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第2話 ねばねばの悪霊と紫の舌

 私は、リナ・カーレンとして生まれた。


 最初の記憶は、泣き声だった。


 自分の声なのに、やけに遠い。息を吸うたびに胸が縮み、誰かの大きな手が背中を撫でた。布は粗く、湯はぬるく、部屋の隅では火が小さくはぜていた。


「ナッサ、ナッサ」


 母が言った。


 後から知った。この世界の言葉で、いい子、かわいい、よくやった、くらいの意味らしい。


(ナッサって何)


 そう思った、気がする。


 でも、赤ん坊の頭は長く考えられなかった。次の瞬間には空腹で泣き、眠くて泣き、布が濡れて泣いた。


 前世の記憶は、完成した本のようには戻らなかった。


 それは、霧の向こうにある棚だった。


 必要なときだけ、一冊の背表紙がぼんやり光る。


 三歳の頃、私は母の指を噛んで叱られた。


「リナ、歯が生えたからって噛まないの」


 母の指に、薄い跡がついていた。


 私はその小さな歯形を見て、前世の白い診療室を思い出しかけた。大きな歯の模型。ピンクの歯ぐき。子どもに噛まれた先輩の悲鳴。


(あれ、誰の悲鳴だっけ)


 すぐに消えた。


 四歳になると、言葉が増えた。


 私は土の上に棒で絵を描いた。丸い形に、根のような線を二本。


 父が首を傾げた。


「花か?」


「は」


「歯?」


「は」


 私は得意げに頷いた。


 父は少し考え、母に言った。


「うちの子、歯を描いてる」


「どうして?」


「分からん」


(私も分からない)


 幼い私は、土の上の歯を見つめた。


 前世の私は歯科衛生士だった。


 その言葉を、まだ思い出せなかった。


 六歳の春、父が柳の枝を噛んでいた。


 父は桶や木箱を作る職人だった。朝になると作業場に座り、細い柳の枝の先を噛んでほぐし、それで歯をこすった。


「お父さん、それ何?」


「歯木だ。じいさんから教わった」


「歯木」


 その言葉が、頭の奥で小さく鳴った。


 歯木。


 前世にもあった。枝の先を噛んでほぐし、歯を清掃する道具。地域によっては昔から使われていたもの。


「悪霊祓いだ」


 父は真顔で言った。


「甘いものを食べたあとにやると、甘味の悪霊が嫌がる」


「悪霊じゃない」


 私は反射で言っていた。


 父の手が止まった。


「じゃあ何だ」


「ええと……ねばねば」


「ねばねば」


「口に残る、ねばねば」


 父はしばらく私を見た。それから柳の枝を差し出した。


「じゃあ、リナもねばねばを追い出せ」


「悪霊じゃない」


「分かった。ねばねばの悪霊だ」


「増えた」


 父は笑った。


 その日から私は、ときどき歯木を噛んだ。毛先は不揃いで、前世の歯ブラシとは比べものにならない。それでも、口の中が少しさっぱりした。


 七歳の夏、近所の少年が歯の痛みで泣いた。


 名前はトマ。私より一つ年上で、干し果物をいつも頬の内側に入れている子だった。


 大人たちは言った。


「甘味の悪霊だ」


「痛む歯を抜けば楽になる」


 私は、トマが家の前に座らされるのを見た。


 呪術医が来た。銀色の鉗子を持っていた。祈りが終わると、トマの体が大人二人に押さえられた。


 トマの悲鳴が、狭い路地に跳ね返った。


 抜かれた歯は小皿に置かれた。


 私はその歯を見た。


 黒く大きな穴が空いていた。


(これは、たぶん抜くしかなかった)


 そう分かったのに、指先は冷えた。


 トマはそのあと、干し果物を見ても顔をそむけるようになった。痛みは減ったらしい。けれど、笑うときに片側の口元を押さえた。


 私は初めて知った。


 正しい処置でも、遅すぎれば傷になる。


 その夜、私は寝床の藁を握りしめた。


(痛くなる前に、何かできたはず)


