茶々外伝・②④⑥話『常陸国引っ越し騒動』編・第十一話 大坂港、鉄甲船へ
大津城を出たその日、私たちは常陸へ向かう旅が、ただ東へ進むだけのものではないことを思い知らされた。
目的地は、まず大坂港。
そこから、織田信長公より黒坂家へ下賜された三隻の南蛮式鉄甲帆船に乗り、海路で鹿島港を目指す。
つまり、黒坂家の常陸入りは、街道を延々と進む陸の旅ではない。
海から常陸へ入る。
その事実だけで、胸の奥が少し騒いだ。
大津城の門を出る時、私は振り返った。
母上様は城に残られる。
最後まで静かに見送ってくださったその姿を、私は胸に刻んだ。
お江は、目を赤くしていた。
「姉上様……船に乗ったら、もう大津見えない?」
「見えなくなります」
「そっか」
「ですが、忘れるわけではありません」
私がそう言うと、お江は大津の石を入れた小袋をぎゅっと握った。
「うん。持ってる」
お初は黙っていた。
けれど、門を出る直前に一度だけ城を見上げた。
その横顔には、寂しさと不安が混じっていた。
私も同じだった。
ただ、その不安の向こうに、もう一つ別のものがある。
鹿島港。
常陸国。
まだ見ぬ新しい家。
そこへ、私たちは鉄をまとった南蛮船で入るのだ。
大坂港へ向かう道中は、必要以上に急がなかった。
主要人物と手回りの荷は、警護を受けながら大坂へ進む。
重い荷の一部はすでに先行しており、船積みの段取りも整えられている。
ただし、すべてを船に預けるわけではない。文書、貴重品、薬、衣類の一部、道中で必要なものは私たちの側で管理した。
数日かけて大坂へ近づくにつれ、空気が変わっていった。
湖の風ではない。
川と町と、そして海に近い湿った匂い。
港へ近づくと、人の声が増えた。
荷を担ぐ男たち、船大工、商人、異国の言葉らしき響き、潮の匂い。
大津の静かな城下とはまるで違う。
お江は駕籠から身を乗り出しかけた。
「姉上様! 海の匂いする!」
「身を乗り出さない」
「でも、すごい! なんかしょっぱい!」
「匂いを食べ物のように言わないで」
お初は眉を寄せていた。
「……人が多い」
「大坂ですから」
「船って、もっと静かなところにあるのかと思ってた」
「港は船の城下のようなものです」
そう言うと、お初は少しだけ納得した顔をした。
港は、確かに城下に似ている。
ただし、道ではなく水が人と荷を運ぶ。
そこには、陸の町とは違う秩序と騒がしさがあった。
そして、その騒がしさの奥に、三つの巨大な影が見えた。
私は息を呑んだ。
三隻の南蛮式鉄甲帆船。
遠目にも、普通の船ではないと分かった。
高い船腹。
太い帆柱。
異国めいた船尾。
船体の要所には鉄板が貼られ、陽を受けて鈍く光っている。
それは、海に浮かぶ城だった。
「……あれが」
お初が呟いた。
「鉄甲船」
お江は完全に言葉を失っていた。
珍しいことだった。
桃子は青ざめていた。
「あ、あれに乗るのですか……? あれでも揺れますよね……?」
真琴様が少し誇らしげに言った。
「揺れるけど、普通の船よりずっと安定してる」
「揺れるのですね……」
「そこだけ拾ったね」
私は船を見上げた。
大きい。
あまりにも大きい。
これを信長公から三隻も下賜されたということが、どういう意味を持つのか。
港に集まった者たちの視線を見れば分かる。
皆、見ている。
真琴様を。
そして、この船を。
黒坂家は、常陸へただ赴任するのではない。
海に浮かぶ鉄の城を従えて、新領国へ入るのだ。
私は背筋を伸ばした。
この船に乗る私たちの姿もまた、見られている。
ならば、怯えだけを見せるわけにはいかない。
乗船前の支度は、想像以上に細かかった。
船へ積む荷は、すでに大半が分けられている。
一隻目には米や武具。
二隻目には建築道具、湯殿や台所に関わる資材。
三隻目には調度や予備の布、到着後に使う品。
