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茶々外伝・②⑤⓪話『常陸国城代』編・第4話 鹿島港より、鉄の船を見上げる者たち

 鹿島港へ再び向かったのは、常陸の水を見て回った翌々日のことだった。


 土浦城下の井戸と水場を見たあと、私は政道に命じて、直すべき場所の優先をまとめさせた。

 雨のあと濁る井戸。

 坂上の飲み水へ向かう道。

 排水の悪い洗い場。

 夏前に臭いがこもりそうな水場。

 どれも小さなことのように見えて、放っておけば人の暮らしを少しずつ削る。


 水を見れば、国の一部が見える。


 そう思ったばかりだった。


 けれど、常陸にはもう一つ、見なければならない水があった。


 海である。


 鹿島港には、黒坂家の三隻の南蛮式鉄甲帆船が停泊している。

 織田信長公より真琴様へ下賜された、巨大なガレオン船型の鉄甲帆船。

 常陸へ入国した時、あの三隻は港の者たちを圧倒した。


 それはよい。

 威を示す必要はあった。

 新しい領主が、ただ陸から来たのではなく、海からも来たのだと知らせる意味もあった。


 けれど、強すぎる威は時に人を縮ませる。


 鹿島港からの報告には、荷下ろしは進んでいるが、港の者たちの動きが固いとあった。

 船大工、荷役、漁師、商人たちが、あの鉄甲帆船を恐れ、黒坂家が港の古い決まりを一気に壊すのではないかと囁いているらしい。


 真琴様は新城建設と国人衆への対応で手が離せない。

 だから私が行く。


 城代として。


「また港でございますか」


 桃子は、出立前から顔色を少し悪くしていた。


「港です。船に乗るとは言っていません」


「船に乗らなくても、見えるだけで少し……」


「桃子、あなたは鹿島へ着いた時も地面へ下りた途端に回復しました」


「はい。ですので、港の板の上におります。船の上ではございません。大丈夫です。大丈夫なはずです」


 自分に言い聞かせている。


 梅子が静かに薬箱を持ち上げた。


「一応、香は用意しております」


「梅子」


「はい」


「船酔いの薬は、もう減らしたのでは」


「港酔いというものが発生する可能性も」


「発生させないでください」


 お江が、それを聞いて目を輝かせた。


「港酔いって何?」


「あなたは覚えなくてよいです」


「でも新しい言葉!」


「覚えなくてよいです」


 お初が横からぴしゃりと言った。


「あんたが覚えると、絶対どこかで使うから」


「使わないよ」


「昨日、“飲み比べ禁止”を政務記録に書こうとしたでしょ」


「大事なことだったもん」


「大事でも書く場所が違うの」


 私は二人のやり取りを聞きながら、支度を整えた。


 鹿島港へ向かうのは、私と桜子、梅子、桃子。

 お初とお江も連れていく。

 お初には港の人々の顔を見てもらう。お江には、できれば余計なことを言わずにいてほしい。

 難しい願いだが、願うだけなら許されるはずだ。


「お江」


「はい」


「今日は、船に乗りたいと言わないこと」


「……見るだけ?」


「見るだけです」


「ちょっと中を見たりは?」


「しません」


「甲板に一歩だけ」


「しません」


「帆の下だけ」


「しません」


 お初が呆れた。


「どんどん増えてるじゃない」


「だって気になるんだもん」


「気になるもの全部触ったら、港が壊れるわよ」


「そこまでしない!」


 私は桜子へ目を向けた。


「桜子」


「はい」


「お江を見ていてください」


「承知しました」


「姉上様、私、危険物扱い?」


「自覚があるなら少し安心です」


「ない!」


 まったく安心できなかった。


 鹿島港へ着くと、潮の匂いがまず頬を打った。


 土浦の水辺とは違う。

 川や湖の湿りではない。

 海の匂いは、もっと強く、もっと荒い。

 そこに魚、木材、縄、湿った荷、汗、煙の匂いが混じる。


 そして、その先に三隻の鉄甲帆船があった。


 何度見ても、異様だった。


 高い船腹。

 太い帆柱。

 異国風の船尾。

 船体の要所に貼られた鉄板は、曇り空の下でも鈍く光っている。

 港の和船に混じると、まるで大人の中に鬼が立っているようにも見えた。


 お江が小さく息を呑む。


「……やっぱり大きい」


「騒がない」


