茶々外伝・②④⑤話『常陸国引っ越し騒動』編・第十話 出立の日、荷が多すぎます
出立の日の朝、大津城はまだ夜の名残をまとっていた。
湖の方から薄い霧が流れ、門前の石畳は白く湿っている。空は明けきらず、鳥の声もまだ少ない。普段なら、こういう朝は静かに火を入れ、湯を沸かし、少しずつ人の気配が城に戻ってくる。
けれど、その日の大津城は違った。
夜明け前から、すでに人が動いていた。
馬のいななき。
荷縄を締める音。
荷駄を確かめる男たちの低い声。
女中たちが小走りになりかけて、桜子に「走らないでください」と止められる気配。
蔵の前では政道が帳面を抱え、荷の札と目録を照らし合わせている。
今日、黒坂家は大津を発つ。
常陸へ向かうのだ。
私は身支度を終え、表の間へ入った。
すでに桜子が待っている。顔色は普段と変わらないが、手元の目録が昨日よりさらに厚くなっていた。
「桜子」
「はい」
「その目録、昨日より増えていませんか」
「増えております」
即答だった。
「なぜです」
「昨夜遅く、城下より餞別が三件、安土筋より追加の品が二件、お江様の手回り品より未記載のものが四件見つかりました」
最後の一つで、私は静かに目を閉じた。
「お江ですね」
「はい」
「未記載のものとは」
「菓子箱が二つ、魚型が一つ、貝殻のようなものが一つ」
「……貝殻?」
「大津には海がないので常陸へ行く前に必要だ、と」
「意味が分かりません」
「私にも分かりません」
桜子の声は落ち着いていたが、少しだけ疲れがにじんでいた。
私は小さく息を吐いた。
出立の日に、荷は増える。
覚悟はしていた。
だが、覚悟していることと、実際に増えた荷を見ることは別である。
表の間を出て、門の方へ向かうと、その現実はさらに大きくなった。
荷が、多い。
昨日の夜には、きちんと分類したはずだった。
常陸へ持っていくもの。
大津に残すもの。
後便に回すもの。
南蛮式鉄甲帆船へ積むもの。
道中の手回り。
常陸到着直後に使うもの。
それなのに、朝になると、どうしてこうも荷が増えるのか。
門前の脇には、明らかに予定より多い箱が並んでいた。
誰かが夜のうちに「やはり必要」と思って足したのだろう。
そういう“やはり”が十人分集まると、荷駄一頭分になる。
「御方様」
政道が深く頭を下げた。
「現状、陸路の荷が予定より一割ほど増えております」
「一割」
「はい。鉄甲帆船へ回せるものは回しますが、出立直後に必要と申告されたものが多く」
「申告した者を全員ここへ呼びたくなりますね」
「お気持ちは分かります」
政道は真顔で答えた。
その横で、幸村が荷縄を見ていた。
若いが、旅や兵の動かし方には目が利く。
一つひとつの荷の重さを見て、馬や人にどれほど負担がかかるかを考えている顔だった。
「御方様」
幸村が言う。
「陸路で急がぬとはいえ、手回りが増えすぎますれば、宿ごとの荷解きに手間取りまする。初日のうちから疲れを溜めるのは避けた方がよろしいかと」
「その通りです」
私は頷いた。
常陸まで、今日一日で行くわけではない。
大津を出た一行は、道中の宿を取りながら東へ進む。女中たちもいる。無理をすれば、最初の数日で体を壊す者が出る。
だからこそ、出立の日の荷が大事なのだ。
そこへ、真琴様が来られた。
「おはよう、茶々」
「おはようございます」
真琴様は門前の荷を見て、少し目を瞬いた。
「……増えたね」
「はい」
「まあ、鉄甲帆船が三隻あるし、重いものはそっちへ――」
「真琴様」
「はい」
「船に積めることと、無事に常陸で使えることは別でございます」
真琴様は、言われる前から言われると分かっていた顔をした。
「昨日も言われた」
「今日も申し上げます」
「はい」
宗矩が、少しだけ笑みを含んだ声で言った。
「殿。御方様の仰せは道理にございます。船は大きくとも、荷の積み下ろし、潮気、港での仕分け、人足の手配がございますゆえ」
「うん。分かってる。分かってはいるんだけど、三隻あると、つい」
「つい、では困ります」
私はぴしゃりと言った。
真琴様は素直に頷いたが、その顔にはどこか「でも使えるものは使いたい」という色が残っている。
この方は、使える力を見ると、どうしても動かしたくなるのだろう。
それは長所でもあり、今日のような日は少し厄介でもある。
まず問題になったのは、桃子の寝具である。
