茶々外伝・②④⑨話『常陸国城代』編・第3話 常陸の水は甘くない
評定の翌朝、私は土浦城の井戸を見に行った。
常陸国城代として最初に見たものが井戸だと聞けば、後の世の者は笑うかもしれない。
新領国へ入ったのなら、まずは家臣を並べて威を示すべきだ。
国人衆を呼びつけ、黒坂家の法度を読み上げるべきだ。
新城の縄張りを確かめ、兵の配置を決め、鹿島港に浮かぶ三隻の南蛮式鉄甲帆船を見せて、黒坂家の力を知らしめるべきだ。
たぶん、それも間違ってはいない。
けれど私は、大津で学んでしまった。
城は、水から崩れる。
どれほど立派な石垣があっても、飲み水が濁れば人の顔は曇る。
どれほど強い兵がいても、腹を壊せば動けない。
どれほど見事な御殿があっても、台所の水が悪ければ飯の味は落ち、湯殿の水が乱れれば疲れは取れない。
だから私は、まず水を見ることにした。
「御方様、本当に城下へ出られるのですか」
桜子が、少し心配そうに言った。
いつもの落ち着いた声ではあるが、目が私の履物と外の道を交互に見ている。
昨日の評定で、常陸の町年寄たちに「明日、その井戸を見ます」と言った時から、この子は覚悟していたのだろう。
「出ます」
「城の者に見させるだけでは」
「水を使う人の顔を見たいのです」
「……承知しました」
桜子は、少しだけ息をついてから頷いた。
その横で、お江が元気よく手を挙げた。
「私も行く!」
「遊びではありません」
「分かってる。水を見るんでしょ」
「あなたの場合、水を飲み比べしそうで怖いのです」
「ちょっとだけなら」
「やはり連れていけませんね」
「飲まない! 飲まないから!」
お江は慌てて首を振った。
お初が腕を組んで、冷めた目で妹を見ていた。
「お江、知らない井戸の水を勝手に飲むとか、普通に危ないから」
「だから飲まないって」
「昨日も、港で魚の干物を勝手に味見しようとしてた」
「あれは匂いを嗅いだだけ!」
「口が開いてた」
「開いてない!」
「開いてた」
私は二人のやり取りを聞きながら、少しだけ肩の力が抜けた。
常陸の朝は、まだ私の体に馴染んでいない。
空気も、土の匂いも、水辺から上がる湿りも、大津とは違う。
だからこそ、いつものように言い合う妹たちの声が、ほんの少し心強かった。
「お初」
「何」
「あなたも来なさい」
「私も?」
「ええ。昨日の評定で、顔を見る役を頼みましたね」
「……顔係って呼ばないなら」
「呼びません」
「お江が呼ぶ」
「お江、呼んではなりません」
「えー」
「返事は」
「はい」
お江は不満そうだったが、一応頷いた。
梅子も、薬箱を持って控えていた。
その薬箱が、昨日より少し大きく見えた。
「梅子」
「はい」
「増やしていませんね」
「……中身を少し入れ替えました」
「つまり?」
「水あたり、腹痛、虫刺され、湿気による肌荒れ、喉の痛みに備えたものを増やし、船酔いの薬を減らしました」
「なるほど」
船を下りた桃子は、昨日より顔色がよい。
ただし、船室の揺れから解放された安心で、今日はやたらと元気だった。
「御方様、井戸を回られるのでしたら、手拭いを多めに」
「なぜです」
「水を見るなら、手を洗うこともありましょうし、万が一、泥が跳ねた時に」
「よい心がけです」
「あと、殿のお召し物に泥が跳ねた場合も」
「真琴様は今日は別行動です」
「……そうでした」
桃子は少し残念そうにした。
どこまでも真琴様基準で物事を考える子である。
土浦城下へ出ると、まず道の土が違うと感じた。
大津の道とは乾き方が違う。
水辺が近いせいか、朝の土はしっとりとしていて、場所によっては昨夜の湿りがまだ残っている。踏むと少しだけ沈むところもあった。
町年寄の一人が案内役として前を歩いていた。
昨日、評定で「下町の二つの井戸は雨の後に濁る」と渋々認めた男である。
名は弥右衛門という。
年の頃は五十ほど。腰は低いが、こちらをまだ測っている目をしていた。
「御方様、まずはこちらの井戸にございます」
通されたのは、土浦城下の中でも人通りの多い一角だった。
井戸の周りには、朝の水汲みに来た女たちが何人もいた。
私たちが近づくと、一斉に手を止める。
空気が固まった。
無理もない。
