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手当て

ゆっくりと、立ち上がらせる。

力を入れている様子はなくて、

体は驚くほど軽かった。

「……歩けそう?」

小さくうなずいた気がした。

そのまま、手を離さないようにして、歩き出す。

夜道は、来たときと何も変わらないはずなのに、

隣に誰かがいるだけで、少し違って見えた。

途中で、何度か足がもつれる。

そのたびに、ぎゅっと袖をつかむ力が強くなる。

「大丈夫、大丈夫」

自分に言い聞かせるみたいに、同じ言葉を繰り返した。

マンションの階段を上るとき、

その小さな足取りは、さらにゆっくりになる。

逃げ出す気配はない。

でも、安心しているわけでもない。

ただ、ついてきている。

——それだけだった。

部屋の前で、少しだけ立ち止まる。

鍵を差し込む手が、わずかに迷う。

ここに入れていいのか。

本当に、それでいいのか。

一瞬だけ考えて、やめた。

カチ、と音を立てて扉が開く。

「……どうぞ」

自分でも、変な言い方だと思った。

中に入ると、部屋はいつも通りだった。

何も変わっていないはずなのに、

ひどく静かに感じる。

靴を脱がせようとして、手を止める。

どうすればいいのか、分からない。

結局、ゆっくりとしゃがみこんで、

その小さな足元に手を伸ばした。

びく、とまた体が揺れる。

「……ごめん」

今度は、少しだけ距離をあけて、様子を見る。

しばらくしてから、

おそるおそる、自分で靴を脱いだ。

その動きがあまりにも慎重で、

胸の奥が、またきゅっと痛くなる。

「えっと……そこ、座っていいから」

指さした先は、何でもない床の上だった。

椿は少しだけ迷ってから、

言われた通りに、静かに座る。

部屋の中に、ふたり分の気配がある。

それだけのことが、

どうしようもなく、特別に感じられた。

立ち上がって、部屋の奥に向かう。

何をすればいいのか、分かっているはずなのに、

どこか落ち着かない。

棚の中から、救急箱を取り出す。

白い箱がやけに重く感じた。

振り返ると、椿はさっきと同じ場所に座ったままだった。

動かない。

逃げない。

ただ、じっとしている。

「……ちょっと、手見せて」

できるだけ、ゆっくり近づく。

椿は一瞬だけ体をこわばらせたあと、

ほんの少しだけ、手を差し出した。

その仕草が、あまりにもぎこちなくて。

胸の奥が、静かに痛む。

「しみるかも」

そう言ってから、ガーゼを当てる。

びく、と小さく肩が揺れた。

声は出さない。

でも、痛いのは分かる。

「……ごめん」

謝ることじゃないのに、言葉が漏れる。

そっと、傷に触れる。

乾いた血。薄く残った泥。

ちゃんと手当てされた形跡なんて、どこにもない。

ひとつひとつ、丁寧に拭いていく。

そのたびに、椿の呼吸が少しだけ乱れる。

「もうちょっとだけ、我慢な」

気づけば、さっきよりも自然に声が出ていた。

手当てが終わる頃には、

椿の手は、最初よりも少しだけ温かくなっていた。

救急箱を閉じて、息を吐く。

ふと、視線に気づく。

見上げると、椿がこちらを見ていた。

さっきよりも、ほんの少しだけ、まっすぐに。

目が合う。

逃げない。

そのまま、しばらくの沈黙が続く。

「……名前、わかる?」

問いかける声は、自分でも驚くくらい静かだった。

すぐには返事がこない。

やっぱり無理か、と視線を外しかけたとき——

「……つばき」

かすれた、小さな声。

それでも、はっきりと聞こえた。

思わず、息を止める。

「椿……」

ゆっくりと、その名前をなぞる。

椿は、ほんの少しだけ視線を下げて、

それから、また袖をつかんだ。

さっきよりも、少しだけ強く。

——離れないように。

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