茶々外伝・②④⑧話『常陸国城代』編・第2話 御方様、初評定に座る
城代に任じられた翌朝、私はいつもより少し早く目を覚ました。
眠れなかった、と言うべきかもしれない。
常陸の夜は、大津の夜とは音が違う。
遠くから聞こえる虫の声も、風が屋根を撫でる音も、どこか乾いているようで、それでいて海からの湿りを含んでいる。まだこの土地の夜に、私の耳が慣れていないのだろう。
仮の住まいである土浦城の一室は、昨夜のうちに桃子たちが整えてくれていた。
とはいえ、ここは大津城ではない。
畳の匂いも、柱の癖も、障子から差す朝の光も違う。
私は、薄く開けた障子の向こうを見た。
朝霧の中に、土浦の城下がぼんやりと沈んでいる。
遠くには水辺の気配があり、まだ見慣れぬ屋根の並びがある。新しく築いている城が完成するまで、ここが黒坂家の政の中心になる。
そして今日、私は初めて、その政の座に座る。
御方様としてではない。
黒坂家の奥を預かる妻としてでもない。
常陸国城代として。
「……重い名ですこと」
誰へともなく呟いた。
すると、背後で衣擦れの音がした。
「御方様、もうお起きでございましたか」
桜子だった。
いつも通り落ち着いた声をしている。
だが、目の下には少し疲れが残っていた。常陸へ入ってから、桜子も休む暇などほとんどない。
「眠りが浅かっただけです」
「本日の評定のことで?」
「ええ」
私が素直に答えると、桜子は少しだけ目を伏せた。
「御方様なら、大丈夫にございます」
「桜子」
「はい」
「そういう言葉はありがたいですが、今日の評定に集まる者たちは、そうは思っておりません」
桜子は黙った。
分かっているのだ。
今日、土浦城の広間には多くの者が集まる。
黒坂家に従って常陸へ入った者たちだけではない。
この地にもともといる有力者、寺社の者、城下の年寄、港から荷を運ぶ者の代表、百姓地を束ねる者たち。
彼らは頭を下げるだろう。
礼儀正しく、私を城代様と呼ぶだろう。
けれど、その心の中までは分からない。
いや、分からないというより、たぶん分かっている。
奥方様に、常陸の政が分かるのか。
若い姫君に、国人衆や町年寄を押さえられるのか。
黒坂真琴の威光があるから座っているだけではないのか。
そう思われているはずだ。
「大丈夫かどうかは、今日決まります」
私は立ち上がった。
「ですから、支度を」
「はい」
桜子が深く頭を下げる。
衣は、派手すぎぬものを選んだ。
地味すぎてもいけない。
城代の座に座る者が、弱々しく見えてはならないからだ。
しかし、戦場へ出る武将のような装いではない。私は刀で人を従わせるために座るのではない。
言葉で聞き、目で見て、順を整えるために座る。
帯を締める時、少しだけ指が止まった。
桜子が気づいた。
「御方様」
「何でもありません」
「……御方様」
今度は、少しだけ声が柔らかかった。
「大津で、地震の夜に広間へ立たれた時も、御方様は同じお顔をなさっておりました」
私は振り返った。
「同じ顔?」
「怖くないふりをなさるお顔です」
思わず苦笑してしまった。
「あなたは、そういうところをよく見ていますね」
「御方様に仕える者ですから」
「では、今も分かりますか」
「はい」
「怖いです」
私は小さく言った。
「ですが、怖い時ほど、見落としてはなりません」
桜子は、静かに頷いた。
「はい」
朝餉の席で、お江はいつもより妙にそわそわしていた。
落ち着かないのは私だけではないらしい。
「姉上様、今日、評定でしょ?」
「そうです」
「私も見たい」
「駄目です」
「まだ何も言ってないのに!」
「言いました」
「見たいって言っただけ!」
「だから駄目です」
お江は頬をふくらませた。
「姉上様が城代様になるところ見たいのに」
「見世物ではありません」
「見世物じゃなくて、応援」
その言葉に、一瞬だけ胸が揺れた。
お江は本当に、時々こちらの守りをすり抜けてくる。
「応援なら、ここでしていなさい」
「えー」
すると、お初が汁椀を置きながら言った。
「お江が評定にいたら、姉上様の敵が増えるわよ」
「なんで!」
「絶対、何か言うもの」
「言わない!」
「昨日、港の荷下ろしの時も“あの箱、お菓子?”って言ったでしょ」
「あれは気になっただけ」
「評定で気になったこと言ったら駄目なの」
お初の言葉は、いつになく正論だった。
私はお初を見た。
「お初」
「何」
「今日は、広間の外で控えていなさい」
「私も?」
「ええ」
「評定には入らないの?」
「入りません。ですが、人の出入りや、終わった後の顔を見ていてください」