昨日城代に任じられたばかりの私が、翌朝から井戸端へ来たのだ。
女たちからすれば、何を言えばよいのか分からないだろう。
私は井戸から少し離れたところで足を止めた。
近づきすぎれば、かえって彼女たちの仕事を邪魔する。
「そのままで構いません」
私は言った。
「水を汲む手を止めさせたいわけではありません」
女たちは顔を見合わせた。
そのうち、一人の年嵩の女が、恐る恐る口を開いた。
「御方様が、井戸を見に来られるとは……」
「昨日の評定で、水の話が出ました」
「それで、わざわざ」
「はい」
私は井戸の縁を見た。
石組みは古いが、手入れはされている。水桶も使い込まれているが、乱雑ではない。
ただ、井戸の周りの地面は少しぬかるみ、足場の悪いところがある。
「この井戸は、飲み水に使いますか」
私が問うと、弥右衛門がすぐ答えようとした。
「はい、城下でも良き井戸で――」
その言葉を遮るように、年嵩の女が少しだけ首をかしげた。
「普段は、でございます」
弥右衛門が女を見た。
女は気まずそうに口を閉じかけたが、私は先に言った。
「普段は、ということは、そうでない時があるのですね」
女は私の顔を見た。
そして、ゆっくり頷いた。
「雨が続いた後は、少し濁ります。飲めぬほどではございませんが、子どもや年寄には別の井戸の水を使う家もございます」
「どの井戸へ」
「あちらの坂を少し上がったところに」
「遠いですか」
「桶を持って行くには、少し」
私は地面を見た。
雨上がりに足場の悪い道を、水桶を持って坂の上まで行く。
それが毎日のことなら、負担は軽くない。
「雨の後、どのくらいで澄みますか」
「早ければ半日。ひどい時は翌朝まで」
「この辺りの家は、その間どうしています」
「近場の家同士で分けたり、煮沸かしたり……ただ、急ぎの時はそのまま使う家も」
弥右衛門が小さく咳払いをした。
「御方様、そこまで大事ではございませぬ。城下の者も慣れておりますので」
私は彼を見た。
「慣れていることと、問題がないことは違います」
弥右衛門は黙った。
お初が、私の少し後ろで小さく「今の顔」と呟いた。
「お初」
「何でもない」
「あとで聞きます」
「……はい」
弥右衛門は、今の一言でさらに顔を固くした。
おそらく、自分が見られていると気づいたのだ。
私は井戸端の女たちへ向き直った。
「この井戸の足場は、雨の日に滑りますか」
すると、別の若い女が遠慮がちに言った。
「はい。子どもが転ぶことがございます」
「水汲みは、女が多いですか」
「はい。男衆は田や荷へ出ますので」
「では、ここは井戸だけでなく、足場も直す必要があります」
弥右衛門が慌てた。
「足場まで、でございますか」
「水を汲みに来た者が転べば、桶も割れます。怪我もします。水が濁る時期に遠くへ汲みに行く者が増えるなら、道も見ます」
私は桜子へ言った。
「記録を。雨後に濁る井戸。坂上の代替井戸。足場の改修。子どもが転ぶ場所」
「はい」
桜子がすぐに筆を走らせる。
女たちが、少しだけざわついた。
驚きと、安堵と、戸惑い。
そんな気配が混じっている。
たぶん、彼女たちはこれまで何度も言ったのだろう。
でも、男たちの評定では「慣れている」で済まされてきた。
その“慣れ”の中にある小さな不便を、今日初めて拾ったのかもしれない。
二つ目の井戸は、下町の端にあった。
こちらは最初の井戸より、明らかに水の匂いが違った。
私は桶の水を覗き込んだ。
澄んでいるように見える。
けれど、近づくとわずかに土と湿った藻のような匂いがした。
お江がすぐに顔を近づけようとした。
「お江」
「飲まない! 匂いだけ!」
「近づきすぎです」
「でも違う匂いする」
お江の言葉に、周りの女たちが少し驚いた顔をした。
「分かるのですか」
一人が言った。
「うん。大津の水とも、さっきの井戸とも違う」
お江は得意げに胸を張りかけたが、お初が袖を引いた。
「調子に乗らない」
「乗ってない」
梅子が水を小さな器に取って、光に透かした。
「御方様、これは飲むより洗い物向きかと」
「やはり」
「はい。日によっては飲めぬことはないでしょうが、常用するには不安がございます」
すると、近くにいた女がぽつりと言った。
