第5話 歯みがきカードとみがき猫
ガルデの小袋が、腰でかすかに揺れる。中に入った抜歯済みの歯が、硬い音を立てた。
「まやかしだ。痛みは戻る」
「戻るかもしれません。だから記録します」
私は折った羊皮紙を取り出した。
口腔観察メモ。
正式に言うと硬い。
子どもに出すなら、おくちメモ。
名前を柔らかくしただけで、逃げる子が一人減る。たぶん。
前世では、カルテや歯科衛生士業務記録を何度も書いた。この世界にカルテという言葉はない。だから私は、大人には口の観察メモ、子どもにはおくちメモと呼んでいる。
「痛む場所。痛む時間。何を食べたあとか。冷たい水で痛むか。熱いもので痛むか。歯ぐきの色。磨き残しの場所。毎日書きます」
「紙で悪霊が逃げるか」
「逃げません。正体が見えてきます」
ルカの名前を書く。
年齢。
仕事。
甘味を口にする回数。
痛みが出た時間。
ルカは菓子職人の見習いだ。
朝から晩まで味見をする。焼き上がりの確認、蜜の濃さ、飴の硬さ。少しずつ、何度も口に入れる。
歯にとっては、甘味の量だけではない。
時間が問題だ。
「ルカ、今日、何回味見した?」
「ええと……朝の蜜が三回。昼の練り菓子が四回。午後の飴が、たぶん六回」
「たぶん?」
「親方が見てないときに、一回」
マルタ親方の眉が上がった。
「ルカ」
「痛かったから元気を出そうと」
「元気を出す方向が間違ってるねえ」
(菓子工房らしい叱責だ)
私はメモに書いた。
甘味を禁止するつもりはない。菓子は悪ではない。ここで作られる焼き菓子は、王都の人たちの楽しみだ。
問題は、だらだら食べ続けること。
口の中に砂糖が残り続けること。
前世の知識では、口の中の小さな菌が糖を材料に酸を作る。酸で歯の表面が弱くなる。唾液が時間をかけて戻してくれるが、甘味が何度も来ると戻る暇がない。
この世界で菌を見せる道具はない。
ここで「見えない小さな生き物が」と言い出すと、悪霊の親戚が一種類増えるだけだ。
専門用語は、ときどき敵を増やす。
だから、鍋で説明する。
「親方。鍋に蜜を入れて、火にかけっぱなしにしたらどうなりますか」
「焦げるね」
「途中で水を入れて洗えば?」
「焦げつきにくい」
「口も似ています。甘味が残り続けると、歯の表面が弱くなる。水で流すだけでも違います」
「水で治るのかい」
「治りません。水は薬ではありません。穴の開いた歯を戻す力もありません」
私は首を横に振った。
「でも、甘いものが歯に居座る時間を短くすることはできます」
マルタ親方が腕を組んだ。
「菓子職人に甘味禁止は無理だよ」
「禁止ではなく、時間を決めます」
「時間?」
「朝の仕込み後、昼の調整、夕方の仕上げ。必要な味見は三回に寄せる。味見したら水を飲む。食後も水。寝る前は必ず磨く」
「それならできるかもしれないね」
私は最後に、小さなカードを出した。
羊皮紙を切り、朝と夜の欄を作っただけのものだ。端には、私が下手な猫の絵を描いてある。歯ブラシを持った猫だ。
「これは歯みがきカード」
ルカが受け取った。
「猫が棒を持ってる」
「歯ブラシです」
「剣に見える」
「歯ブラシです」
「名前は?」
「……みがき猫」
「弱そう」
「歯を守るから強い」
ルカがまた笑った。
私はカードの一日目、夜の欄を指した。
「磨いたら丸をつける。朝も夜も。七日続いたら親方に報告」
「七日で痛みがなくなる?」
「約束はしない。痛みが強くなったら、別の対応が必要。抜くしかない歯もある」
「じゃあ、丸は何のため?」
「続けたことを、忘れないため。口の中は見えにくいけど、丸なら見える」
私はガルデを見た。
「でも、全部をいきなり抜く必要はありません」
ガルデは私を睨んでいた。
やがて鉗子を布に包み、腰の袋を鳴らす。
「七日だ」
「はい」
「七日後、その小僧がまだ痛むなら、俺が抜く」
「状態を見て、話し合います」
「話し合いで悪霊は待たん」
「虫歯も待ちません。だから今日から始めます」
ガルデが出ていくと、工房の全員が同時に息を吐いた。
周りの目があったから引いたのかもしれない。
それでも、引いた。
腕のいい人ほど、引きどころを知っている。本人に言ったら、たぶん鉗子で机を鳴らされる。
マルタ親方が私の肩を叩く。
「リナ。あんた、いつから呪術医に喧嘩を売る子になったんだい」
「喧嘩ではありません」
「銀の鉗子を持った男に『間違ってる』と言ったら喧嘩だよ」
「……言い方は反省します」
「そこだけかい」
親方は呆れたように笑い、ルカの頭を軽く叩いた。
「今日はもう味見禁止。水を飲んで、奥で休みな」
「仕事は?」
「歯を抜かれたら、もっと仕事にならないよ」
ルカは歯みがきカードを胸に抱えた。
「リナさん」
「何?」
「歯、残る?」
私はすぐに大丈夫とは言わなかった。
歯は一度深く壊れると、磨くだけでは戻らない。前世でも、無責任な安心は言わないようにしていた。
けれど、今のルカにはできることがある。
「残すために、今日からやる」
ルカは小さく頷いた。
「じゃあ、磨く」
その返事だけで、今日の仕事は半分終わった気がした。
もちろん、残り半分はこれからだった。




