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茶々外伝・②④⓪話『常陸国引っ越し騒動』編・第五話 船か陸か、それが問題です

 常陸へ参る。


 言葉にすれば、それだけのことである。


 だが、その一言の中には、城一つ分の暮らしと、人の数と、荷の山と、道中の危うさと、これから始まる新しい国の形が詰まっている。


 そして、真琴様はそれを、まるで朝餉の膳へ箸を伸ばすような調子で言われた。


「常陸には、船も使おう」


 その瞬間、食事の間の空気が止まった。


 私は、持っていた茶碗を置いた。


「……御主人様」


「うん」


「今、船と仰いましたか」


「言った」


「常陸へ?」


「うん」


「この大津城から?」


「いや、さすがに琵琶湖からそのまま太平洋へ出るわけじゃないよ」


 そこは分かっておられるのですね、と言いかけて、私はどうにか飲み込んだ。


 だが、お江は飲み込まなかった。


「えっ、船旅!? 常陸まで!? すごい! 大きい船? ごはん食べられる? 寝られる? 甲板で走れる?」


「走らない」


 お初が即座に切った。


「そもそも姉上様、船で行くって何? 海を行くってこと? 海よ? 落ちたら終わりじゃない」


「落ちない前提で話を進めなさい」


「海なんて信用できないでしょ。地面ですら揺れるのに、水の上なんてもっと信用できないわよ」


 地震以来、お初の“足元への信頼”は少し薄くなっている。

 その気持ちは分からなくもない。私も、畳がきちんと下にあるという当たり前のことを、以前ほど無邪気には信じられなくなっていた。


 しかし、その横で桃子がすでに青ざめていた。


「お、お船……揺れますよね。大きくても、揺れますよね……?」


「桃子、まだ乗ってもいません」


「想像だけで少し……」


「早いです」


 桜子は一人だけ、笑いも青ざめもせず、すでに頭の中で荷の目録を組み始めている顔だった。

 梅子は、食材を船に積めるかどうかを考えているのだろう。眉間に薄く皺が寄っている。


 そして、真琴様はその全員の反応を見てから、少し困った顔をされた。


「いや、全員を船に乗せるって話じゃないから」


「御主人様」


 私は少しだけ声を低くした。


「説明の順番が悪すぎます」


「ごめん」


 真琴様は素直に謝った。

 この方は、時々こういうところがある。頭の中ではすでに十手先まで進んでいるのに、口から出るのは三手目くらいなので、こちらが最初の二手で転ぶ。


「船と申されましても、ただの荷船ではございませんね」


 私が言うと、真琴様は頷いた。


「うん。信長様からいただいた三隻を使う」


 その言葉で、食事の間の空気がもう一度変わった。


 三隻。


 それが何を指すのか、この城にいる者なら知らぬ者はいない。


 織田信長公より黒坂家へ下賜された、三隻の南蛮式鉄甲帆船。

 大きな南蛮のガレオン船を基にし、船体の要所へ鉄板を貼った、まるで海に浮かぶ城のような船である。


 和船とはまるで違う。

 高い船腹、大きな帆柱、異国めいた船尾。

 さらに鉄をまとっているとなれば、ただの輸送船などとは呼べない。


 黒坂家の荷を運ぶというより、黒坂家の威を運ぶ船だ。


「……あの船を、引っ越し荷物運びに使うおつもりですか」


 私が問うと、真琴様は真顔で答えられた。


「引っ越し荷物だけじゃないよ。常陸へ入るための見せ札にもなる」


 見せ札。


 その一言で、私はようやく真琴様が何を考えているのかを掴み始めた。


「人の本隊は陸路で?」


「うん。茶々たちまで無理に船へ乗せる気はない。道中の安全、宿、休みの取り方を考えれば、基本は陸がいい」


「では、船には」


「重い荷を回す。米、武具、建築道具、湯殿に使う資材、常陸で最初に必要になる政務道具の一部。それから、見せてもよい調度品」


「見せてもよい、ですか」


「うん。常陸の港の者や国人衆に見えるものは、見えるだけで意味がある」


 私は膝の上で手を重ねた。


 なるほど、と思った。


 大津から常陸へ移るだけなら、荷を運ぶ手段の話で済む。

