ヒリスは願う4
「コウキ、十四歳のお誕生日、おめでとうー!」
コウキの母親は嬉しそうに告げながら手に持っている小さな円錐の頭に付いてる紐を引っ張った。途端「パンッ」という音とともに中からキラキラした紐や凄く小さな花びらみたいなものが宙に舞った。突然の音に俺はびくりと肩を跳ね上げた。
「……母さん、こんなしなくてもいいのに……」
コウキは頭に掛かったキラキラした紐を取る。テーブルには小さなホールケーキと、少し大きめのお皿に盛られたいつもより豪華な料理。ケーキは真っ白なクリームにイチゴが乗っていてとても綺麗だった。
「私がしたいからいいんですー。……ふふ。コウキ、本当にお誕生日おめでとう」
目を細めて心の底から嬉しそうに笑う母親に、コウキは照れるように目を伏せ「ありがとう」と呟いた。
「でも母さん、いくらなんでもカラアゲ焦がしすぎ」
「う、うるさいわね。揚げ物なんて久しぶりだったから、ちょっと手こずっただけよ」
「ちょっとじゃないじゃん。めっちゃ情けない声あげてたし」
コウキの脳裏にはきっと「ちょ! やだぁ! すごい跳ねるっ!」だとか「あ、生じゃん!」とか悪戦苦闘する母親の姿が浮かんでいるのだろう。笑うコウキの肩を母親は「なにをー!」拳をぶつけた。もちろん力なんて入ってない。
「と、とにかく! 冷める前に食べるわよっ!」
「はい! いただきますっ!」と母親は音を立てながら手を合わせ食事を始めた。コウキも手を合わせハシを持つと、迷わず焦げたカラアゲに手を伸ばした。
コウキの母親はコウキを心の底から愛している。
愛おしい、愛おしいたった一人の家族。
(家族……)
左手薬指を見下ろせば、そこには飾り気のない指輪が嵌められている。
‟兄さんの家族は僕だけで、僕の家族は兄さんだけだ„
クロムの言葉が脳裏に浮かぶ。俺はもう一度目の前の二人に視線を戻した。
そこにはいつもと変わらない二人の姿があった。
でも、彼らの変わらない日常はなんの前触れもなく壊された。
物が壊れる音。コウキの母親の叫び声。コウキの制止の声。……そして男の怒りに満ちた声。
「こそこそ逃げやがってっ!」
「あなたが悪いじゃないっ! あなたがコウキをっっ!」
「うるせぇぇ!」
男に殴られ母親が床に倒れ込み、その上に男が伸し掛かった。
「やめろッ!」
コウキは男の腕を掴み、母親から引き剝がそうとした。コウキの右頬は赤黒く腫れあがり、鼻から血が出ていた。
「てめぇは引っ込んでろっ!」
「………がッッ!」
男に乱暴に振り払われたコウキはすぐ後ろの壁に頭を強く打ち付け、その場にズルズルと崩れ落ちた。
「コウキっ!」
母親が男の下から這い出てコウキの元に行こうとしたが、男に首を鷲掴みされた。
「俺から逃げやがってっ!」
「……いっ……や……っっ!」
男が両手でコウキの母親の首をギリギリと絞めつけていく。母親は男の手に爪を立て必死に抵抗した。
(やめろっ! やめろっ! やめろっ!!)
俺は男を止めようと何度も男の身体を掴もうとした。でも俺の腕は男の身体をすり抜けていくばかりだった。
「………コ……ゥ……キ………」
母親は意識を失ったコウキのほうへ手を伸ばし……、パタリと力なくタタミの上に落ちた。
(あ……ああ、………ああああああああっ!!!!)
俺は絶望の声をあげた。その声は誰にも届かない。
「ア、アイリ? アイリ?」
男は母親の首から手を離し、彼女の顔を覗き込んだ。彼女が動かなくなったことに酷く困惑している様子だった。
「ア、アイリ……。嘘だよな? ね、寝てるだけだよな? お、俺を驚かそうとか……。なぁ、アイリ、起きてくれ」
男は先ほどの暴力さとは打って変わって、戸惑いながら彼女の頬を優しく撫でた。彼女はピクリとも動かない。男は「起きてくれ」と何度も彼女の頬を撫でた。その姿を俺は憎しみに満ちた目で見下ろした。
(お前が……お前が彼女を殺したんだっ!)