お初は一瞬、眉を寄せた。
「顔?」
「あなたは人の顔を見るのが上手です」
「またそれ」
「常陸では、役に立ちます」
お初は少し居心地悪そうに視線を逸らした。
「……分かった。見るだけなら」
お江がすぐに言う。
「じゃあ私も顔見る!」
「あなたはまず、自分の顔に出さない練習からです」
「ひどい!」
その声に、少しだけ場が和らいだ。
真琴様は、膳の向こうで笑っておられた。
「茶々、今日の評定は俺も出るけど、最初に口を開くのは茶々でいい」
「御主人様」
「うん」
「そのようにさらりと重いことを仰らないでくださいませ」
「ごめん。でも、城代任命の翌日だからね。茶々がどう見るかを、みんな知りたいんだと思う」
「試される、ということですね」
「まあ、そう」
真琴様は隠さなかった。
その方がありがたい。
甘い言葉で包まれるより、今は正直な方がよい。
「試されるなら、見てもらいましょう」
私がそう言うと、真琴様は少しだけ目を細めた。
「うん」
「ただし、御主人様」
「何?」
「余計な助け舟は不要にございます」
真琴様は、今度こそはっきり笑った。
「分かった。茶々が困るまでは黙ってる」
「困っても、すぐには助けないでくださいませ」
「厳しい」
「城代ですので」
そう答えた自分の声が、思ったより落ち着いていた。
評定の広間へ向かう廊下は、普段より長く感じた。
土浦城は、まだ私の体に馴染んでいない。
大津城ならば、廊下の角を曲がる前にどの部屋へ出るか、足が覚えていた。
けれどここでは、柱の色も、廊下の響きも、窓から入る風も違う。
その違いを一つずつ覚えていくことも、きっと城代の務めなのだろう。
広間の前には、すでに人が集まっていた。
黒坂家の家臣たち。
常陸入りに従った実務方。
土浦城下の町年寄。
周辺の村の代表。
寺社の使い。
鹿島港から来た荷役の者。
地元の国人衆の使者たち。
私が入ると、一斉に頭が下がった。
畳の擦れる音が、波のように広がる。
その光景を見て、胸が少しだけ詰まった。
これは敬意なのか。
それとも、真琴様への礼に過ぎないのか。
今は、まだ分からない。
私は上座へ進んだ。
城代の座。
そこへ腰を下ろす時、ほんの一瞬だけ、大津城最後の夜の庭を思い出した。
あの時、真琴様は言った。
大津は終わりではない。
始まりの場所だ、と。
ならば、ここは続きなのだ。
大津で得たものを、常陸で使う場所。
真琴様は私の少し後ろ、しかし並びに近い位置へ座られた。
完全に私の後見であることを示しながらも、今日の主役を私から奪わない位置だった。
ありがたい。
そして、逃げ場がない。
政道が進み出た。
「本日は、黒坂家常陸入国後、土浦城における初の評定にございます。新城完成までの間、当城を仮の政庁とし、諸事ここにて定められます」
静かな声だった。
広間にいる者たちの視線が、私へ集まる。
私は、息を整えた。
「茶々にございます」
まず、名乗った。
「このたび、御主人様より常陸国城代を命じられました」
空気が動く。
“御主人様”という言葉に、少しだけ目を動かした者がいた。
夫への呼び方だと侮ったのかもしれない。
だが、それでよい。私は私の言葉で立つ。
「皆さまの中には、思うところもございましょう」
私は続けた。
「奥方に常陸の政が分かるのか。若い女に、この国の水や田や港や人を見られるのか。そう思われる方もいるはずです」
広間が、ぴたりと静まった。
言われるとは思っていなかったのだろう。
疑いは、言葉にされると逃げ場を失う。
私は、あえて穏やかに言った。
「その疑いは、当然にございます」
何人かが顔を上げた。
「私は、常陸で生まれた者ではありません。この土地の道も、水も、田の癖も、港の商いも、まだすべては知りません。知らぬことを知らぬままにして、城代の座に座るつもりはございません」
そこまで言って、私は一度、広間を見渡した。
「ですから、まず見ます」
声は自然と低くなった。
「蔵を見ます。水を見ます。道を見ます。鹿島港より上がった荷を見ます。新城建設に出る人足の顔を見ます。百姓の負担を見ます。寺社の古い記録も、村の年寄の声も、城下の女たちの言葉も聞きます」
誰かが息を呑んだ気配があった。
「政は、上座から命じるだけでは届きません。大津で私は、それを学びました」
大津、と口にした時、胸の奥が少し熱くなった。
「この常陸でも、同じようにいたします」
私は膝の上の手を重ねた。
「今日の評定では、まず五つのことを確認します」
政道がすぐに帳面を開いた。
打ち合わせはしてあった。
