↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
5/10

第5話 歯みがきカードとみがき猫

 ガルデの小袋が、腰でかすかに揺れる。中に入った抜歯済みの歯が、硬い音を立てた。


「まやかしだ。痛みは戻る」


「戻るかもしれません。だから記録します」


 私は折った羊皮紙を取り出した。


 口腔観察メモ。


 正式に言うと硬い。


 子どもに出すなら、おくちメモ。


 名前を柔らかくしただけで、逃げる子が一人減る。たぶん。


 前世では、カルテや歯科衛生士業務記録を何度も書いた。この世界にカルテという言葉はない。だから私は、大人には口の観察メモ、子どもにはおくちメモと呼んでいる。


「痛む場所。痛む時間。何を食べたあとか。冷たい水で痛むか。熱いもので痛むか。歯ぐきの色。磨き残しの場所。毎日書きます」


「紙で悪霊が逃げるか」


「逃げません。正体が見えてきます」


 ルカの名前を書く。


 年齢。


 仕事。


 甘味を口にする回数。


 痛みが出た時間。


 ルカは菓子職人の見習いだ。


 朝から晩まで味見をする。焼き上がりの確認、蜜の濃さ、飴の硬さ。少しずつ、何度も口に入れる。


 歯にとっては、甘味の量だけではない。


 時間が問題だ。


「ルカ、今日、何回味見した?」


「ええと……朝の蜜が三回。昼の練り菓子が四回。午後の飴が、たぶん六回」


「たぶん?」


「親方が見てないときに、一回」


 マルタ親方の眉が上がった。


「ルカ」


「痛かったから元気を出そうと」


「元気を出す方向が間違ってるねえ」


(菓子工房らしい叱責だ)


 私はメモに書いた。


 甘味を禁止するつもりはない。菓子は悪ではない。ここで作られる焼き菓子は、王都の人たちの楽しみだ。


 問題は、だらだら食べ続けること。


 口の中に砂糖が残り続けること。


 前世の知識では、口の中の小さな菌が糖を材料に酸を作る。酸で歯の表面が弱くなる。唾液が時間をかけて戻してくれるが、甘味が何度も来ると戻る暇がない。


 この世界で菌を見せる道具はない。


 ここで「見えない小さな生き物が」と言い出すと、悪霊の親戚が一種類増えるだけだ。


 専門用語は、ときどき敵を増やす。


 だから、鍋で説明する。


「親方。鍋に蜜を入れて、火にかけっぱなしにしたらどうなりますか」


「焦げるね」


「途中で水を入れて洗えば?」


「焦げつきにくい」


「口も似ています。甘味が残り続けると、歯の表面が弱くなる。水で流すだけでも違います」


「水で治るのかい」


「治りません。水は薬ではありません。穴の開いた歯を戻す力もありません」


 私は首を横に振った。


「でも、甘いものが歯に居座る時間を短くすることはできます」


 マルタ親方が腕を組んだ。


「菓子職人に甘味禁止は無理だよ」


「禁止ではなく、時間を決めます」


「時間?」


「朝の仕込み後、昼の調整、夕方の仕上げ。必要な味見は三回に寄せる。味見したら水を飲む。食後も水。寝る前は必ず磨く」


「それならできるかもしれないね」


 私は最後に、小さなカードを出した。


 羊皮紙を切り、朝と夜の欄を作っただけのものだ。端には、私が下手な猫の絵を描いてある。歯ブラシを持った猫だ。


「これは歯みがきカード」


 ルカが受け取った。


「猫が棒を持ってる」


「歯ブラシです」


「剣に見える」


「歯ブラシです」


「名前は?」


「……みがき猫」


「弱そう」


「歯を守るから強い」


 ルカがまた笑った。


 私はカードの一日目、夜の欄を指した。


「磨いたら丸をつける。朝も夜も。七日続いたら親方に報告」


「七日で痛みがなくなる?」


「約束はしない。痛みが強くなったら、別の対応が必要。抜くしかない歯もある」


「じゃあ、丸は何のため?」


「続けたことを、忘れないため。口の中は見えにくいけど、丸なら見える」


 私はガルデを見た。


「でも、全部をいきなり抜く必要はありません」


 ガルデは私を睨んでいた。


 やがて鉗子を布に包み、腰の袋を鳴らす。


「七日だ」


「はい」


「七日後、その小僧がまだ痛むなら、俺が抜く」


「状態を見て、話し合います」


「話し合いで悪霊は待たん」


「虫歯も待ちません。だから今日から始めます」


 ガルデが出ていくと、工房の全員が同時に息を吐いた。


 周りの目があったから引いたのかもしれない。


 それでも、引いた。


 腕のいい人ほど、引きどころを知っている。本人に言ったら、たぶん鉗子で机を鳴らされる。


 マルタ親方が私の肩を叩く。


「リナ。あんた、いつから呪術医に喧嘩を売る子になったんだい」


「喧嘩ではありません」


「銀の鉗子を持った男に『間違ってる』と言ったら喧嘩だよ」


「……言い方は反省します」


「そこだけかい」


 親方は呆れたように笑い、ルカの頭を軽く叩いた。


「今日はもう味見禁止。水を飲んで、奥で休みな」


「仕事は?」


「歯を抜かれたら、もっと仕事にならないよ」


 ルカは歯みがきカードを胸に抱えた。


「リナさん」


「何?」


「歯、残る?」


 私はすぐに大丈夫とは言わなかった。


 歯は一度深く壊れると、磨くだけでは戻らない。前世でも、無責任な安心は言わないようにしていた。


 けれど、今のルカにはできることがある。


「残すために、今日からやる」


 ルカは小さく頷いた。


「じゃあ、磨く」


 その返事だけで、今日の仕事は半分終わった気がした。


 もちろん、残り半分はこれからだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。