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第1話 転生窓口と空の木箱

 死んだのは、小学校の校門前だった。


 三十二歳没。交通事故。


 その日は、学校歯科健診のあとだった。私は紙袋いっぱいの歯ブラシ見本と、歯みがき指導用の大きな歯の模型を抱えていた。


 雨が降っていた。


 横断歩道で、一年生くらいの男の子が転んだ。傘が車道へ転がり、男の子がそれを追いかけようとした。


 次の瞬間、私は抱えていた荷物を放り出し、その子を歩道側へ押し戻していた。


 濡れたアスファルトの匂い。


 急ブレーキの音。


 手から飛んだ歯ブラシの袋。


(最後にばらまくのが歯ブラシって、歯科衛生士としてどうなんだろう)


 そんなことを考えたのが、前世の最後だった。


 前世の私は、早瀬莉奈。


 歯科衛生士だった。


 国家試験に受かって十年目。若手と言うには少し経験を積み、ベテランと言うには先輩にまだ叱られる。そんな微妙な年齢だった。


 歯を削る歯科医師ではない。


 抜歯を担当する歯科医師でもない。


 ドリルも鉗子も、前世では私の持ち物ではなかった。持っていたら、たぶん院長に止められる。


 歯ぐきの状態を見て、歯垢を染め出し、歯みがきを教え、痛くなる前に守る仕事をしていた。


 仕事ではない。


 でも、前世の最後に私がしたのは、子どもを庇って車にはねられることだった。


 できれば、もっと長生きして、老後の歯ブラシの硬さで悩むくらい穏やかな最後にしたかった。


 次に目を開けると、真っ白な空間にいた。


 目の前にはカウンターがある。役所の窓口と占い小屋を足して、予算不足で割ったような場所だった。


 カウンターの向こうに、青年が座っている。


 とんがり帽子。


 星柄マント。


 胸元には、金糸で「MAGIC」と刺繍された安っぽいワッペン。


「ようこそ、転生窓口へ。担当のツクヨです」


「……転生、窓口?」


 私は自分の手を見た。


 指がある。声も出る。けれど、さっきまで聞こえていた雨の音も、ブレーキの音もない。


「え、待ってください。私は、死んだんですよね?」


「はい。死亡確認済みです」


「確認済み」


「言い方が事務的なのは、窓口なので許してください」


「ここ、どこですか。病院ではないですよね。天国? それとも、ええと」


 目の前の青年を見る。


 とんがり帽子。


 星柄マント。


 胸元の「MAGIC」。


「あなたは神様???」


 声が少し裏返った。


「分類上は神様です。実務上は転生窓口の担当者です」


「神様って、窓口に座るんですか」


「座ります。案件数が多いので」


「案件」


「人は毎日亡くなりますから」


(死後の説明が、思ったより業務寄り)


 混乱しているはずなのに、胸元のワッペンだけがやけに目に入った。


「……そのワッペンは、神様の装備なんですか」


「私の趣味ではありません」


 ツクヨは即答した。


「上層部が『神様らしさ』を分かりやすくしろと言いまして」


「神様らしさ」


「説明コスト削減です」


「そのワッペン、逆に説明を増やしていませんか」


「現場からも同じ意見が出ています」


(神様の世界にも、説明コストがあるんだ)