ただし、ここから先は私が進める。
「一つ。土浦城下の水回り」
町年寄の一人が、わずかに顔を動かした。
「井戸の数、水質、雨の後に濁る場所、城へ上げる水と城下で使う水の分け方。まずこれを改めます」
「水、でございますか」
地元の有力者らしき男が、少し怪訝そうに言った。
「はい」
私は頷いた。
「水です」
「まずは新城の普請や兵の配置では」
「それも見ます。ですが、水が乱れれば、人は一日で不安になります。病も出ます。飯も炊けません。湯も沸きません。城は水から崩れます」
男は言葉を失った。
私は続けた。
「二つ。鹿島港から上がった荷の管理。三隻の南蛮式鉄甲帆船より下ろした荷のうち、米、武具、建築道具、奥向きの品、政務道具、それぞれの保管場所と移送順を明確にします。港に積み置いたままでは、潮と湿気で傷みます」
港の者が慌てて頭を下げた。
「三つ。土浦城内の蔵の割り振り。新城完成までの仮住まいとはいえ、蔵を仮に扱えば、帳面も仮になります。帳面が乱れれば、米が消えます」
広間の端で、政道が小さく頷いた。
「四つ。新城建設の人足。人数、日数、村ごとの割り当て、怪我人が出た場合の扱い、飯の支給。これを曖昧にしてはなりません」
村の代表たちが、少しだけ顔を上げた。
「五つ。地元の百姓への負担。黒坂家の入国により、急に重くなることがあってはなりません。必要な負担はお願いする。ですが、不要な二重取りや、役人の勝手な上乗せは許しません」
最後の言葉で、広間の空気が変わった。
町年寄、村の代表、国人衆の使者。
それぞれの顔に、違う反応が出る。
安堵。
警戒。
驚き。
そして、少しの焦り。
お初に見せたい顔だと思った。
今ごろ、広間の外で耳を澄ましているだろうか。
最初の議題は、水だった。
城下の町年寄が進み出て、井戸の場所と数を述べる。
だが、その説明はどこか大まかだった。
「城下には井戸が十二。うち三つは城へ上げる水にも使えます」
「雨の後は」
私が問うと、町年寄は少し詰まった。
「雨の後、でございますか」
「濁る井戸はありますか」
「多少は」
「多少とは、どの程度です」
男は答えに迷った。
別の年寄が、小さく口を挟んだ。
「下町の二つは、雨の後に濁りが強うございます」
最初の男が、その者を睨むように見た。
私はそれを見ていた。
「記録を」
政道がすぐに書きつける。
「その二つの井戸は、飲み水に使わせぬ方がよい時期がありますか」
「夏場は、避ける家もございます」
「では、なぜ最初に申さなかったのです」
私が静かに問うと、町年寄の男は目を伏せた。
「城の御用に関わることゆえ、あまり悪く申し上げるのも」
「悪く言うことと、正しく言うことは違います」
広間がまた静かになる。
「水は、面子で澄むものではありません」
そう言うと、誰かが小さく息を飲んだ。
「明日、その井戸を見ます。城の者だけでなく、実際に水を汲む女たちも呼びなさい」
「女たちを、でございますか」
「はい。水を一番見ているのは、使う者です」
町年寄は戸惑っていた。
しかし、反論はしなかった。
真琴様は、後ろで黙っていた。
約束通り、余計な助け舟は出さない。
ただ、私の背中に静かな気配だけを置いてくれている。
次は、鹿島港から上がった荷である。
港の荷役代表が説明した。
三隻の鉄甲帆船から下ろした荷は、港近くの蔵と仮置き場に分けているという。
米と武具は優先的に移送。建築道具は新城普請場へ。奥向きの荷は、順に土浦城へ運び込む予定。
「予定、とは」
私が問う。
「道の具合を見まして」
「どの道が詰まっていますか」
荷役代表は、地図を出した。
「港から土浦へ向かう道のうち、こちらは荷車がすれ違いにくく、雨の後はぬかるみます。大きな箱は遠回りの道を使う必要がございます」
「その遠回りで、どれほど遅れますか」
「半日から、一日ほど」
「ならば、奥向きの衣類や文箱は、遠回りでもよいです。濡れや衝撃を避けなさい。湯殿の金具や建築道具は、多少急いでも構いません。ただし壊すなと伝えなさい」
荷役代表が顔を上げた。
「御方様は、荷の中身までご存じで」
「私が分けました」
そう答えると、広間の何人かが明らかに反応した。
奥方が荷を分けた。
そう聞いて、意外だったのだろう。
「荷は、ただ運べばよいものではありません。着いた先で、すぐ使える形でなければ意味がないのです」
私は言い切った。
桜子がいれば、きっと深く頷いていただろう。
評定は、思ったより長くなった。
蔵の割り振りでは、土浦城内の古い蔵が湿気を含みやすいことが分かった。