すでに昨日、三人分から減らしたはずだった。
ところが、門前に積まれた箱を開けると、なぜかもう一組増えていた。
「桃子」
「は、はいです」
桃子はすぐに目を泳がせた。
「これは何ですか」
「予備の予備でございます」
「予備の予備」
「はい。もし道中で急に冷え込んだり、殿がお疲れになったり、宿の寝具が合わなかったり、常陸到着時にまだ荷が届いていなかったりした場合に」
「想定が多すぎます」
「ですが、どれか一つでも起きましたら」
「一つは起きるかもしれません。ですが、すべてに寝具で備えようとしてはいけません」
桃子はしゅんとした。
お初が横から言う。
「真琴用って言えば何でも許されると思ってるでしょ」
「お初、それは言いすぎです」
「でも少し合ってるでしょ」
「少しだけです」
桃子はさらに縮こまった。
私は少し声を和らげた。
「桃子。あなたの心配は必要です。けれど、重すぎる寝具を持っていけば、道中でそれを運ぶ者が疲れます」
「……はい」
「真琴様を休ませるための荷で、別の者を疲れさせては本末転倒です」
「承知しました」
「一組は後便。もう一組は船積みではなく、大津に残します。常陸へ必要なら後から送れます」
桃子は名残惜しそうだったが、今度は抵抗しなかった。
次に出てきたのは、お江の菓子箱である。
「お江」
「はい」
「これは、何ですか」
「道中で皆が疲れた時用」
「二箱あります」
「一箱だと足りないかも」
「昨日、魚型も減らしましたね」
「魚型は型で、菓子箱は菓子箱だよ」
「分類の問題ではありません」
お江は、真剣な顔で箱を抱えた。
「でも姉上様、旅って疲れるでしょ。疲れた時に甘いものあると、元気出るでしょ」
それは、間違っていない。
間違っていないから厄介だった。
お初が小声で言う。
「一箱でいいでしょ」
「えー」
「二箱持っていって、最初の宿で全部食べたらどうするの」
「食べないもん」
「食べるでしょ」
「……少しは」
「ほら」
私は菓子箱を見て決めた。
「一箱は道中用。一箱は後便へ」
「船は?」
「南蛮式鉄甲帆船へ菓子箱を積む優先度は低いです」
「鉄甲帆船なら守ってくれそうなのに」
「菓子を守るための船ではありません」
お江は不満そうだったが、一箱は諦めた。
ただし、道中用の一箱を自分で抱えると言い出したので、それは桜子に預けた。
「なんで!」
「あなたが抱えると、昼までに中身が減ります」
「信用がない!」
「信用した結果です」
お初が吹き出しかけて、慌てて顔をそむけた。
梅子の薬箱は、増えていなかった。
それだけで、私は少し感動した。
「梅子」
「はい」
「薬箱は三つのままですね」
「はい。道中用、後便用、常陸到着直後用に分けております」
「よく堪えました」
「……堪えました」
やはり増やしたかったらしい。
ただし、保存食の箱が一つ増えていた。
「これは」
「薬ではありません」
「分かっています」
「道中の体調維持に必要な食です」
「それは薬では?」
「食です」
梅子の顔は真剣だった。
私は中を確認した。
梅干し、干し飯、乾かした菜、少量の味噌、腹に優しい煎り米。
確かに、薬箱より実用的である。
「これは許します」
梅子の顔が、少しだけ明るくなった。
「ありがとうございます」
「ただし、これ以上増やさないこと」
「承知しております」
今度は本当に承知している顔だった。
荷の選別は、午前の半ばまで続いた。
宗矩は警護と人の流れを見て、幸村は荷駄の重さと宿での扱いを見て、政道は目録を直す。
桜子はそのすべてを奥の荷目録へ反映し、桃子は減らされた寝具を涙目で見送り、お江は菓子箱の行方を最後まで見張り、お初は文句を言いながら、実は一番よく荷の抜けを見つけた。
「姉上様」
「何です」
「この箱、札が二つついてる」
見ると、確かに“船積み”と“後便”の札が重なっている。
「中身は?」
「たぶん、湯殿の道具」
私は確認させた。
湯殿用の金具と小道具だった。
重さはあるが、到着直後に必要になる可能性もある。
「これは船積みです。ただし、常陸側で最初に下ろす印を」
「分かった」
お初は手早く札を直した。
「お初、よく気づきましたね」
「目についただけ」
「その“目につく”が大事なのです」
「また褒める」
「褒めています」
「……落ち着かない」
そう言いながらも、お初は少しだけ嬉しそうだった。
その横でお江が言う。
