茶々外伝・②⑤②話『常陸国城代』編・第6話 お初、嘘の匂いを見る
国人衆が持ち込んだ話は、どれも一度聞いただけでは白黒がつかなかった。
田境。
寺社領。
港へ米を運ぶ道の通行料。
新城普請に出す材木。
人足の割り当て。
それぞれ別の話のようでいて、根は似ている。
誰がどれだけ負担するのか。
誰がどれだけ得をするのか。
昔からの決まりを、誰の都合でどう使うのか。
常陸国城代となってから、私はようやく知った。
政とは、大きな命令一つで国を動かすことではない。むしろ、細い糸が何本も絡まった場所を、一本ずつ指先でほどいていくようなものだ。
力任せに引けば、糸は切れる。
優しすぎれば、絡まりはそのまま残る。
どこを緩め、どこを押さえ、どこで切らずに結び直すか。
その加減を誤れば、領国は静かに歪む。
「御方様」
政道が帳面を持って入ってきたのは、国人衆との評定から二日後の朝だった。
私は土浦城の一室で、前回の評定記録を読み返していた。
桜子が控え、梅子は水場の調査で得た病の記録をまとめ、桃子は相変わらず寝具と湿気の問題を真剣に考えている。お江は奥で桃子の手伝いをしているはずだったが、あの子が本当に手伝いだけで終わるかは分からない。
「入りなさい」
政道が膝をつき、帳面を差し出した。
「田境の件、関係する村の年寄より、古い年貢帳の写しを取り寄せました。また、寺に残る過去の寄進状の写しもございます」
「早いですね」
「御方様が“放置するな”と仰せでしたので」
政道はそう言って、少しだけ表情を引き締めた。
私は帳面を受け取る。
「下妻七郎兵衛が申していた田境の話ですね」
「はい。七郎兵衛殿は、本来己の家の差配地であった田が、隣村扱いになっていると主張しております」
「相手の村は」
「田島村にございます」
「田島村の年寄は何と」
「父祖の代より田島の田である、と」
「でしょうね」
私は帳面をめくった。
年貢帳の写しには、田の名、持ち主、年貢高が記されている。
筆跡は写しであるため一様だが、元になった記録の年が添えられていた。
不自然なほど、きれいに整っている箇所がある。
「政道」
「はい」
「この写しは、誰が持ってきましたか」
「七郎兵衛殿の家臣が」
「田島村側の記録は」
「こちらに」
別の紙を受け取る。
田島村側の写しは、ずいぶん古びた文書から写したらしく、文字の欠けや読みづらい箇所が注として書かれている。
見比べると、同じ田の名がある。
だが、七郎兵衛側の写しでは境に関わる一部が、やけにはっきりしていた。
「……きれいすぎますね」
私が呟くと、桜子が静かに近づいた。
「御方様も、そう思われますか」
「ええ」
政道も頷いた。
「私も気になっております。ただ、写しだけで断じるのは危うございます」
「当然です。元の文書を見ます」
「七郎兵衛殿は、元文書は家にあると申しております」
「ならば、出させなさい」
「すでに使者を」
「よろしい」
私は帳面を閉じかけ、ふと手を止めた。
「お初はどこに」
「お初様でしたら、先ほどお江様と奥の庭に」
桜子が答える。
「呼んでください」
「はい」
政道が少しだけ不思議そうな顔をしたが、何も言わなかった。
以前なら、「この件にお初様を?」という顔をしたかもしれない。
けれど今は、お初の目が役に立つことを知っている。
お初は、お江に袖を引っ張られながらやってきた。
「姉上様、何?」
お初の声は少し不機嫌だった。
その横でお江が口を挟む。
「お初姉様、さっきまで常陸の子どもたちと遊ばないって言いながら、結局ちょっと相手してた」
「してない」
「石投げの的を直してあげてた」
「危なかったから直しただけ」
「それを遊んだって言うんだよ」
「違う」
私は思わず少し笑った。
「お江は、桃子のところへ戻りなさい」
「えー、私も聞きたい」
「今日は文書の話です」
「文書かあ……」
お江は明らかに興味を失った顔をした。
「じゃあ、桃子ちゃんのところ行く」
「菓子蔵には寄らないように」
「寄らないよ!」
即答が少し早い。