新城建設の人足では、村によって負担の差がすでに出始めていることも見えた。
百姓への負担については、国人衆の使者の一人が「古来よりの慣例」を盾に曖昧な言い方をした。
私は、そのたびに即断を避けた。
「古来より、と申すなら、その古い文書を出しなさい」
「慣例とは、誰が、いつから、どの形で行っているものですか」
「村ごとの人数を出しなさい。口で“同じ程度”と言われても、同じかどうか分かりません」
「明日、現場を見ます」
そのたびに、広間の男たちの顔が少しずつ変わっていった。
最初は、値踏み。
次に、戸惑い。
やがて、警戒。
そして最後には、少なくとも軽んじる色は薄れていた。
私は、それを勝ったとは思わなかった。
今日したのは、相手を黙らせることではない。
分からぬことを、分からぬままにしないと示しただけだ。
だが、それで十分だった。
評定の終わりに、私は皆へ向けて言った。
「本日の話だけで、常陸が分かったとは思いません」
広間にいる者たちが、私を見る。
「ですが、分からぬものを分からぬまま動かせば、国は歪みます。これよりしばらく、私は水、蔵、港、普請場、村を見ます。報告は隠さず、飾らず、遅らせず上げなさい」
私は一拍置いた。
「黒坂家は、この常陸で奪うために政をするのではありません。治めるために政をします。そこを間違えぬよう」
誰かが、深く頭を下げた。
それが一人、二人と続く。
最初に頭を下げた時とは、畳の擦れる音が少し違って聞こえた。
評定が終わり、広間を出ると、廊下の陰からお江が顔を出した。
「姉上様!」
「覗いていましたね」
「ちょっとだけ!」
その後ろで、お初が腕を組んでいた。
「ちょっとじゃないわよ。途中で“水って大事なんだね”って三回言ってた」
「だって大事だったんだもん」
「声が出かいの」
私は二人を見て、思わず少し笑った。
「お初」
「何」
「顔は見えましたか」
お初の表情が少しだけ真剣になった。
「見えた」
「どうでした」
「最初、何人かは姉上様を完全に試してた。途中から、困った顔になった。最後の方は……ちょっと怖がってたかも」
「怖がる?」
「姉上様が怒ったからじゃなくて、適当なこと言うと全部聞かれるって分かったから」
私は、なるほどと思った。
お初の見方は鋭い。
やはり、広間の外に置いて正解だった。
「助かりました」
「別に」
「また別にですか」
「……少しは役に立ったならいい」
お江が横から言う。
「お初姉様、顔係だね!」
「その名前やめて」
「じゃあ顔奉行?」
「もっと嫌」
私は口元を押さえた。
そこへ、真琴様が出てこられた。
「茶々」
「はい」
「お疲れ様」
「御主人様こそ、黙っているのは大変だったのでは」
「かなり」
真琴様は苦笑した。
「でも、黙っててよかった」
「なぜです」
「みんな、ちゃんと茶々を見たから」
私は言葉を失った。
真琴様は続ける。
「今日で全部が変わったわけじゃない。でも、少なくとも“奥方が座ってるだけ”とは思えなくなったと思う」
「そうであれば、よいのですが」
「うん。そうだよ」
その声があまりに自然だったので、胸の奥が少しだけ熱くなった。
お江がすぐに言う。
「姉上様、かっこよかった!」
「ありがとうございます」
「私、水のところ好きだった!」
「水のところ」
「“水は面子で澄むものではありません”ってやつ!」
お初が真顔で頷いた。
「あれはよかった」
「あなたまで」
「だって本当だもの」
真琴様が笑った。
「これは決まり文句になるかもね」
「やめてくださいませ」
私は少しだけ顔が熱くなった。
夜、私は一人で土浦城の廊下を歩いた。
評定は終わった。
だが、明日から見るべきものは山ほどある。
井戸。
蔵。
港から来る道。
人足の割り当て。
村の負担。
古い文書。
地元の女たちの声。
城代の座に座るとは、座って終わることではなかった。
むしろ、座った瞬間から歩く場所が増えるのだ。
私は足を止め、窓の外を見た。
常陸の夜は、まだ知らない音がする。
けれど今朝より、少しだけ近く感じた。
今日、私はこの土地の水の話を聞いた。
荷の道を聞いた。
人足の負担を聞いた。
まだ表面だけだとしても、常陸が少しだけ私に顔を見せた気がする。
そして私も、この土地へ少しだけ顔を見せた。
御方様としてではなく。
城代として。
怖さは、まだある。
けれど、もう座ってしまった。
ならば、次は見るだけだ。
私は静かに息を吸った。
「常陸国城代……」
口にしてみると、まだ重い。
けれど、その重さを持つ手は、朝より少しだけ確かになっていた。