「皆、そう申しております」
弥右衛門の顔が険しくなった。
「おい」
「よい」
私は弥右衛門を止めた。
「続けなさい」
女は少し怯えながらも、言った。
「この井戸は、洗い物に使う家が多うございます。飲み水は遠くから。でも、忙しい時や、子が泣く時などは、ここで済ませる家も……」
「腹を壊す者は」
梅子が問うた。
「夏場に、時々」
梅子の目が真剣になった。
「御方様、この井戸は夏前に一度、周りを掘り改めた方がよろしいかもしれません。水そのものだけでなく、周囲の排水が悪いのでは」
私は井戸の周囲を見た。
確かに、水が流れずに溜まる場所がある。
そこへ洗い水が流れ、湿気がこもり、夏になれば臭いが出るのだろう。
「弥右衛門」
「はっ」
「この井戸を“飲める井戸”として城へ報告していましたね」
「それは……昔から井戸として使われておりますので」
「昔から使われていることと、今も飲み水に向くことは同じではありません」
弥右衛門は頭を下げた。
ただ、私は彼を責めたいわけではなかった。
この男が悪意で隠したのか、ただ慣習に流されたのかは、今はまだ分からない。
けれど、少なくとも“男の報告”だけでは、水の実態は見えない。
「この井戸は洗い物用と明示します。飲み水用には坂上の井戸と、もう一つ別の井戸を組み合わせる。夏までに排水を直す。梅子、腹を壊した者の話をあとで聞きなさい」
「承知しました」
「お江」
「はい」
「飲み比べはしないこと」
「してない!」
「今、少し考えましたね」
「……ちょっと」
「駄目です」
井戸端の女たちが、こらえきれずに笑った。
その笑いで、張りつめていた空気が少しだけほどけた。
三つ目は、坂の上の井戸だった。
ここは水がよかった。
桶に汲まれた水は冷たく、匂いも少ない。
梅子が確かめ、お江が「これは美味しそう」と言い、お初に睨まれた。
ただし、問題は道だった。
坂が思ったよりきつい。
空の桶ならまだよい。
水を満たした桶を持って下るとなれば、足元が濡れた日は危ない。
私は坂を見下ろした。
城下の屋根が見える。
土浦の水辺も少し見える。
大津とは違う景色。
けれど、水を担ぐ女たちの息遣いは、きっとどの土地でも変わらない。
「この坂を、毎日?」
私が問うと、年若い女が笑った。
「雨の後だけでございます。毎日なら腰が折れます」
「笑いごとではありません」
「でも、そうでも言わねば」
その言葉には、生活の諦めがあった。
お初が、その女の顔をじっと見ていた。
「お初」
「この人、足を庇ってる」
女が驚いた顔をした。
「えっ」
「左足。坂を下りる時、痛いんじゃない?」
女は少し困ったように笑った。
「昔、滑りまして」
「ほら」
お初が私を見た。
私は頷いた。
「坂の下りに手すり代わりの縄か、杭を打てませんか」
弥右衛門が驚いた。
「井戸道に、そこまで」
「水を運ぶ道です。立派な道でなくとも、滑り止めは要ります」
桜子が記録する。
「坂上井戸、飲み水良し。道の滑り止め、杭または縄。桶置き場の設置」
「桶置き場?」
お江が首を傾げた。
「途中で休むところです」
「なるほど!」
お江は手を打った。
「重い桶をずっと持つの、大変だもんね」
「そうです」
「それなら私も分かる!」
お初がぼそりと言った。
「分かるなら、自分の菓子箱も自分で持ちなさいよ」
「今その話する?」
また女たちが笑った。
笑いながら、何人かが私を見る目を変えた。
城代様が井戸を見に来た。
最初は、そういう珍しさだったのだろう。
でも今は少し違う。
この人は、本当に水桶の重さを聞くのか。
坂の足場まで見るのか。
そう思われ始めているのが分かった。
昼前には、井戸を三つ、川沿いの水場を一つ見終えた。
川沿いの水場では、洗い物をする女たちから、雨の後に水かさが変わること、泥が溜まりやすい場所、夏に臭いがこもる場所を聞いた。
男たちの報告では「川あり」とだけ記されていた場所に、実際には何人もの生活があった。
子どもの着物を洗う女。
釜を洗う女。
野菜の泥を落とす女。
井戸水を節約するために川を使う者。
そして、流れが強い日は怖いと小声で言う者。
私は、一つずつ聞いた。
全部をすぐに直せるわけではない。
