茶々外伝・②④⑥話『常陸国引っ越し騒動』編・第十二話 海を見る姫たち
大坂港を離れた時、私はまだ、海というものを分かっていなかった。
港にある海は、人に囲まれている。
船があり、桟橋があり、荷を運ぶ男たちの声があり、商人たちの視線がある。そこにある水は広くとも、どこか人の暮らしの中に収まって見えた。
けれど、港の影が遠ざかり、陸の線が少しずつ薄くなると、海はまるで別の顔を見せ始めた。
どこまでも続く水。
空と海の境目。
吹きつける塩の匂い。
船体を押し上げ、また沈ませる大きなうねり。
大津で見ていた琵琶湖とは、まるで違う。
琵琶湖も広い。
水の国だと思ったこともある。
けれど海は、広いというより、終わりがない。
私は船縁に手を添えながら、目の前の青を見ていた。
三隻の南蛮式鉄甲帆船は、互いに距離を取りながら進んでいる。
私たちが乗る一隻を中心に、別の二隻が少し離れて見える。高い帆柱が風を受け、鉄板を貼られた船腹は陽の光を鈍く返していた。
大きな船だ。
大坂港で見た時もそう思った。
けれど、海の上に出ると、その大きさの意味が変わる。
港では威の象徴だった。
海の上では、命を預ける城になる。
「姉上様」
隣で、お江が小さな声を出した。
珍しく、声が少し弱い。
「何です」
「海、思ってたより……大きい」
「ええ」
「あと、ずっと動いてる」
「海ですから」
「地面が動くの、やっぱり変」
それを言ったのはお初だった。
お初は船縁から半歩離れたところに立ち、腕を組んでいる。顔色は悪くない。だが、足元への不信感が全身から出ていた。
「お初」
「何」
「少しは慣れましたか」
「慣れるわけないでしょ。城が水に浮いてるのよ」
「城ではなく船です」
「鉄を貼った大きな船なんて、ほとんど城じゃない」
その言い方は間違っていない気がした。
船内には部屋があり、荷があり、人がいて、火を使う場所も、食事を整える場所も、武具を収める場所もある。
私たちは今、大津城を離れたのに、別の小さな城の上にいる。
ただし、その城は波で揺れる。
「桃子は?」
私が問うと、桜子が静かに答えた。
「船室で梅子が見ております」
「やはり」
「はい。船に乗る前から覚悟はしておりましたが、思ったより早うございました」
桃子は、港にいる時点で青ざめていた。
船が動き出してすぐ、まず一度静かになり、それから「少し横になります」と言った。
あの子が“少し”と言う時は、たいてい少しでは済まない。
「薬は」
「梅子が香と煎じを用意しております。ただ、今は無理に飲ませるより、横になって揺れに慣れさせる方がよいと」
「任せます」
桜子は頷いた。
この船に乗ってから、桜子の役目もまた変わっていた。
大津では廊下を見れば済んだ。
道中なら宿を見ればよかった。
だが船の上では、部屋の場所、荷の置き場、甲板へ出る順、船員たちの動き、風が強まった時の退避先まで覚えねばならない。
桜子はすでに、船内の構造を頭に入れ始めている。
たぶん私より早い。
「姉上様」
お江が、また海を見ながら言った。
「鹿島港って、この先?」
「はい」
「今日着く?」
「着きません」
「明日?」
「おそらく、それも難しいでしょう」
「えっ、そんなに?」
お江は目を丸くした。
私は真琴様から聞いていた道程を思い出す。
大坂から海へ出て、風と潮を読みながら東へ進む。
途中で天候を見て停泊することもある。
常に最短で進めるわけではない。
まして、これはただ人を運ぶだけではなく、三隻の船団である。荷も多く、守るべき者もいる。
「海の道は、陸の道より真っ直ぐに見えますが、思うようには進めません」
「道がないのに道なんだ」
「そうですね」
「変なの」
お江の言葉に、私は少しだけ笑った。
けれど、その通りだった。
海には道が見えない。
それでも船乗りたちは、風や潮や星を読み、行くべき道を知っている。
地図の上で線を引くより、ずっと難しい道だ。
昼を過ぎると、船上の暮らしが少しずつ形を持ち始めた。
真琴様は船長や船乗りたちと話をし、三隻の位置や帆の具合を確かめておられた。
宗矩は警護の者たちの配置を見ている。
幸村は、船の上で兵をどう動かすかを妙に真剣に観察していた。
政道は、荷の積み場所と鹿島港で下ろす順を船側の者と突き合わせている。
私は奥の側を整える。
船室の風通し。
女たちの休む場所。
薬箱の位置。
水の配り方。
お江が甲板へ出る回数。
お初が海を睨みすぎないようにすること。
最後の一つは役目なのか分からないが、放っておくと本当にずっと睨んでいる。
「お初」
「何」
「海を睨んでも、揺れは止まりません」
「知ってる」
「では、少し休みなさい」
「休むと余計に揺れる気がする」
「立っていても揺れます」
「だから困ってるの」
お初は不機嫌そうに言ったが、顔色は桃子ほど悪くない。
むしろ、怖さを怒りに変えて耐えているようだった。
お江はその横で、船員の号令を覚えようとしていた。
「今の、何て言ったの?」
「真似しない」
お初が先に止める。
「まだ何も」
「目が真似する目だった」
「目で分かるの?」
「分かる」
船員の一人が笑いをこらえていた。
お江はそれに気づき、少し得意げになる。
「ほら、笑ってくれてる」
「恥を晒しているだけです」
「お初姉様、海の上でも厳しい」
「海の上だから厳しくしてるの」
私はそのやり取りを聞きながら、少し安心していた。
知らない場所。