 けれど、黒坂家が常陸へ入るということは、新しい領国へ“どう見られて入るか”という話でもある。


 陸から入る本隊。

 海から回る三隻の南蛮式鉄甲帆船。

 それが常陸沿岸へ姿を見せれば、港の者も、国人衆も、寺社も、商人も思うだろう。


 黒坂家は、ただの内陸の大名ではない。

 信長公から鉄をまとった南蛮船を三隻も与えられた家である。

 陸だけでなく、海も見ている家である、と。


「御主人様」


「うん」


「それを最初に仰ってくださいませ」


「だから、ごめんって」


「“船も使おう”だけでは、お江が遊覧気分になり、お初が海を敵視し、桃子が船酔いで倒れかけます」


「私までまとめないでよ」


 お初がむっとしたが、海を敵視していたのは事実である。


 お江は目を輝かせたまま、真琴様へ詰め寄った。


「その船、名前あるの?」


「名前?」


「三隻あるんでしょ? じゃあ、名前いるよ!」


「あるにはあるけど……」


「かわいい名前にしよう!」


「お江」


 私は静かに呼んだ。


「はい」


「あれは黒坂家の威信を背負う鉄甲帆船です。かわいい名前にしてはいけません」


「えー、でも怖い名前ばっかりだとつまらないよ」


「つまる、つまらないの問題ではありません」


 お初が横から呟く。


「“お江丸”とか言い出しそう」


「いいじゃん、お江丸!」


「よくありません」


 私とお初の声が重なった。


 真琴様が笑いをこらえている。

 私はそれを見逃さなかった。


「御主人様も、笑っておられる場合ではございません」


「はい」


 素直である。

 だが、たぶん反省は半分くらいであろう。


 その日の午後、私は改めて表の間に皆を集めた。


 真琴様、宗矩殿、幸村殿、政道。

 そして奥の側からは、私、母上様、お初、お江、桜子、梅子、桃子。


 引っ越しの話にしては顔ぶれが重い。

 だが、この移動はただの引っ越しではない。

 常陸入国であり、領国支配の始まりであり、黒坂家が持つ海の力を初めて大きく見せる場でもある。


 表の間の中央には、地図と目録が広げられた。


 常陸までの陸路。

 途中の宿泊地。

 荷を運び出す湊。

 三隻の鉄甲帆船が回る海路。

 常陸側で荷を受ける港と、その後の陸揚げの段取り。


 私は地図を見下ろしながら、改めてその大きさに息を呑んだ。


 大津城の荷をまとめ、常陸へ運ぶ。

 言葉では簡単だ。

 だが実際には、人、馬、駕籠、荷駄、文箱、米、武具、寝具、湯殿の道具、台所の釜、薬箱、反物、政務道具、寺社への挨拶品まで、すべてを順番に動かさねばならない。


 しかも、海へ回すものは濡れや塩気の心配がある。

 陸路へ持つものは重さとすぐ使う必要がある。

 後便へ回すものは、到着してから困らぬように時期を読まねばならない。


 私は思わず呟いた。


「城は、動かぬから城なのだと思っておりました」


 真琴様がこちらを見た。


「うん?」


「ですが今は、城をまるごと動かしているような気分にございます」


 宗矩殿が静かに頷いた。


「大名家の移動とは、まさにそのようなものにございましょう」


 幸村殿も続ける。


「兵だけならば早く動けます。されど家を動かすとなれば、米も鍋も薬も筆も要りまする。戦より手間がかかることもあります」


 お江が目を丸くした。


「戦より?」


 幸村殿は真面目な顔で言った。


「戦は敵を見ればよい時があります。引っ越しは、味噌桶の底まで見ねばなりませぬ」


「味噌桶……」


 お江はなぜか感心していた。


 お初は地図を睨みながら言った。


「でも、船に積めば楽なんじゃないの」


「そうとも限りません」


 私は即座に答えた。


「船に積めることと、常陸で無事に使えることは別です」


 真琴様が小さく笑った。


「それ、さっき俺も言われた」


「何度でも申し上げます」


 私は目録を指で示した。


「たとえば文書。これは潮気で傷めば取り返しがつきません。政務に使うものは、濡れても困ります。衣も、上等なものは船底に長く置くべきではありません」


 梅子が頷く。


「薬も同じです。湿気を嫌うものは陸路の方がよろしいでしょう」


 桜子はすでに筆を走らせていた。