 お初が先に釘を刺す。


「分かってる」


「目が騒いでる」


「目は許して」


 港の者たちは、私たちが来たと知ると、一斉に動きを止めた。


 荷を担いでいた男。

 網を直していた漁師。

 木材を運ぶ船大工。

 帳面を持つ商人。

 皆が少し離れたところで頭を下げる。


 礼儀はある。

 だが、空気は硬い。


 大津の城下で井戸を見た時の戸惑いとも違う。

 ここには、もっとはっきりした警戒があった。


 私はそれを肌で感じた。


 この人たちは、黒坂家をまだ知らない。

 真琴様の名は聞いているだろう。

 信長公より下賜された鉄甲帆船の威も見ている。

 だが、それゆえに怖れている。


 黒坂家は、港を奪いに来たのではないか。

 古くからの仕事を取り上げるのではないか。

 南蛮船を持ち込んで、これまでの商いを踏み潰すのではないか。


 そういう気配が、視線の端にあった。


「御方様」


 港のまとめ役らしき男が進み出た。


 四十を過ぎた頃だろうか。日に焼けた顔で、背は高くないが、腕と首が太い。

 名を、弥七郎と名乗った。


「鹿島港の荷役を束ねております」


「茶々にございます」


 私は静かに頭を下げた。


「今日は荷下ろしの進みと、港の様子を見に参りました」


「はっ。荷下ろしは滞りなく」


 その言葉は、少し早かった。


 滞りなく。

 こういう時、滞りがある者ほど最初にそう言うことがある。


 私はすぐには否定せず、港の方を見た。


「では、見せてください」


「こちらへ」


 弥七郎は先に歩き出した。


 彼の背中は、固い。

 私を案内するというより、何かを隠さぬように、しかし見せすぎぬようにしている背中だった。


 お初が私のすぐ後ろへ来て、小さく言った。


「硬い」


「ええ」


「怒ってるというより、怖がってる」


「そう見えますか」


「うん。船を見た時の顔が、ちょっと変だった」


 やはり、お初を連れてきてよかった。


 鉄甲帆船から下ろされた荷は、港近くの仮蔵と広場に分けられていた。


 米俵。

 武具箱。

 建築道具。

 湯殿や台所の資材。

 布や調度を入れた箱。

 文書ではないが、政務に使う机や棚の一部。


 桜子が目録を開き、港側の帳面と突き合わせる。


「一番船から下りた米は、数が合っております」


「二番船の建築道具は」


「一部、まだ船内に」


 弥七郎が答える。


「重いものがあり、人足を増やす必要がございます」


「人足を増やせば下ろせますか」


「下ろせます。ただ……」


 そこで彼は口を閉じた。


「ただ?」


 私が促すと、弥七郎は少し顔を歪めた。


「南蛮船の荷下ろしに慣れておらぬ者が多く、皆、船に近づくのを怖がります」


 正直な言葉だった。


 私は鉄甲帆船を見上げた。


 確かに、怖いだろう。

 港の者といえど、あのような船に慣れている者ばかりではない。

 高い船腹、異国の構造、鉄板を貼った黒い巨体。

 それに加えて、黒坂家の兵が警備に立っている。

 人足が気軽に近づける雰囲気ではない。


「怖がる者を叱って近づけさせているのですか」


 私が問うと、弥七郎は一瞬黙った。


「……急ぎの荷もございますゆえ」


「怪我人は」


「まだ、大きな怪我は」


「小さな怪我は」


 弥七郎は答えなかった。


 梅子が前へ出る。


「擦り傷、打ち身、縄で手を傷めた者がいるはずです」


 港の男たちの何人かが、思わず手を隠した。


 私はそれを見た。


「梅子、あとで見なさい」


「承知しました」


 弥七郎が慌てて言う。


「御方様、港の者はこの程度で騒ぎませぬ」


「騒ぐかどうかではありません」


 私は彼を見る。


「手を傷めれば荷を下ろせません。足を滑らせれば、荷も人も海へ落ちます。小さな怪我を軽んじれば、大きな遅れになります」


 弥七郎は、口を閉じた。


 港の男たちが少しざわめく。


 お江が小声で言った。


「手って大事なんだね」


 お初がさらに小声で返す。


「荷役の人にとっては命みたいなものでしょ」


「そっか」


「分かったなら今日は何も触らないで」


「それはまた別」


「別じゃない」


 私は聞こえないふりをした。


 次に案内されたのは、港の奥にある船大工たちの作業場だった。