お初が呆れた。
「絶対寄る顔だった」
「寄らないって!」
「桜子、見張りを」
私が言うと、桜子は真面目な顔で「承知しました」と答えた。
「姉上様まで!」
お江は不満そうに去っていった。
その足音が遠ざかってから、私はお初へ帳面を示した。
「これを見なさい」
「私が?」
「ええ」
「文書のことなんて分からないわよ」
「文字の正しさを見てほしいのではありません」
お初は怪訝そうに座った。
私は、七郎兵衛側の写しと田島村側の写しを並べた。
「先日の評定で、下妻七郎兵衛が田境の話を持ち込みました。今、双方の記録を集めています。こちらが七郎兵衛側。こちらが田島村側」
「ふうん」
お初は紙を覗き込んだ。
最初は面倒そうだった。
けれど、すぐに眉間へ皺が寄る。
「……これ、同じ田の話?」
「そうです」
「こっちは読みにくいけど、こっちは妙にきれい」
「私もそう思いました」
「でも、写しなんでしょ?」
「ええ。だから元文書を見ます」
お初は、紙よりも政道の顔を見た。
「持ってきた人、どんな顔してた?」
政道が少し驚く。
「七郎兵衛殿の家臣ですか」
「うん」
「若い男でした。丁寧ではありましたが」
「焦ってた?」
「……多少は」
お初は腕を組んだ。
「隠し事の焦り?」
「そこまでは」
政道が言いよどむと、お初は少し不満そうにした。
「見てないと分からないじゃない」
「申し訳ございません」
「責めてない。私も見てないから分からない」
その言い方が、妙にお初らしかった。
私は紙を押さえながら言った。
「お初、先日の評定で七郎兵衛をどう見ましたか」
「あの声が大きい人?」
「ええ」
「声が大きいのは、たぶん自分を強く見せたいから。でも、田境の話をした時、ちょっと視線が右に逃げた」
「右?」
「大堀左馬助の方」
政道がすぐに顔を上げた。
「また左馬助殿ですか」
「また?」
お初が問う。
私は頷く。
「前回、海老沢源内の通行料の話でも、源内が左馬助を見ていたとあなたが言いました」
「ああ、そうだった」
「つまり、複数の話の背後に、左馬助がいるかもしれません」
お初は少しだけ目を細めた。
「左馬助って、あの細い目の人?」
「ええ」
「何考えてるか分かりにくい顔だった」
「分かりにくいのに、見えましたか」
「全部は分からない。でも、他の人が話してる時も、自分が聞いてるんじゃなくて、相手がどう話すか見てる感じだった」
私は思わず政道と顔を見合わせた。
お初は、やはり見ている。
理屈ではない。
人の目、肩、声の入り方、沈黙の置き方。
そういうものを、感覚で拾っている。
「お初」
「何」
「あなたは、やはりこの件に必要です」
「……またそうやって」
「本当です」
お初は居心地悪そうに視線を逸らした。
「政なんて分からないって言ってるのに」
「政とは、人の顔を見ることでもあります」
私がそう言うと、お初は少しだけ黙った。
「……それ、ずるい」
「何がです」
「そう言われたら、逃げにくい」
「逃げなくてよいのです」
「逃げたい時もあるの」
お初の言葉は軽く聞こえたが、少し本音が混じっていた。
私は静かに返した。
「逃げたい時は、私の後ろにいなさい。けれど、目だけは貸してください」
お初は、私を見た。
しばらく黙って、それから小さく言う。
「……それなら、まあ」
「ありがとうございます」
「お礼言われるのも落ち着かない」
その顔が少し赤かったので、私はあえて見ないふりをした。
その日の午後、下妻七郎兵衛の家臣が元文書を持って来た。
使いとして来たのは、朝に政道が話していた若い男だった。
名を佐吉という。
広間ではなく、小さな詰めの間へ通した。
大仰にすれば相手も身構える。
だが、軽すぎてもいけない。
私と政道、桜子。そして少し離れた控えの間にお初を置いた。
お初は不満そうだった。
「私、隠れて見るの?」
「隠れるのではありません。控えるのです」
「ほぼ同じじゃない」
「違います」
「姉上様、そういう言い方上手くなった」
「褒めていますか」
「ちょっと皮肉」
