ヒリスは願う3
閉じていた瞼を持ち上げると目の前にはどこまでも続く真っ青な空と、本の挿絵でしか見たことない美しい海が広がっていた。
(え?)
こんな場所など知らない。今度は何が起きたのか困惑していると視界の隅で動くものが見え、ぎくりと肩を跳ね上げた。おそるおそるそちらを見ると、そこには見たことのない服を着た黒髪の少年の後ろ姿があった。いや、正確には少年の後頭部を見下ろしていた。訳が分からず混乱していると少年が歩き出し、それに引っ張られるように俺の身体が勝手に動いた。よく見ると俺の身体は宙に浮いていて、まるで童話に出てきた浮遊霊みたいだった。
(一体、何が?)
確か、オルディウス帝国が攻撃され、俺はバルコニーからセザール兄さんに突き飛ばされて……。
何が起きたのか分からず混乱する俺の視界に見たこともない小さな建物がぽつぽつと見え始めた。その景色は本の挿絵にあったぽつぽつと民家が建っている麦畑の様子と似ていた。少年が辿り着いた先にあったのは周りの建物よりもひと際小さなものだった。少年はなんの飾り気もない丸いドアノブに見たことのない形をした鍵を差し込みドアを開けた。
中は薄暗くそして狭かった。俺が辺りを見渡してると不意に少年がこっちを振り返った。顔立ちからして十二歳くらいだろうか。黒い瞳と目が合い、俺はびくっと肩を跳ね上げた。だけど少年は俺の姿に気付かず前を向くと靴を脱いで中に入っていた。
少年が向かった先は、人一人が入れるぐらいしかない装飾のない鏡が壁に括りつけられた小さな場所だった。鏡があるということは少年は貴族か商人なんだろうか……。だけど服装や内部の様子からしてとてもそうには見えない。
(……ッ!)
少年が鏡に映った瞬間、ぎくりと身体をこわばらせた。俺の姿が透けていて後ろの壁が見えたのだ。
(浮遊霊のようではなく、完全に浮遊霊ではないか……)
現に少年は自分の背後に映っている俺の存在になんの反応も示さず、手を洗うとその場を後にした。蛇口があるということはやはりそれなりの身分の者なんだろうか……分からない。
次に少年が向かった先にあったのは小さな縦長の白い箱だった。その箱の取っ手のない扉を開け中から野菜を取り出す。緑の葉物に、色からして人参……だろうか、あとは見たことがないものだ。そもそも俺は調理した後の野菜の姿しか知らないから、その野菜が本来どういう形をしているのか知らない。
少年は別の扉から刃物を取り出すと慣れた手つきで野菜を切っていく。トントンという音が部屋の中に響いた。俺はただ少年の作業を後ろからじっと見ていた。
(なんだろう……)
この小さな空間の中に少年一人しかいないのに不思議と孤独を感じなかった。その理由を知ったのは辺りがすっかり暗くなった後だった。暗くなる前、少年が天井からぶら下がった細い紐を引くと、途端に部屋の中が明るくなった。驚いて天井を見ると円になった二つの細い筒形が煌々と光っていた。城にあった魔石を使ったランプとは違う明るさだ。これほどの光を生み出す魔石を持っているということは、この少年は間違いなく高い身分の人間だ。
(おそらく何かしらの理由でその身分を隠しているのだろう……)
だが、身分を隠しているといえど、この魔石を隠すこともせず使えば周りに気づかれてしまうのでは? と不安になった。
「ただいま~」
ガチャという音が聞こえ、ドアの開く音と共に女性の声が飛んできた。
「お帰り母さん」
少年がドアの方へ向かうと女性が嬉しそうな顔を浮かべ「おいしそうな匂いね。シチュー?」と聞いてきた。
「うん。余り物の野菜で適当に作ったら、見た目はあれだけど」
「ふふ。いーの、いーの。ありがとね」
女性は少年の母親みたいだ。彼女が部屋に現れた途端、部屋の中がパッと明るくなった気がした。二人は足が極端に短いテーブルに夕食を整えると、手を合わせ「いただきます」と言って食事を始めた。食事をしながら二人は互いに今日何をしたのか話をした。