 そこには、和船の修理に使う木材や道具が並び、職人たちが手を止めてこちらを見ていた。

 だが、その視線は荷役の者たちとは少し違った。


 恐れだけではない。

 悔しさに似たものがあった。


 一人の老いた船大工が、私を見るなり深く頭を下げた。


「御方様」


「名は」


「茂兵衛にございます。代々、この港で船を直しております」


「茂兵衛」


 私は頷いた。


「鉄甲帆船を、どう見ていますか」


 いきなり問うと、周囲の者たちが少し慌てた。


 茂兵衛も一瞬、言葉を詰まらせる。


「どう、と申されますと」


「恐ろしいですか」


「……はい」


 正直な返事だった。


「羨ましいですか」


 茂兵衛は顔を上げた。


 その目に、少しだけ火が入る。


「はい」


「仕事を奪われると思いますか」


 今度は、周囲が明らかにざわついた。


 弥七郎が慌てて口を挟もうとする。


「御方様、それは――」


「茂兵衛に聞いています」


 私は静かに言った。


 茂兵衛は、しばらく黙っていた。

 やがて、低い声で言う。


「あの船は、我らの手には余ります。南蛮の造り、鉄の貼り方、帆の扱い、どれも違う。黒坂家があの船を持って来られた時、若い者の中には、自分たちの船などもう要らぬのではと申す者もおりました」


 その声は震えていなかった。

 ただ、重かった。


 私は鉄甲帆船の方を見た。


 あの船は威だ。

 力だ。

 けれど、その影に立つ者たちにとっては、自分たちの技を小さく見せるものでもある。


 そこを見落とせば、港は黒坂家を心から受け入れない。


「茂兵衛」


「はい」


「黒坂家は、鹿島の船大工を不要にするために、あの船を持ち込んだのではありません」


 茂兵衛は黙って聞いた。


「南蛮式鉄甲帆船は、大きな荷を運び、海で威を示し、遠い場所と常陸をつなぐ役目を持ちます。ですが、港の日々を支えるのは、あなたたちの船です」


 私は作業場に並ぶ木材と道具を見た。


「漁へ出る船。近場の荷を運ぶ船。川と港をつなぐ小舟。壊れた時すぐ直せる船。そういうものまで南蛮船で代わりには出来ません」


 茂兵衛の目が、少しだけ揺れた。


「むしろ、これから港は忙しくなります。鉄甲帆船が運んでくる荷を受け、小舟へ移し、川筋へ送り、港の船を直し、増やす必要も出るでしょう。黒坂家は、港の者たちの力を借りねばなりません」


「借りる……」


「はい。使い潰すのではありません。借り、働きに応じて返すのです」


 周囲の職人たちの空気が、少し変わった。


 警戒は消えない。

 だが、ただ怯えていたものが、少しだけ前へ出た気がした。


 茂兵衛は深く頭を下げた。


「御方様のお言葉、若い者にも聞かせとうございました」


「では、あとで集めなさい。短く話します」


 弥七郎が驚いた顔をした。


「御方様自ら?」


「私が言った方が早いでしょう」


 お江が小声で「姉上様、港でも評定してる」と言った。

 お初が「黙って」と返す。


 昼前、港の者たちを集めて、私は短く話した。


 長く語れば、かえって嘘くさくなる。

 だから、言葉は選んだ。


「黒坂家の鉄甲帆船を見て、恐れを抱く者もいるでしょう」


 港の広場に集まった男たち、女たち、船大工、荷役、商人、漁師たちが静かに聞いている。


「あの船は、確かに大きな力です。信長公より黒坂家へ下賜された、海に浮かぶ城のような船です。常陸へ入る黒坂家の威を示すものでもあります」


 私は一拍置いた。


「ですが、威だけで港は動きません」


 風が吹いた。

 鉄甲帆船の帆が遠くで低く鳴る。


「荷を下ろす手。縄を結ぶ手。小舟を直す手。魚を揚げる手。米を運ぶ足。水を汲む女たちの声。そういうものがなければ、港は港ではありません」


 港の女たちの何人かが顔を上げた。


「黒坂家は、鹿島港を奪いに来たのではありません。鹿島港を、常陸の入口として整えに来ました」


 弥七郎が、私を見ている。


「古い決まりの中に、守るべきものがあれば守ります。改めるべきものがあれば、話を聞いて改めます。南蛮船だけで港を動かすつもりはありません。皆の働きが必要です」


 私は少し声を低くした。


「ただし、働きを隠すことも、怪我を隠すことも、荷をごまかすことも許しません。恐れがあるなら言いなさい。不満があるなら聞きます。ですが、嘘と隠し事は港を腐らせます」