知らない音。
知らない揺れ。
それでも、この二人が言い合えるなら、黒坂家の空気はまだ崩れていない。
午後の遅い頃、風が少し変わった。
船員たちの声が鋭くなる。
帆の向きが変えられ、甲板にいた者たちが一斉に動く。
私には何が起きたのか分からなかったが、空気が張ったことだけは分かった。
真琴様がすぐにこちらへ来た。
「茶々、奥の者は一度船室へ」
「危ないのですか」
「危ないほどじゃない。風を受け直すだけ。でも、甲板に慣れてない人は中の方がいい」
「承知しました」
私はすぐに桜子へ目配せした。
「お江、船室へ」
「えー、見たい」
「今は見物ではありません」
「でも」
「お江」
少し声を強めると、お江は口を閉じた。
「……はい」
「お初も」
「私は平気」
「平気でも入ります」
「……分かった」
お初は不満そうだったが、お江の手を引いて船室へ向かった。
こういう時、文句は言っても動く。そこは本当に助かる。
桃子はすでに横になっていたため、そのまま梅子が付き添った。
桜子は船室の戸口で人数を確認する。
私は最後に甲板を振り返った。
帆が風を受け、布が大きく鳴る。
船体がわずかに傾き、足元がぐっと押される感覚があった。
鉄を貼った巨大な船でさえ、海の力の前では完全には静かでいられない。
けれど、船員たちは慌てていなかった。
声をかけ、縄を引き、帆を扱い、船を風へ合わせていく。
ああ、と私は思った。
これは、城の中と同じだ。
地震の夜、揺れを止めることは出来なかった。
けれど、火を消し、水を配り、人を集めることは出来た。
海の上でも、風を止めることは出来ない。
けれど、帆を変え、人を動かし、船を進ませることは出来る。
人は、自然に勝つのではない。
自然の癖を読み、その中で崩れぬようにするのだ。
私は船室へ入る前に、もう一度だけ海を見た。
怖い。
でも、美しい。
そう思った。
夕暮れになる頃には、風は落ち着いた。
甲板へ出ると、空の色が変わっていた。
西は赤く、東は少しずつ深い青へ沈んでいく。
海面には光の筋が長く伸び、別の二隻の鉄甲帆船が、少し離れた場所で同じ夕焼けを受けていた。
お江はその景色を見て、しばらく黙った。
それから小さく言った。
「……きれい」
「ええ」
「大津の夕方と全然違う」
「違いますね」
「でも、ちょっと好きかも」
私はお江の横顔を見た。
船酔いしかけ、騒ぎ、叱られ、それでも夕暮れの海を見て「好きかも」と言える。
この子のそういうところは、時々本当に強い。
お初も、少し後ろから海を見ていた。
「お初」
「何」
「まだ信用できませんか」
「できない」
即答だった。
けれど、その目は夕焼けから離れていない。
「でも……」
「でも?」
「ずっと見てると、少し分かる気がする」
「何がです」
「真琴が、海も大事って言った意味」
私は黙って続きを待った。
「こんなものの上を荷も人も動くなら、港を押さえるって、城を一つ持つのと同じくらい大きいのかもって」
私は少し驚いた。
お初は、海を怖がりながらも見ていた。
怖いものを、ただ拒まずに見ていたからこそ、そこへ気づいたのだろう。
「よい見方です」
「また褒めた」
「褒めています」
「……今日は、まあいい」
お初は小さく言った。
夕焼けのせいか、その顔は少しだけ赤く見えた。
そこへ、真琴様が戻ってこられた。
「どう? 初めての鉄甲船の旅は」
お江がすぐに言う。
「すごい! でも揺れる! でも夕焼けがきれい!」
「情報が多いね」
お初は腕を組んだまま言った。
「海は信用できない。でも、この船は少し信用してもいい」
「おお、評価が上がった」
「少しよ」
「十分」
真琴様は笑った。
私はその横顔を見ながら、ふと思った。
この方は、常陸をどう見ているのだろう。
陸の国としてか。
海の入口を持つ国としてか。
それとも、その両方を繋ぐ場所としてか。
少なくとも、今日の私は少しだけ分かった。
この三隻の鉄甲帆船は、ただ荷を運ぶ船ではない。
新しい領国へ向かう黒坂家の姿そのものだ。
陸を離れる怖さと、海へ進む力。
その両方を乗せている。
夜、船室に戻ると、桃子が少しだけ起き上がれるようになっていた。
「御方様……海は、まだ揺れておりますか」
「揺れています」
「そうでございますか……」
「ですが、先ほどより落ち着いています」
「落ち着いた揺れ……」
桃子は複雑そうな顔をした。
梅子が静かに言う。
「慣れます」
「本当に?」
「慣れなければ、鹿島港まで持ちません」
「梅子、それは励ましですか」
「現実です」
桃子はまた横になった。
お江が「桃子ちゃん、頑張れ」と小声で言い、お初が「騒がない」と注意する。
私は船室の灯りを見ながら、今日一日を思い返した。
港を離れた朝。
広すぎる海。
風を受けて動く帆。
船室へ退いた時の緊張。
夕焼けの中に並ぶ三隻の鉄甲帆船。
大津から持ってきた暮らしは、今、海の上にある。
それは頼りなくもあり、誇らしくもあった。
明日も海を行く。
明後日も、風次第ではその先も。
鹿島港はまだ遠い。
常陸の土はまだ見えない。
けれど、私たちはもう常陸へ向かっている。
陸の道ではなく、波の上の道を。
私は小さく息を吐いた。
海を見る姫たち。
大津で湖を見ていた私たちは、今日、初めて本当の海を見た。
怖さも、美しさも、その大きさも。
そして、黒坂家がこれから手にしようとしているものの広さも。