小さく質素な部屋。食器の音。そして二人の楽しそうな声。
気づけば俺は静かに涙を流していた。目の前にある暖かな家族の光景に……。
(俺は死者なんだろう……)
少年……コウキの傍にいるようになって月日が過ぎた。その間俺はコウキにとって”当たり前の日常„に驚き困惑しながらも少しずつ理解していった。
コウキは”チュウガクセイ„で、母親はコウジョウという場所で朝早くから夜遅くまで働いているということ。二人は身分のある者ではなく平民だということ。父親の姿はない。亡くなったのだろうか。
コウキは“チュウガッコウ„と呼ばれる場所へ行く。そこにはコウキと同じ恰好をしたチュウガクセイが十数人いる。彼らもコウキと同じで平民だった。
その中でも俺の目を引いたのはコウキと似たような年齢の女の子たちがいて、一緒のキョウシツで学びを受けていたことだ。
女の子たちは女の子たちで同じ服を着ているのだが、スカート丈がひざ下ぐらいまでしかなく足が剥き出しだった。中にはセンセイと呼ばれる女性も足を晒していて凄く目のやり場に困った。だけど誰もその光景に異議を唱える人は居なかった。ここでは普通なんだろうか。
またコウキの傍にいるからだろうか。知らない言語だというのに不思議と理解できた。ただすべてを理解できるわけではない。分からない単語もたくさんあった。残念ながら文字は理解することができなかった。
コウキの傍らでセンセイたちの話を聞いているうちに、ここが二ホンという島国だとわかった。
(どうして、こんなことが……)
俺はあの襲撃の日、セザール兄さんに突き落とされて死んだということを漠然と理解した。しかしなぜ死んだ俺が知らない島国のコウキという少年の傍にいるのか分からなかった。
(これも何かしらの要因で……起きたことなんだろうか……)
クロムの願いによって生まれ変わったのと同じように……。
(分からない……)
ただ一つだけ分かるのは、自分が知らない国で誰にも気づかれない存在になってしまったということだけだった。
コウキはよく‟シリツ„図書館へ足を運ぶ。そこは子供から大人まで自由に気兼ねなく本を読んだり借りたりしている。
コウキは本を手に取ることもなく‟カウンター„で何かやり取りをした後、本棚の奥に置かれた数台の“パソコン„のうち一台の前に座った。
この“パソコン„は知りたい単語を“ニュウリョク„するだけで簡単に情報を得ることができる。最初はとても高度な魔法だと思った。でもそれは違っていた。二ホンは魔法ではなく‟リカ„というもので文明を築き上げた国のようだった。
馬がなくても走る“クルマ„も、動く紙芝居みたいな”テレビ„も、驚くほど明るい‟ショウメイ„も、遠くの人と簡単に連絡が取れる‟デンワ„も全部、”リカ„から生まれたものなんだろう。そしてそれは誰もが覚えれば簡単に操作することが出来た。……魔力に関係なく。
コウキも慣れた手つきで‟パソコン„に単語を“ニュウリョク„して情報を探していた。
(情報……というより物語を探して読んでいるみたいだ)
最初は何か情報を探してるのかと思ったけど、徐々に文字の配置や記号が、‟コクゴ„と似通っていることに気づいた。
(物語の内容までは分からないけど……)
コウキは図書館の本を読むよりも、“パソコン„にある物語を読むのが好きなようだった。
コウキは時折近くにある海に足を運んでは、浜辺に座り込んでぼぅと海を眺めている。
とても綺麗な場所なのに人気はなく、静かな波の音だけが聞こえた。遠くに切り立った崖が見える。
俺はこの海を見る度に彼の……ベルナルドのことを思い出していた。目の前の海の色が彼の瞳の色によく似ているせいかもしれない。
(オルディウス帝国はどうなったんだろう……)
あの襲撃がどのような結末を迎えたのか……今の自分には知ることはできない。




