官、図書館司書、小児科医、消防士、税務署職員、保険外交員、スクールカウンセラー、保育士、産婦人科医、キャリアコンサルタント、弁護士など、凡人枠シリーズでは他の専門職の短編も書いています。それぞれの「普通の仕事」が、異世界のどこで効くのか。気になる職業があれば、プロフィールから辿ってみてください。
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——える・あーる




