第4話 赤い悪霊は磨き残しです
私は菓子工房の扉を押し開けた。
蜜の湯気と焼き菓子の匂いの奥で、見習いのルカが顔を真っ青にして座っている。十二歳。砂糖細工の浮遊花を作るのが得意な少年だ。
「やめてください。その子の口を、先に見せてください」
声を出したのは、私だった。
帳面係の声としては、だいぶ大きかった。
鉗子を持った男が、ゆっくりこちらを向いた。
黒い外套。
銀の護符。
腰には、抜いた歯を入れる小袋。
王都で有名な呪術医、ガルデだった。
抜歯の腕は確かだと聞いている。
つまり、厄介だった。
腕の悪い相手なら止めやすい。腕のいい相手は、正しさの半分を持っている。
「誰だ、お前は」
「リナ・カーレンです。この工房の帳付けと包装係です」
私は三十五歳。
前世の記憶を持つ、ただの菓子工房の下働きである。
「では黙っていろ。これは甘味の悪霊に憑かれた歯だ」
ガルデが鉗子を鳴らした。
金属の音が、菓子工房の石壁に細く響く。
「痛みを止めるには、悪霊の宿った歯を抜くしかない」
「歯の痛みは、呪いではありません」
工房が静まり返った。
親方のマルタが焼き型を落としかけた。職人たちは蜜のついた手を止め、ルカだけが涙目のまま私を見た。
「……リナさん、それ、本当?」
「少なくとも、まず見る。いきなり抜かない」
「異端だ」
ガルデが低く言った。
「甘味の悪霊を否定する者は、王都の子を危険にさらす」
「危険なのは、見ないで抜くことです」
言ってから、私は奥歯で言葉を噛んだ。
(言い方)
前世でもあった。正論を強く言いすぎると、相手は口を閉じる。患者さんも、保護者も、ときどき歯科医師も。
私は一度息を吸い、ルカの前に膝をついた。
「ルカ、口を少し開けられる?」
「抜かない?」
「今は抜かない。見るだけ。痛かったら手を上げて」
「本当に?」
「本当」
ルカが恐る恐る口を開けた。
奥歯の溝に、蜜菓子のかけらが詰まっている。歯の表面は黄色っぽく、歯ぐきの縁は少し赤い。
大きな黒い穴は見えない。
歯ぐきも大きく腫れていない。
レントゲンも探針もないので、見えない場所までは分からない。けれど、この場で鉗子を入れる状態には見えなかった。
「何を分かったような顔で見ている」
「分からないこともあります。だから記録します」
私は腰の革袋から、細い木柄の歯ブラシを取り出した。
「何だ、それは」
「歯ブラシです」
「歯を叩く小杖か」
「叩きません。磨きます」
「歯は祈るものだ」
(そんな言葉、前世の歯科医院で一度も聞いたことがない)
(聞いたら、院長がまず予約表を閉じる)
「祈ったあとで磨くと、もっといいです」
マルタ親方が噴き出しかけた。
ガルデの顔が、焦げた砂糖みたいに濃くなる。
私はルカに水を含ませた。飲み込ませず、口の中で回して吐き出してもらう。
木桶の水が薄く濁った。
「うわ、汚い」
ルカが自分で言った。
「汚いんじゃない。仕事をしている口だよ。砂糖を扱うと歯に残りやすいだけ」
「口も仕事するの?」
「する。食べる。話す。笑う。菓子の味を見る。かなり働き者」
「僕より働いてる?」
「それは親方に聞いて」
ルカが少しだけ笑った。
私は歯ブラシの毛先を水で濡らす。
木の柄に、煮て乾かした柔らかい馬毛を短くそろえて植えたものだ。前世の歯ブラシほど柔らかくはないが、楊枝でこするよりはましだった。
「軽く当てる。ごしごし強くしない」
「強いほうが悪霊を追い出せそうだけど」
「強く磨くと、歯ぐきが泣く」
「歯ぐきって泣くの?」
「血が出る」
「それは泣いてる」
(素直でよろしい)
私はルカの手に歯ブラシを持たせた。
自分で磨かせる。人にされるより怖くないし、自分の口の感覚を覚えられる。
「持ち方は、剣じゃなくて筆。力を抜いて」
「剣じゃだめ?」
「歯ブラシは決闘しません。掃除します」
「弱そう」
「掃除係は強い」
工房の職人が、妙に真剣な顔で頷いた。
汚れた釜を洗ったことがある人間は、掃除係の強さを知っている。
「上の奥。小さく動かして。歯と歯ぐきの境目を狙う」
「境目って、敵の城壁みたい」
「毛先は攻城兵ではありません。掃除係です」
「掃除係、城壁も行ける?」
「焦げついた鍋よりは優しい」
マルタ親方がまた噴き出した。
ガルデだけは鼻で笑った。
「そんな棒で悪霊が祓えるものか」
「悪霊ではなく、歯についた汚れを落としています」
「見えぬ汚れなど、悪霊と同じだ」
「では見えるようにしましょう」
私は革袋から小さな瓶を出した。
中には赤紫色の液体が入っている。
王都の裏庭に生える渋いベリーを煮出し、水で薄めたものだ。保存のために酢をほんの少し入れている。
使ったあとは、必ず水でゆすぐ。
酸っぱい歯みがき教室は、たぶん二回目がない。
前世で使っていた染め出し液ほど正確ではない。それでも、歯の表面についたねばつく汚れには色が残りやすい。
普通の道具。
普通の工夫。
凡人枠の武器としては、悪くなかった。
「ルカ、少しだけ口に含んで、すぐ吐き出して」
「毒じゃない?」
「私が何度も自分で試した。濃すぎると舌が紫になるけど、これは薄めてある」
「紫になるのは嫌だな」
「鏡を見ると、ちょっと強そうになる」
「やる」
男の子は、強そうという言葉に弱い。
ルカが液を含み、木桶に吐き出した。私は手鏡を差し出す。
ルカの前歯と奥歯の縁が、赤く染まっていた。
「うわあああ! 悪霊が見えた!」
「磨き残しです」
「赤い! 絶対悪霊だよ!」
「磨き残しです」
「リナさん、これ怖い!」
「だから見えると便利」
職人たちが恐る恐る覗き込んだ。
ガルデが勝ち誇ったように言う。
「ほら見ろ。赤い悪霊が出たではないか」
「では、消します」
私はルカに歯ブラシを持たせ直した。
赤く残った場所を、小さく磨く。
口をゆすぐ。
もう一度、鏡を見る。
赤色は薄くなっていた。
「消えた」
ルカが、ぽつりと言った。
「鉗子を入れずに、消えた」
その声は小さかった。
けれど、工房の中では充分だった。