「受け取っておきます」
佐吉は、丁寧に文書箱を差し出した。
「下妻七郎兵衛が家に伝わる古文書にございます。田境の正しき筋目、これにて明らかかと」
声は整っている。
しかし、指先が箱の端を強く押さえていた。
「ご苦労でした」
私は文書を受け取らず、政道へ視線を向けた。
政道が箱を開き、文書を取り出す。
古びた紙だった。
だが、ある箇所だけ、妙に墨が新しく見える。
私はすぐに断じなかった。
「政道」
「はい」
「寺の記録と照らし合わせます」
「承知しました」
佐吉の喉が小さく動いた。
それを、控えの間のお初も見ていたはずだ。
「佐吉」
「はっ」
「この文書は、あなたが保管していたものですか」
「いえ、私は使いにございます」
「誰が箱から出しましたか」
「家の蔵より、七郎兵衛様が直々に」
「あなたは中を見ましたか」
「い、いえ。私ごときが」
言葉が、少し滑った。
「そうですか」
私は文書の端を見た。
「では、七郎兵衛に伝えなさい。こちらでしばらく預かります」
「預かる、でございますか」
佐吉の顔が変わった。
「はい」
「いえ、その、家に伝わる大切な文書ゆえ、写しをお取りいただければ」
「元文書を確認するために出させました。写しならすでにあります」
「しかし」
「返します」
私は静かに言った。
「ただし、今すぐではありません」
佐吉は、明らかに困った顔をした。
その時、お初が控えの間から一歩出てきた。
「姉上様」
「何です」
「その人、今、“文書を見られるのが困る”じゃなくて、“文書が戻らないと困る”顔をした」
佐吉がぎょっとした。
「な、何を」
お初は少し怯みかけたが、すぐに顔を引き締めた。
「違ったらごめんなさい。でも、最初に文書を出した時は、見せるのが嫌そうだった。今は持って帰れないのが怖い顔」
政道の目が鋭くなった。
「佐吉。文書を戻さねばならぬ理由があるのか」
「ございません! ただ、主より大事なものと」
「ならば、預けて問題はないはずです」
佐吉は口を閉ざした。
私はお初へ静かに頷いた。
「よく見ていました」
お初は「別に」と言いかけて、今は言わなかった。
佐吉を下がらせたあと、私はお初と政道を残した。
文書を机へ広げる。
古く見える。
確かに古い紙だ。
だが、問題の境に関わる一行だけ、墨の色がわずかに違う。筆の運びも、古い本文に似せてはいるが、どこか硬い。
政道が低く言う。
「追記、あるいは書き換えの疑いがございます」
「断じるには」
「専門の者に見せる必要がございます。寺の古文書にも詳しい者を呼びます」
「そうしなさい」
お初は、文書を見ながら難しい顔をしていた。
「文字って、嘘つくのね」
「人が書くものですから」
「でも、紙になってると本当っぽく見える」
「だから怖いのです」
私は文書から目を離さずに言った。
「口で言う嘘は、その場で揺れます。けれど文書に書かれた嘘は、時が経つほど本当の顔をしてしまう」
お初は黙った。
「お初」
「何」
「あなたが見た佐吉の顔、覚えておきなさい」
「うん」
「この件は、田境だけではないかもしれません」
「大堀左馬助?」
「可能性はあります」
政道が帳面を開いた。
「下妻七郎兵衛と大堀左馬助の関わりを調べます。また、田島村側にも急ぎ連絡を」
「お願いします」
私は少し考えた。
「田島村の年寄と、百姓代表を呼びなさい。ただし、下妻側には日取りを知らせぬように」
「承知しました」
お初が目を細めた。
「相手に準備させないため?」
「ええ」
「姉上様、だんだん怖くなってきた」
「城代ですので」
「また便利に使う」
私は少しだけ笑った。
夕方、田島村の年寄と百姓代表が土浦城へ来た。
年寄は腰の曲がった男で、名を喜助。
百姓代表は思ったより若く、三十前後の男だった。名を与平という。
与平は、最初から何かに怯えていた。
広間に入った時、まず私を見た。
次に政道を見た。
そして最後に、部屋の端にある文書箱を見て、明らかに顔色を変えた。
お初が私の横で、小さく息を吸った。
見えたのだろう。