「私も気づいた!」
「何にですか」
「菓子箱の紐がちょっとゆるい」
「それは気づいたのではなく、開けようとしたのでは」
「違う!」
桜子が無言で菓子箱の紐を締め直した。
昼前、ようやく荷の行き先が固まった。
船積みへ回すものは、先に大坂湊方面へ送られる荷と合わせ、三隻の南蛮式鉄甲帆船へ積み込まれる。
大津の城門から直接あの大船へ載せるわけではない。ここからは川筋や陸の継ぎ送りを使い、先行の者たちが船の待つ湊へ運ぶ。
大きな鉄甲帆船は、湖の上に浮かんでいるわけではない。海へ出る船は海の港で待つ。そこへ荷を合わせるための道も、すでに真琴様たちが手配していた。
そのことをお江へ説明すると、少し残念そうな顔をした。
「大津の前に大きい船が来るわけじゃないの?」
「来ません」
「見たかった」
「後に港で見られるでしょう」
「ほんと?」
「たぶん」
「絶対?」
「たぶんです」
お初が横から言う。
「見たら見たで、乗りたいって騒ぐんでしょ」
「騒がないよ」
「嘘ね」
「ちょっとだけ騒ぐかも」
「ほら」
私は二人を横目に、目録へ最後の印を入れた。
人の本隊は陸路。
重い荷と見せるべき荷は南蛮式鉄甲帆船へ。
後便は遅らせ、到着直後に必要なものは別札。
大津に残すものは残す。
ようやく、形になった。
真琴様が、荷の列を見ながら言った。
「なんとかまとまったね」
「まとまったのではありません」
私は答えた。
「まとめたのです」
「はい。茶々がまとめました」
「御主人様も、次から“船が三隻あるから”で話を済ませないでくださいませ」
「気をつけます」
「本当に?」
「かなり」
「少し不安です」
真琴様は苦笑した。
その顔を見ていると、出立前だというのに、少しだけいつもの食事の間の空気が戻る。
こういうやり取りが出来るなら、まだ大丈夫だと思える。
やがて、城門の前に一行が整った。
母上様の駕籠。
妹たちの乗る駕籠や馬。
女中たち。
警護の者。
荷駄。
手回りの箱。
そして、常陸へ先行する文使いたち。
大津城の者たちが見送りに並んでいた。
城下の女たちも、門の外に集まっている。
昨日まで挨拶に来てくれた顔もある。井戸端で会った女、薬草を届けてくれた者、地震の炊き出しの時に涙ぐんでいた人。
皆、声を張り上げるわけではない。ただ静かに、こちらを見ている。
私は門の内側で一度足を止めた。
大津城。
この城で私は、御方様になった。
最初からそうだったわけではない。
嫁いできた場所であり、真琴様の城であり、黒坂家の家だった。
けれど、地震の夜を越え、真琴様の看病をし、茶会を開き、蔵を見て、荷を仕分け、城下の者たちと顔を合わせるうちに、ここは私の立つ場所になっていた。
その場所を、今、出る。
寂しさはある。
けれど、昨日の夜とは少し違う。
今は、寂しさの下に、前へ進む力がある。
真琴様が、隣へ来た。
「茶々」
「はい」
「行こうか」
「はい」
私は頷いた。
お江が後ろで、小さな袋を抱えている。
「石、持った?」
お初が聞いた。
「持った!」
「菓子箱は?」
「桜子が持った!」
「それでいい」
桃子はまだ寝具の箱を名残惜しそうに見ていたが、梅子に促されて動き出した。
桜子は最後まで目録を確認し、政道がその横で頷く。
宗矩が警護の列を整え、幸村が先頭の者へ声をかけた。
門が開く。
朝の光が、大津城の外から差し込んだ。
その光の中へ、黒坂家の一行はゆっくりと進み始めた。
城下の者たちが、静かに頭を下げる。
その中から、誰かが小さく言った。
「御方様、どうかお達者で」
私は振り返り、深く頭を下げた。
「皆も、息災に」
声は大きくなかった。
けれど、届いたと思う。
お江は少し涙ぐんでいた。
お初はそれを見ないふりをしている。
大津城が、少しずつ後ろへ遠ざかっていく。
これから道は東へ続く。
途中には宿があり、川があり、峠があり、港へ向かう荷の流れがあり、そして遠く常陸が待っている。
海では、義父信長公より賜った三隻の南蛮式鉄甲帆船が、黒坂家の重い荷と威信を運ぶ。
陸を行く私たち。
海を行く船。
そして、その先で一つになる新しい家。
私は駕籠へ乗る前に、もう一度だけ大津城を見た。
終わりではない。
ここで始まったものを、常陸へ持っていく。
その思いを胸に、私は静かに前を向いた。
黒坂家の引っ越しは、ついに本当に始まったのだった。