ただし、主要人物の手回り品は別である。
「桜子、文箱は私の近くへ」
「はい」
「梅子、薬箱は船底へ入れず、すぐ取り出せる場所に」
「承知しました」
「桃子、寝具は必要分だけ」
「はい……必要分だけでございます」
桃子は、まだ少し未練がある顔だった。
お初が低く言う。
「船の上で寝具を増やすな」
「増やしません!」
お江は船を見上げたまま、急に元気を取り戻した。
「姉上様、船の中って部屋ある? 畳ある? 甲板って走れる?」
「走れません」
「まだ何もしてないのに」
「する前に止めています」
真琴様が苦笑した。
「船室はあるよ。ただ、和の屋敷みたいにはいかない」
「えー」
「お江、これは遊覧ではありません」
私が言うと、お江は「分かってる」と言った。
言い方からして、半分ほどしか分かっていない。
乗船の時、お初は足を止めた。
板を渡した先に、鉄甲船の甲板がある。
波は穏やかだったが、船はわずかに揺れている。
「お初」
「……分かってる」
「無理なら、手を」
「いらない」
そう言いながら、お初は私の袖を一瞬だけつかんだ。
私は気づかぬふりをした。
お初は一歩、板を踏み出した。
船が少し揺れる。
「……っ」
「大丈夫です」
「何も言ってない」
「はい」
二歩、三歩。
お初はようやく甲板へ立った。
そしてすぐに言った。
「海、信用できない」
「まだ港です」
「港でも揺れる」
お江はその横で目を輝かせていた。
「すごい! 高い! 大津城の廊下より広い!」
「比べ方が変です」
私は甲板へ足を乗せた。
木の下に、鉄の重みを感じる。
船なのに、どこか城の床のような頼もしさがあった。
けれど同時に、水の上にいるという感覚も消えない。
この船は、陸と海の間にある。
黒坂家もまた、今、その間にいるのだろう。
日が傾き始める頃、三隻の鉄甲帆船は大坂港を離れる支度を整えた。
帆が上がる。
船員たちが声をかけ合う。
異国風の号令が混じり、お江が真似しようとしてお初に口を塞がれた。
「むぐっ」
「やめなさい。恥ずかしい」
「……ぷはっ。ちょっとだけなのに」
「ちょっとが一番危ないのよ」
私はそのやり取りを聞きながら、港を見た。
大坂の人々が船を見上げている。
荷を運ぶ者、商人、船乗り、役人。
皆、この三隻を見ている。
信長公より黒坂家へ与えられた鉄甲帆船。
それが今、常陸へ向かう。
真琴様が隣に立った。
「茶々、大丈夫?」
「はい」
「怖くない?」
「怖くないと言えば、嘘になります」
「うん」
「ですが、これは黒坂家が常陸へ入るための道なのですね」
「そう」
真琴様は海の方を見た。
「陸から入るだけじゃない。海からも入る。常陸はそれが大事になる」
「ならば、私もこの船の上で怯えているだけではいられません」
真琴様は少し笑った。
「茶々らしい」
「褒めておられますか」
「かなり」
その言葉に、私は少しだけ肩の力を抜いた。
船がゆっくり動き出した。
大坂港の景色が、少しずつ離れていく。
陸が遠ざかる。
水の上を、鉄をまとった船が進む。
お江が小さく叫んだ。
「動いた!」
「叫ばない」
お初の声は硬かったが、目は船縁の外へ向いていた。
怖がっている。
けれど、見ている。
桃子はすでに薬草の香を握りしめ、梅子がそばに控えている。
桜子は船室の配置を確認しながら、やはり目録を手放していない。
私は、海風を受けながら思った。
大津から運び出した荷。
大坂港で積まれた物資。
三隻の鉄甲帆船。
鹿島港へ向かう私たち。
これは、黒坂家の引っ越しである。
けれど同時に、新しい領国へ向かう示威でもある。
常陸の者たちは、この船を見る。
そして知るだろう。
黒坂家は、陸だけでなく海からも来たのだ、と。
私は船縁に立ち、遠ざかる港へ一礼した。
大津を出て、大坂から海へ。
そして目指すは鹿島港。
常陸への道は、波の上に開かれていた。