「喜助、与平」
私は二人へ声をかけた。
「今日は、田境の件で話を聞きます。ここで話したことを理由に、下妻家から不当な扱いを受けることがあってはなりません。それは黒坂家が許しません」
与平の肩が、わずかに震えた。
喜助は深く頭を下げた。
「ありがたきお言葉にございます」
「まず聞きます。下妻七郎兵衛は、問題の田が本来己の家の差配地だと主張しています。あなた方は」
「違います」
与平が、思ったより早く言った。
言ってから、はっとした顔をする。
喜助がそれをたしなめようとしたが、私は止めた。
「続けなさい」
与平は、拳を握った。
「あの田は、田島の田です。父も祖父も、あそこで米を作っておりました。用水も田島の者がさらい、畦も直してきました。下妻様の家から人が来たことなど、ここ数年までございませんでした」
「ここ数年?」
政道が聞き返す。
与平は一瞬、口を閉じた。
お初が小さく呟く。
「怯えてる」
私は与平を見た。
「与平。ここでは、急がなくてよいです」
「……はい」
「誰が、いつから来るようになったのですか」
与平は、しばらく黙っていた。
やがて、低い声で言う。
「新城の話が出てからです」
空気が変わった。
「下妻様の者が来て、あの辺りは昔から下妻の筋目だと。新城に出す人足や材木の割り当てが変わる前に、正しくせねばならぬと」
「何か文書を見せられましたか」
「いいえ。ただ、古文書があると」
「その話をした者は」
「佐吉という若い侍でございます」
私は政道を見た。
政道はすでに記録している。
「暴力は」
私が問うと、与平は少しだけ目を伏せた。
「まだ、ございません。ただ……」
「ただ?」
「今年の用水さらいの時、下妻の者が“よく考えて動け”と」
喜助が悔しそうに唇を噛んだ。
「御方様、我らは黒坂家に逆らう気などございませぬ。ただ、あの田まで取られれば、田島は人足も年貢も割に合わなくなります」
私は、静かに頷いた。
「分かりました」
お初が小さく言った。
「姉上様」
「何です」
「与平は嘘ついてないと思う。でも、何かまだ隠してる」
与平がぎくりとした。
私はお初を叱らなかった。
「与平」
「は、はい」
「隠していることがあるなら、今言いなさい。あなたを責めるためではありません。隠したままでは、守れるものも守れなくなります」
与平は、何度も唇を開きかけた。
そしてようやく、懐から小さく折った紙を出した。
「これを……拾いました」
政道が受け取り、広げる。
そこには、下妻側の家臣らしい者から佐吉へ宛てた短い書付があった。
内容は曖昧だが、こう記されていた。
――境の一文、早く整えよ。左馬助殿も急かしておられる。
左馬助。
やはり出てきた。
政道の顔が険しくなる。
桜子も息を呑んだ。
お初は、私を見た。
「姉上様」
「ええ」
私は紙を見つめた。
文書の書き換え。
下妻七郎兵衛。
佐吉。
そして大堀左馬助。
田境争いは、単なる村同士の古い争いではない。
新城建設に伴う負担や土地の価値の変化に便乗して、誰かが境を動かそうとしている。
それが、ようやく形を持ち始めた。
田島村の二人を下がらせたあと、お初は深く息を吐いた。
「……嫌な感じ」
「ええ」
「田んぼ一枚の話じゃないのね」
「田んぼ一枚に見えるところから、もっと大きな思惑が出てきます」
「政って面倒」
「本当に」
私が素直に答えると、お初は少しだけ驚いた顔をした。
「姉上様でも、そう思うの」
「思います」
「でも逃げないのね」
「逃げたら、田島村の田は戻りません」
お初は黙った。
それから、小さく言う。
「私、役に立ってる?」
その問いは、いつもの強がりがなかった。
私はお初をまっすぐ見た。
「立っています」
「本当に?」
「ええ。あなたが佐吉の顔を見なければ、文書を預かる時の違和感を逃していたかもしれません。与平がまだ隠していることにも、私はすぐには気づけなかった」
お初は視線を落とした。
「……私、ただ何となく見てるだけなのに」
「その何となくが、政に必要なのです」