 私はカウンターの椅子に座った。座った感触はあるのに、床も椅子も白くて境目が見えない。


 ツクヨは分厚い台帳を開いた。


「早瀬莉奈さん。三十二歳。歯科衛生士。学校歯科健診、診療補助、予防処置、口腔衛生指導。小児対応は、泣かれても折れない粘り強さあり」


「最後の評価、褒めていますか」


「現場では重要技能です」


「それはそうですけど」


「死亡原因は交通事故。事故死扱いで処理します」


「処理」


「すみません。窓口の言い回しが抜けなくて」


 ツクヨは羽根ペンを置き、私を見た。


「本題に入ります。あなたには異世界転生の候補があります」


「候補?」


「はい。凡人枠です」


 聞き慣れない言葉だった。


「凡人枠?」


「前世の専門職経験と記憶だけを持って、普通の人間として転生する枠です。剣聖、聖女、万能治癒、無限魔力、そういうものはありません」


「歯を一瞬で治す魔法は?」


「ありません」


「レントゲンは?」


「ありません」


「フッ素入り歯みがき粉は?」


「ありません」


「滅菌器は?」


「ありません」


「歯科ユニットは?」


「ありません」


「せめて口の中を照らす灯りは?」


「現地調達です」


「歯科衛生士を暗所で戦わせる気ですか」


「戦闘職ではありません。生活改善案件です」


「帰っていいですか」


「死後なので、帰る先が少々難しいですね」


 ツクヨが申し訳なさそうに笑った。


 笑顔は柔らかい。だが、手元の台帳には付箋が山ほど貼られている。たぶんこの神様も残業している。


「転生先では、砂糖菓子の流通が増えています」


「砂糖ですか」


「はい。ところが、口腔衛生の知識がほとんどありません。彼らは虫歯や歯痛を『甘味の悪霊』と呼んでいます」


 私は眉を寄せた。


「痛くなったら?」


「呪術医が祈って、抜きます」


「呪術医は、歯を抜く人なんですか」


「正確には、祈祷と外傷処置を担う民間医療者です。痛みを止める手段として、抜歯が定着しています」


「魔法は?」


「少しお金があれば、魔法使いに痛み止めを頼めます。ですが、痛みが鈍るだけです」


「回復魔法は?」


「傷や腫れには効くことがあります。ただ、虫歯は歯そのものがまだそこにあるので、回復魔法が『元からある歯ですね』と判断してしまうんです」


「魔法、融通が利かない」


「かなり融通が利きません。役所の窓口よりは少しだけ柔らかい程度です」


「雑な悪役ではないんですね」


「現場には現場の合理性があります。だいたい厄介なのは、悪意より合理性です」


「全部?」


「多くは」


「抜いた歯を戻す魔法は?」


「あります。王侯貴族向けの再生魔法です」


「さっき、歯を治す魔法はないって言いましたよね」


「一瞬で虫歯を治す万能治癒はありません。失った歯を高額な儀式で再生する魔法はあります。別料金、別部署、別絶望です」


「役所みたいな言い方をしないでください」


「お値段は」


「聞くと歯が痛くなる程度には」


「最悪の料金説明ですね」


 背筋が伸びた。


 歯ブラシで全部の歯を救えるわけではない。深い虫歯、膿、顔の腫れ、眠れない痛み。抜歯が必要な歯もある。


 でも、抜かなくていい歯まで抜かれているなら。


 痛くなる前に防げるなら。


「私、歯科医師じゃありません」


「分かっています」


「診断も、治療も、前世では歯科医師の仕事です」


「はい」


「でも、歯みがきを教えることはできます。磨き残しを見ることも、食べ方を一緒に考えることも。歯科衛生士の範囲で、できることはあります」


「そこが凡人枠の採用理由です」


 ツクヨは台帳に丸をつけた。


「チートで壊れた世界は、チートでは直せません。少なくとも最近の上層部は、そういう説明で凡人枠を増やしています」


「説明なんですか」


「予算の都合もあります」


「神様、正直ですね」


「疲れているので」


 ツクヨはカウンターの下から、小さな木箱を出した。


 中には何も入っていない。


「あなたに渡せるものは、これくらいです」


「空箱?」


「道具入れです。実物ではなく、夢の中に残る目印だと思ってください。中身は現地で作ることになります」


「だいぶ雑ですね」


「凡人枠ですので」


 私は空箱を見つめた。


 歯ブラシは作れるかもしれない。木の柄と動物の毛があれば、完璧でなくても形になる。


 染め出し液は、色の残りやすい植物を探す。


 歯みがきカードは紙で作れる。


 口の観察メモも、ペンと紙があれば始められる。


 前世の歯科医院はない。


 でも、歯を守る仕事は、機械だけでできていたわけではない。


「転生後の名前は、リナ・カーレンになります」


「リナ」


「前世の名前から、音だけ少し残しました」


「サービスですか」


「凡人枠にも、ささやかな情緒はあります」


「本当にささやかですね」


「王都に出る縁はありますが、そこへ至る人生は普通に送ってもらいます」


「いきなり事件現場に配置ではないんですね」


「人生は省略できません。凡人枠なので」


「普通に大変なやつですね」


「普通に大変です」


 ツクヨは塗装のはげた杖を掲げた。


「最後に一つ。あなたは世界を救う勇者ではありません」


「はい」


「救えるのは、最初は一人です」


 白い光が広がる。


「その一人の習慣を変える。記録を残す。誰かが真似できる手順にする。凡人枠の仕事は、そこからです」


 私は空箱を抱えた。


 軽い。


 軽すぎる。


 でも、歯ブラシも一本なら軽かった。


 その軽いものが、前世では何度も子どもの口を守っていた。


「分かりました」


「では、よい転生を」


「ステータス画面は?」


 昔、漫画で読んだことがある。


 ゲームみたいに、自分の状況が確認できる、あれだ。


「ありません。表示するとチート査定に引っかかります」


「歯式表も?」


「出ません」


「残念です」


「そこを残念がる人、初めてです」


 白い光が、視界いっぱいに広がった。

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