男に向かってそう叫んだ瞬間だった。
「………がっ!」
男が大きく仰け反った。俺はハッとして男の背中を見ると、コウキが男の背中にホウチョウを深々と突き刺していた。コウキはホウチョウを引き抜き、もう一度男の背中目掛けて振り下ろした。
(コウキっ!)
俺は咄嗟にコウキの手を止めようとしたが、コウキの手は俺の腕をすり抜け、ホウチョウの刃が男の背中に突き刺さった。男が苦痛の声をあげタタミの上に転がった。
「お……まえ……っ! 親に……向かって……」
「お前を父親だと思ったことなど一度もない」
コウキは血塗られたホウチョウを握りしめ、感情の抜け落ちた目で男を見下ろした。
「俺の家族は母さんだけだ」
そう言ってコウキは男の脇腹にホウチョウを深々と突き刺した。男はもがき、腕を振り回してコウキの頭を殴り飛ばした。コウキの身体がぐらりと倒れたが、ホウチョウを決して離さなかった。男の脇腹からホウチョウが抜かれ、男はくぐもった声を上げ脇腹を押さえた。コウキはよろけながら立ち上がり、母親のほうへ行き彼女の傍らに膝をついた。
「母さん…、母さん……」
ホウチョウを持っていない手のほうで母親の頬を撫でる。
「母さん、目を開けてよ……、かあ……さん」
コウキが何度も呼ぶが母親は応えることはなかった。コウキの目から涙が流れ落ちる。ホウチョウから手を離し、母親の体を優しく抱き起こすと彼女を背負いフラつきながら立ち上がった。男のほうを見れば背中や脇腹が真っ赤に染まっていて息も浅かった。コウキは男を一瞥した後、玄関のほうへ向かい靴も履かず外へ出た。
外は真っ暗で、遠くにぽつぽつと家の明かりが見えた。コウキは一度母親を背負い直し、歩き出した。ほぼないに等しいガイトウの弱々しい明かりに照らされた細道を歩いていく。途中何度も崩れ落ちそうになる母親の体を背負い直した。
助けを求めにいくのだと思った。しかしコウキは他の家が見えても目もくれずどこかへ向かっていた。
(コウキ、家がある。助けを求めよう)
俺はコウキに何度も声をかけた。俺の声が届かないことはわかっている。でもそうせずにはいられないほど、コウキの表情から感情が抜け落ちていたのだ。
俺は焦燥に駆られた。このままいけば取り返しのつかないことが起きると。俺は縋るように辺りを見渡した。誰か、誰でもいい。お願いだ。
(コウキの存在に気づいてくれ!)
………だが、俺の必死の願いは叶わなかった。
コウキが辿り着いた先は、コウキがよく足を運んでいた海辺から見えたあの崖だった。ゴツゴツとした岩の地面にはゴミみたいなものが散乱していた。コウキは崖の先端のほうへ向かっていく。
(コウキだめだっ!)
コウキがやろうとしていることが分かった俺は止めようと手を伸ばすが、その手は彼の体をすり抜けてしまう。それでも俺は必死にコウキの体を掴もうとした。
不意にコウキが立ち止まる。一瞬俺の思いが通じたと思った。……が、それは違った。
コウキは母親を地面に優しく置くと、散乱しているゴミの中からボロボロのロープを手に取った。そのロープを母親と自分の腰に巻き付けきつく結ぶ。まるで離ればなれにならないように……。母親を抱きしめ崖の端に立つ。
「俺も今からそっちに行くから……」
その声はぞっとするほど穏やかだった。
(コウキ、だめだ、死んじゃだめだ)
しかし俺の懇願はコウキには届かず、コウキは母親と共に崖から身を投げた。
(コウキっ!)
コウキと共に落ちた俺はコウキに手を伸ばす。
(コウキッッ!!!)
必死に伸ばしたその手が……コウキの手を掴んだ。
その瞬間、目の前に寝台のような大きな岩が静かに鎮座した森が広がった。