 静けさが落ちた。


 大津で茶会を開いた時とも、土浦城で評定に座った時とも違う静けさ。

 潮と汗と木材の匂いの中で、人々がこちらを見ている。


 私は最後に言った。


「この港は、黒坂家のものになる前に、常陸の人々の暮らしの場です。そのことを忘れずに、共に整えましょう」


 頭を下げたのは、弥七郎が最初だった。


 次に茂兵衛。

 それから荷役の者、商人、女たち。


 まだ完全な信頼ではない。

 そんなものが一度の言葉で生まれるとは思っていない。


 けれど、恐れだけで固まっていた港の空気が、ほんの少し動いた。


 話が終わると、お江が駆け寄ってきた。


「姉上様!」


「走らない」


「すごかった!」


「声が大きいです」


「でも、すごかった! 船、怖いだけじゃないって分かった!」


 お初が後ろから言う。


「お江は半分くらいしか分かってないでしょ」


「分かってるよ。あの船はすごい。でも、港の人がいないと何もできない。でしょ?」


 私は少し驚いた。


「……大筋は合っています」


「ほら!」


 お初は悔しそうな顔をした。


「大筋だけね」


「大筋が大事って真琴も言ってた」


「変なところだけ覚える」


 その時、桃子が少し青い顔で船の方を見ながら言った。


「御方様」


「何です」


「港の方々が、あの船を怖がるお気持ちは、少し分かります」


「桃子は船そのものが怖いでしょう」


「はい。でも……あれほど大きいものが急に来たら、暮らしが変わってしまうと思うのも、分かる気がします」


 桃子にしては、かなり真面目な言葉だった。


「そうですね」


 私は頷いた。


「大きなものは、便利であるほど、人を不安にもさせます」


 梅子が薬箱を持ちながら言った。


「荷役の者の手当てをしてまいります。小さな傷が思ったより多いです」


「お願いします」


 桜子は目録を閉じた。


「御方様、荷の数は大きな乱れなし。ただし、二番船の建築道具の下ろしに人手の再配置が必要です」


「弥七郎と相談します。怖がる者を無理に船へ上げず、慣れた者と組ませて順に」


「承知しました」


 港の実務が、少しずつ動き出している。


 鉄甲帆船を見せるだけでは足りない。

 その下で働く人の手を、どう動かすか。

 それを整えなければならない。


 城代とは、こういうことなのだろう。


 夕刻、土浦へ戻る前に、私はもう一度三隻の鉄甲帆船を見上げた。


 夕陽が鉄板を赤く染め、船腹には黒い影が落ちている。

 初めて見た時は、海に浮かぶ城だと思った。

 今もそう思う。


 けれど今日は、その城を見上げる人々の顔も見た。


 恐れ。

 誇りを傷つけられる不安。

 仕事を失うかもしれぬ焦り。

 それでも、新しい商いへの期待。


 大きな船は、ただ大きいだけではない。

 人の心まで大きく揺らす。


「姉上様」


 お初が隣に立った。


「何です」


「今日の港、最初より少し顔が変わった」


「そう見えましたか」


「うん。まだ怖がってるけど、少しだけ話を聞く顔になった」


「それなら、来た甲斐がありました」


 お初は鉄甲帆船を見上げた。


「あの船、怖いけど……使い方を間違えなければ、すごく役に立つのね」


「ええ」


「間違えたら?」


「港が黒坂家を怖がるだけになります」


「それは嫌ね」


「はい」


 お江が横から言った。


「じゃあ、船と仲良くしてもらう?」


「船とではなく、港の人たちとです」


「でも船も」


「お江、船に話しかけないでくださいね」


「まだしてない!」


「するつもりだったのですか」


「ちょっとだけ」


 お初が頭を抱えた。


 私は笑ってしまった。


 港の風は、朝より少しだけ穏やかに感じた。


 もちろん、問題は山ほどある。

 荷下ろし。

 港の決まり。

 船大工の不安。

 荷役の怪我。

 商人たちの利。

 黒坂家の威をどう見せ、どう和らげるか。


 けれど今日、少なくとも一つ分かった。


 鉄甲帆船は、常陸を押さえるためだけのものではない。

 常陸と外をつなぐためのものにしなければならない。


 そのためには、港の者たちの手が要る。


 私は三隻の船へ静かに目礼した。


 信長公より賜った黒坂家の鉄の船。

 その力を、恐れだけで終わらせてはならない。


 常陸の海に、黒坂家の道を開くために。

 そして、この港に生きる人々の暮らしを押し潰さぬために。


 私は城代として、この海も見続けなければならないのだ。

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