人も金も時間も要る。
けれど、知らぬままにはしない。
それだけでも、女たちの顔は少しずつ変わっていった。
帰り道、お江はやけに静かだった。
「お江」
「何?」
「疲れましたか」
「ちょっと。でも、それだけじゃない」
「では?」
「水って、ただ水じゃないんだね」
私は足を止めそうになった。
お江は続けた。
「飲む水、洗う水、子どもに飲ませたい水、飲ませたくない水、雨の後の水、夏に臭くなる水。全部、同じ水なのに違う」
「ええ」
「評定で“井戸十二”って言われても、全然分からなかった」
「私もです」
「姉上様も?」
「ええ」
私は城下の道を見た。
「だから見に来たのです」
お初が横から言った。
「見に来て正解だったわね」
「そう思いますか」
「うん。弥右衛門って人、悪い人かは分からないけど、たぶん女たちの話は“細かいこと”って思ってた」
私は頷いた。
「細かいことこそ、暮らしです」
「姉上様、またいいこと言った」
「茶化さないでください」
「茶化してない。ちょっとだけ本気」
お初にしては珍しい言い方だった。
土浦城へ戻ると、真琴様が待っておられた。
港と新城建設の打ち合わせを終えたところらしい。
顔には疲れがあるが、私たちを見るとすぐに表情が和らいだ。
「どうだった?」
「常陸の水は、甘くありませんでした」
私がそう言うと、真琴様は少し目を瞬いた。
「水がまずかった?」
「そういう意味ではありません」
お江が横から説明しようとする。
「水がね、いっぱいあるの。飲む水と洗う水と雨の後の水と坂の上の水と、お腹壊す水!」
「最後の言い方」
お初が止めた。
真琴様は笑いながらも、私へ視線を戻した。
「問題が多かった?」
「はい。けれど、見える問題です」
「なら、直せる」
「すぐには難しいものもあります」
「うん。でも、見えてるなら進められる」
私は頷いた。
「まず、雨の後に濁る井戸。排水の悪い井戸。坂上の水場への道。川沿いの洗い場。夏前に手を入れるべき場所がいくつかあります」
「人手は?」
「人足の割り振りに関わります。新城建設とぶつけすぎないようにしたいです」
真琴様の目が、領主のものへ変わった。
「分かった。政道に調整させる。茶々の方で優先順位をつけられる?」
「はい」
その返事をした瞬間、自分でも少し驚いた。
迷わず答えられた。
今朝、城下へ出る前の私は、まだこの土地を知らぬと思っていた。
もちろん、今も知らぬことばかりだ。
けれど、今日見た水場については、私は見たと言える。
ならば、優先順位もつけられる。
「まず、雨後に濁る飲み水の代替を明確にします。次に、坂上井戸への道。夏前に排水。川沿いの洗い場は、事故が起きやすい場所から」
真琴様は、真剣に頷いた。
「いいと思う」
「御主人様」
「うん?」
「水を見るとは、思ったより重いことでした」
真琴様は少しだけ笑った。
「国を見るって、そういうことかもね」
その言葉は、胸に残った。
その夜、私は昼の記録を広げた。
井戸の名。
場所。
使い道。
雨後の濁り。
女たちの声。
道の悪さ。
夏までに直すべきこと。
桜子がまとめ、梅子が水質と病の観点を加え、お初が気づいた人の顔の違和感を添えた。
お江は「飲み比べ禁止」と自分で書いて、私に消された。
「なんで消すの!」
「政務記録です」
「大事な注意なのに」
「あなた個人への注意です」
お初が小さく笑った。
桃子は、外を見ながら言った。
「常陸の水で、殿のお湯も沸かすのですね」
「ええ」
「なら、湯殿の水も確かめなければ」
「そうですね」
私は頷いた。
桃子の言葉は、いつも真琴様へ向かっている。
けれど今日は、その視線も少し役に立つと思った。
飲み水。
洗い水。
湯殿の水。
台所の水。
田の水。
常陸の水は、一つではない。
そして、水を見ることは、人を見ることだった。
私は記録の最後に、こう書いた。
水は、城代の目で見るべき第一の政なり。
少し硬い。
けれど、今の私にはそれが正直な言葉だった。
常陸国城代として、私は今日、この土地の水を初めて見た。
甘くはない。
けれど、見れば流れがある。
流れがあるなら、整える道もある。
そう思えた夜だった。