 その言葉だけは、はっきり残った。


 十歳の頃、私は自分の家族に協力してもらった。


 本人たちからすれば、たぶん巻き込まれた。


 弟のノルは甘い粥が好きだった。母が蜂蜜を混ぜると、椀の底まで舐める。前歯の根元に白い濁りが見えた日、私は胸が半拍遅れて戻ってきた。


「ノル、口を開けて」


「やだ」


「見るだけ」


「姉ちゃん、怖い」


「怖くない」


「目が怖い」


(歯科衛生士の目だったかもしれない)


 私は母に説明してから、ノルに水を飲んでもらった。柳の歯木で軽くこすらせた。蜂蜜粥を食べたあとは、水を飲むように言った。


 母は半信半疑だった。


「水で悪霊が逃げるの?」


「悪霊じゃなくて、甘いのを流す」


「流す?」


「鍋に蜂蜜が残ったら、水でゆすぐでしょ」


 母は台所を見た。


「それなら分かる」


 家事の言葉は強い。


 前世の専門用語より、鍋のほうがこの世界では届いた。


 ノルの白い濁りは、すぐ消えたわけではない。けれど、痛みは出なかった。


 私は小さな木片に丸を刻んだ。


 水を飲めた日。


 歯木を使えた日。


 甘い粥をだらだら食べなかった日。


 それは、私がこの世界で最初に作った歯みがきカードだった。


 ただし、ノルは三日目に木片をなくした。


「姉ちゃん、カードが逃げた」


「カードは逃げません」


「じゃあ悪霊が」


「なくしたんでしょ」


「……はい」


(記録は、まず保管場所から)


 これも学びだった。


 十五歳になると、私は道具を作ろうとした。


 最初に思いついたのは糸ようじだった。前世では、歯と歯の間を清掃する道具があった。この世界にも糸はある。ならできる。


 そう考えた私は、裁縫糸を歯の間に入れた。


 抜けなくなった。


「母さん」


「何」


「糸が」


「どこの」


「歯の」


 母はしばらく私を見た。


「リナ」


「はい」


「何をしているの」


「昔、夢で見たやり方を」


「また変な夢を」


 母は灯りの下で、糸の端を少しずつ引き出し、裁縫用の小さな鋏でどうにか切ってくれた。


 私は涙目で口をゆすいだ。


(糸は何でもいいわけじゃない。知ってた。知ってたはず)


 その日から、裁縫箱を見ると奥歯が少し緊張する。


 前世の記憶があっても、道具も環境も違う。


 そこを間違えると、ただの変な人だ。


 十七歳の秋、私は染め出し液を作った。


 王都から来た行商人が、渋い赤紫のベリーを売っていた。布に落ちると色が残る。歯垢にも残るかもしれない。


 私は煮出し、水で薄め、酢を少し入れた。


 酢は保存のために、ごく少量だけだ。歯にいいから入れるわけではない。


(酸で歯を守ろうとしたら、前世の先輩に夢に出て怒られる)


 そして自分で試した。


 舌が二日間、紫になった。


 父が作業場で私を見て、椅子から半分落ちた。


「リナ、お前、舌が」


「染まりました」


「悪霊か」


「染め出しです」


「悪霊より怖い」


 その日の夕飯で、私は何を食べても家族に笑われた。


 ノルは私の舌を見るためだけに、やたら話しかけてきた。


「姉ちゃん、月女神様って言って」


「言わない」


「言って」


「月女神様」


「紫だ!」


 ノルは腹を抱えて笑った。


「姉ちゃん、もう一回。今度は『白い砂糖菓子』って言って」


「言わない」


「お願い」


「白い砂糖菓子」


「紫の砂糖菓子!」


 父が肩を震わせ、母が皿で顔を隠した。


「家族で患者を笑わない」


「患者だったのかい」


 母がとうとう吹き出した。


 私は水の杯を持ち上げた。


「紫なのは知ってる」


(染め出し液は、濃度が大事)


 失敗も記録した。


 濃すぎると舌が染まる。


 酢が多いとしみる。


 酸っぱい顔になる。


 口に含む時間は短く。


 飲まない。


 使ったあとは水でゆすぐ。


 小さな紙に書きつけ、木箱に入れた。

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