久しぶりの食事
「……お腹、すいてる?」
自分でも唐突だと思った。
椿は少しだけ間をあけて、
小さく、うなずいた。
それだけで、少し安心する。
「ちょっと待ってな」
立ち上がって、キッチンに向かう。
冷蔵庫を開けると、
中身はほとんど残っていなかった。
バイト帰りで、まともに食事もしていない。
ため息をつきかけて、やめる。
代わりに、棚からインスタントのスープを取り出した。
お湯を沸かす音が、部屋に広がる。
さっきまでの静けさとは違う、
どこか落ち着く音だった。
カップに注いで、少しだけ冷ます。
「熱いから、気をつけて」
椿の前にそっと置く。
すぐには手を伸ばさない。
じっと見つめている。
「……大丈夫。食べていいよ」
そう言うと、
おそるおそる、手が伸びる。
カップを持つ手は、まだ少し震えていた。
一口。
ほんの少しだけ口に含んで、
ぴたりと動きが止まる。
そのまま、また一口。
ゆっくり、ゆっくりと飲んでいく。
その様子を、紅葉は黙って見ていた。
不思議と、目が離せなかった。
全部飲み終わる頃には、
椿の頬に、ほんのわずかに色が戻っていた。
「……どう?」
聞くと、少しだけ考えてから、
「……あったかい」
ぽつり、とこぼれる。
それはたぶん、スープのことだけじゃなかった。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
こんなことで、こんなに満たされるなんて。
——知らなかった。
「そっか」
それだけ返して、目をそらす。
これ以上、何か言うと、
おかしくなりそうだった。
ふと、視線を感じる。
見ると、椿がまたこちらを見ている。
さっきよりも、少しだけ安心した顔で。
そして、当たり前みたいに、
もう一度、袖をつかんだ。
今度は、迷いなく。
——ここにいていい、みたいに。
になったカップを見つめたまま、
紅葉はしばらく動けなかった。
時間だけが、ゆっくり過ぎていく。
このままじゃいけない。
分かってる。
本当は、もう帰さないといけない時間だ。
「……家、わかる?」
できるだけ普通に聞いたつもりだった。
椿は、少しだけ間をあけて——
首を、横に振った。
その動きは小さくて、でもはっきりしていた。
胸の奥が、ざわつく。
「……親は?」
言った瞬間、空気が変わる。
椿の肩が、びくっと揺れた。
それ以上は、聞けなかった。
聞いたら、戻れなくなる気がした。
沈黙が落ちる。
時計の音だけが、やけに大きく響く。
このまま、どこかに連れていくべきか。
誰かに頼るべきか。
頭では、いくつも正しい選択が浮かぶ。
でも。
袖をつかむ小さな手が、離れない。
その温度が、全部を狂わせる。
「……今日だけ」
気づけば、口からこぼれていた。
自分に言い聞かせるみたいに、続ける。
「今日だけ、な」
それ以上は、言わない。
言えない。
椿は何も答えなかった。
ただ、その手の力が、少しだけ強くなった。
——それで、十分だった。
目を閉じる。
一線を越えたことは、分かっていた。
それでも。
「……風呂、は無理か」
小さく呟いて、立ち上がる。
せめて、休める場所くらいは。
クローゼットから、適当なタオルと毛布を取り出す。
床に敷こうとして、手が止まる。
——なんで床なんだ。
一瞬の迷い。
そのあと、何も言わずにベッドの方を見る。
「……こっち来る?」
もう、自分でも止められなかった。




