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第3話 帳面係、銀の鉗子を見る

 十九歳で、私は薬草店に働きに出た。


 薬草店といっても、前世の薬局とは違う。乾いた葉を束ね、軟膏を壺に詰め、傷薬と香草を同じ棚に置くような店だ。


 そこで私は、ラベルを書くことを覚えた。


 いつ採った葉か。


 誰が煮た軟膏か。


 薄める水の量はどれくらいか。


 店主は面倒くさがったが、ある日、古い薬草と新しい薬草を取り違えずに済んだ。そこから私のラベルは許された。


「リナ、また紙か」


「紙があると間違いが減ります」


「紙で腹は膨れない」


「でも、間違えた薬草で腹を壊すことは減ります」


「……書け」


 記録は、人を守る。


 前世でも、この世界でも、それは同じだった。


 二十二歳からは宿屋で働いた。


 旅人は、よく歯が痛む。硬い干し肉、甘い酒、長旅の疲れ。口臭をごまかすために香草を噛む人も多かった。


 私は皿洗いの合間に、客の話を聞いた。


「奥歯が痛む? 冷たい水で痛むのか、噛むと痛むのか、夜眠れないほどか」


「宿の娘、やけに口の中に詳しいな」


「仕事柄です」


「宿屋の仕事か?」


「色々です」


 この頃には、私は学んでいた。


 前世をそのまま語っても信じてもらえない。


 歯科衛生士。


 口腔衛生。


 プラークコントロール。


 そんな言葉は、この世界の人には届かない。


 鍋。


 水桶。


 焦げつき。


 帳面。


 市場の屋台の場所取り。


 この世界の人が手で触れるものに置き換えて、ようやく届く。


 二十八歳で、私は王都へ出た。


 王都は石畳の街だった。


 朝の鐘が鳴ると、屋台の布が開く。昼には砂糖菓子の匂いが広場に広がる。夕方には、淡い光をまとって宙に浮く浮遊花を飾った荷車が細い路地を抜けていく。


 最初の一年は、道に迷った。


 二年目には、どの井戸の水が冷たいか分かった。


 三年目には、広場の右端の屋台で水を買うと安いと知った。


 色々な仕事をした。


 洗濯場で桶を運んだ。


 市場で荷札を書いた。


 紙屋で端切れの羊皮紙を安く分けてもらった。


 厩で、手入れのときに出た柔らかい馬毛を分けてもらい、洗って煮て、干してから木の柄に植えてみた。


 もちろん、煮る鍋は食事用とは別である。


 間借りしている部屋の共同台所でそれを間違えると、歯より先に大家さんと隣人からの信用が抜ける。


 最初の歯ブラシは失敗した。


 毛が抜けた。


 二本目も失敗した。


 毛が硬すぎて、歯ぐきが泣いた。


 比喩ではない。少し血が出たので、即日で引退させた。


 三本目で、ようやく使えるものになった。


(前世の歯ブラシ、すごかったんだな)


 何百円もしないあの道具が、どれだけ調整されたものだったか。異世界で毛を植えて、初めて分かった。


 三十一歳のとき、菓子工房マルタに雇われた。


 仕事は帳付けと包装だった。


 砂糖の在庫を数える。


 焼き菓子を箱に詰める。


 割れた菓子や形の崩れた菓子を、孤児院へ回す箱に入れる。


 箱には「欠け菓子」と書いた。歯は欠けないでほしい、と毎回少しだけ思った。


 納品書を書く。


 見習いがこっそりつまみ食いした数を、親方に報告するか悩む。


 報告すると、たぶん歯ではなく胃が痛む。


 マルタ親方は、声の大きな女性だった。腕も太い。焼き型を片手で持つ姿は、前世の滅菌トレーより頼もしかった。


「リナ、帳面は細かいねえ」


「数字が合わないと落ち着かないので」


「その割に、猫の絵は下手だね」


「そこは帳面と関係ありません」


 工房で働き始めて、私はすぐに気づいた。


 菓子職人の口は、過酷だ。


 朝から晩まで味見をする。蜜の濃さ、飴の硬さ、焼き菓子の香り。少量ずつ、何度も甘味が入る。


 しかも忙しい。


 食後に水を飲む暇もない。


 寝る前に歯を磨く習慣もない。


 私は歯ブラシを作り足した。染め出し液を改良した。歯みがきカードを小さく切った。口の観察メモの書式も整えた。


 でも、すぐには出さなかった。


 職場で急に「口を見せてください」と言う下働きは、たぶん帳面係ではなく不審者である。


 前世でも、信頼関係のない歯みがき指導はだいたい空振りした。異世界なら、空振りどころか異端判定までついてくる。


 この世界で三十五年も生きると分かる。


 人は、正しいから聞くのではない。


 困ったとき、相手が信じられる言葉で言ったとき、ようやく耳を開く。


 私は革袋の中に道具を入れたまま、待った。


 空の木箱を、自分の手で少しずつ埋める。


 それが、私の三十五年だった。


 そしてその日。


 待つ理由が、目の前で銀色に光った。


 銀の鉗子が、少年の口へ近づいていた。


 王都の菓子工房マルタでは、それが治療と呼ばれていた。


 歯が痛む子どもを椅子に座らせ、呪術医が祈りを唱え、痛む歯を引き抜く。


 抜いた歯は小皿に置かれる。


 別の小皿には、治療代の銅貨が置かれる。


 抜いた歯と同じ皿でないだけ、最低限の線引きはある。


 喜んでいいのかは、かなり微妙だった。


 抜歯は、確実な治療ではある。


 痛みの元を取り除けば、ひとまず泣き叫ぶ痛みは止まる。膿んだ歯なら、命を救うことだってある。


 だから、この世界で抜歯が広がった理由は分かる。


 問題は、何かというと抜くことだった。


 歯が一本なくなれば、噛み方が変わる。笑い方も変わる。硬いものを避けるようになり、仕事まで変わることがある。


 生活の質。


 前世でいう、QOLだ。


 この世界で口に出したら、新しい呪文だと思われそうな三文字である。


 この世界にも、歯を戻す再生魔法はあるにはある。


 ただし、高い。


 金貨が何枚も飛ぶ。平民なら、値段を聞いただけで別の歯まで痛くなりそうな額だ。


(抜くのは銅貨。戻すのは金貨。歯に厳しい価格差だ)


 前世でも、似た話を聞いたことがあった。


 根の治療、つまり歯を抜かずに残す治療は難しい。時間も手間もかかる。


 残す治療には、技術も道具も通院もいる。制度や患者の事情がそろわなければ、残したくても残せないことがある、という話だ。


 患者のために悩む歯科医師がいる。


 けれど、仕組みが人の手を早くさせることもある。


 もちろん、私は歯科医師ではない。治療判断をする立場ではなかった。


 それでも、仕組みが治療の選択肢を狭めることは知っていた。


(根っこは同じ、かもしれない。歯だけに)


 今それを口に出したら、たぶん誰にも伝わらない。


 そして、あまり笑えない。


(——待って。それは、たぶん抜かなくていい)

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