「文字も帳面も、よく分からない」
「文字は政道が見ます。帳面は私も見ます。けれど人の顔は、あなたが見える」
お初の肩が少し震えた。
「そんなの、変な役目」
「いいえ」
私は静かに言った。
「人の顔を見ることも、国を見ることです」
お初は、しばらく何も言わなかった。
そして、小さな声で言った。
「……じゃあ、見る」
「はい」
「でも、“顔奉行”とか呼ばせないで」
「お江には強く言っておきます」
「絶対よ」
そこで、ようやくお初が少しだけ笑った。
夜、私は真琴様へ報告した。
田境の文書に書き換えの疑いがあること。
佐吉が文書を持ち帰りたがったこと。
田島村の与平が拾った書付に、左馬助の名があったこと。
そして、お初がいくつもの違和感を見抜いたこと。
真琴様は腕を組み、しばらく黙っていた。
「大堀左馬助か」
「御存じですか」
「常陸の中でも、立ち回りが上手いタイプだね。真正面から逆らうより、境とか通行料とか、細かいところで利を積む」
「厄介ですね」
「かなり」
真琴様は、しかし少しだけ笑った。
「でも、茶々が即断しなかったおかげで見えてきた」
「お初のおかげでもあります」
「うん。お初、すごいね」
横にいたお初が、思い切り固まった。
「な、何で私がここにいる時に言うの」
「だって本人に言った方がいいでしょ」
「よくない」
「よくないの?」
「落ち着かない!」
お初は本気で困った顔をした。
真琴様は笑いをこらえている。
「でも、本当に助かった。お初が見てくれたから、佐吉も与平も崩れた」
「……別に」
「それ、照れてる時の別にだ」
「違う!」
私は思わず笑ってしまった。
真琴様は、お初をからかいすぎない程度で止め、私へ向き直った。
「次は?」
「文書を専門の者に見せます。寺の記録、年貢帳、田島村側の証言を揃えた上で、改めて評定を開きます」
「七郎兵衛と左馬助は?」
「逃げ道は残します」
真琴様の目が少し細くなった。
「潰さない?」
「今ここで完全に潰せば、国人衆の反発を招きます。ですが、土地を戻させること、二度と同じことをさせぬこと、新城建設へ相応の負担を出させることは必要です」
「うん」
「表向きは、境界誤認の訂正。裏では、黒坂家が文書のごまかしを見逃さぬと知らせます」
真琴様は、今度こそはっきり笑った。
「茶々、完全に城代の顔だ」
「茶化さないでくださいませ」
「茶化してない。本気」
その声があまりに真面目だったので、私は少しだけ言葉に詰まった。
お初が横で小さく言った。
「姉上様、顔赤い」
「お初」
「今のは見えた」
「見なくてよろしいです」
真琴様が吹き出した。
その夜、私は一人で記録をまとめた。
田境争い。
文書の書き換え疑い。
下妻七郎兵衛。
大堀左馬助。
佐吉。
田島村の喜助と与平。
拾われた書付。
お初の観察。
筆を進めながら、私は思った。
嘘には、匂いがあるのかもしれない。
墨の色。
紙の古さ。
声の揺れ。
目の逃げ方。
文書を持ち帰りたがる手。
まだ何か隠している百姓の肩。
それらを一つずつ拾えば、嘘は形を持つ。
私は、その匂いをまだ上手く嗅ぎ分けられない。
けれど、お初は見た。
あの子は、文字ではなく顔から、嘘の匂いを見た。
姉として、誇らしかった。
城代として、ありがたかった。
そして少しだけ、怖くもあった。
人を見る力は、使い方を誤れば人を傷つける。
だからこそ、私が受け止めなければならない。
お初が見たものを、ただ疑いとして終わらせず、文書と証言と現地の確認へ繋ぐ。
それが私の役目だ。
私は記録の最後に、こう書いた。
人の顔を見る目、軽んずべからず。
ただし、顔のみで裁くべからず。
書いてから、少しだけ息を吐いた。
常陸国城代としての仕事は、日に日に重くなっていく。
けれどその重みの中に、私は一人ではないと感じ始めていた。
真琴様がいる。
政道がいる。
桜子たちがいる。
そして、お初の目がある。
この国を見る目は、一つでは足りない。
ならば、皆の目を借りながら、私は常陸を見ていこう。