「船積み、陸路、後便、手回り。四つに分けます」


「桜子」


「はい」


「五つです」


「五つ?」


「常陸到着直後に使うものを別に」


 桜子は一瞬だけ目を閉じた。


「……承りました」


 声は落ち着いていたが、目が少しだけ遠くなった。


 桃子が不安そうに手を上げる。


「あの、殿の寝具は」


「手回りと後便に分けます」


「船にたくさん積んでおけば安心では?」


「桃子」


「はい」


「寝具は多ければ安心というものではありません」


「でも、殿が常陸でお疲れになったら」


「そのために必要分は持ちます。三倍はいりません」


 桃子は、なぜ三倍と分かったのかという顔をした。

 やはり三倍にするつもりだったのだ。


 お初が呆れたように言う。


「桃子、船を寝具蔵にする気?」


「い、いざという時に」


「いざという時が多すぎるのよ」


 私は少しだけ笑いそうになったが、堪えた。


 議論が進むにつれ、真琴様の船案は形を持ち始めた。


 三隻の南蛮式鉄甲帆船には、それぞれ役を分ける。


 一隻目には、米や武具など重く、常陸入り後すぐ必要になるもの。

 二隻目には、建築道具、湯殿や台所の資材、城作りに関わる品。

 三隻目には、見せてもよい調度品、予備の布、後から常陸屋敷へ運び込むもの。


 もちろん、すべてを船へ預けるわけではない。

 陸路の本隊には、茶々たちが道中で必要とするもの、文書、薬、衣類、貴重品、仏具の一部を持たせる。


 政道が帳面をまとめながら、少し緊張した顔で言った。


「船団が常陸沿岸へ姿を見せれば、現地の者たちには相当の衝撃となりましょう」


 真琴様が頷く。


「うん。そこは狙いでもある」


「狙い……」


 お江がまた目を輝かせる。


「じゃあ、かっこよく入るってこと?」


「言い方は軽いけど、まあ、そう」


「やっぱり名前いるよ!」


「そこへ戻るのですね」


 私は額に手を当てたくなった。


 だが、真琴様は少し考える顔をした。


「名前は大事だね」


「御主人様」


「いや、本当に。船は見られるものだから」


 その言葉に、私は口を閉じた。


 確かに、名前もまた見せるものだ。

 常陸の港へ三隻の鉄甲帆船が現れた時、その名がどう呼ばれるかで、受ける印象も変わる。


 お江が勢いよく言う。


「じゃあ、一つはお江丸!」


「却下」


 お初が即答した。


「早い!」


「当たり前でしょ。国人衆が震え上がる前に笑うわよ」


「笑ってくれたら仲良くなれるかも」


「戦船でそれを狙うな」


 真琴様がとうとう笑った。


 母上様も、ほんの少しだけ口元を緩めておられる。

 こうした騒がしさの中でも、話はちゃんと進んでいる。

 それが黒坂家らしいと言えば、そうなのかもしれなかった。


 日が傾く頃、ようやく大枠が決まった。


 人の本隊は陸路。

 女たちと母上様は無理の少ない道を選び、宿を事前に整える。

 重い荷と見せるべき荷は、三隻の南蛮式鉄甲帆船へ。

 船はただの荷運びではなく、常陸へ黒坂家の威を示す役も担う。


 私は筆を置き、深く息をついた。


「つまり」


 私は皆を見回した。


「私たちは、陸と海の両方から常陸へ入るのですね」


 真琴様が頷く。


「そういうことになる」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ震えた。


 大津を出る。

 陸を進む。

 海からは鉄をまとった三隻の船が荷と威を運ぶ。

 そして、常陸でそれらが一つになる。


 これは本当に、ただの引っ越しではない。


 黒坂家が、新しい国へ形を変えて入るのだ。


「御主人様」


「うん」


「私は、船をただの荷運びとしては見ませぬ」


「うん」


「ですが、遊覧船としても見ませぬ」


「それは俺も」


「お江にも、よく言い聞かせてくださいませ」


「そこ俺?」


「発端は御主人様です」


 お江が不満そうに頬を膨らませる。


「私、ちゃんと分かったよ。あのお船は、常陸の人に“黒坂家が来たぞー”って見せるためでもあるんでしょ」


「大声で言うと急に軽くなりますね」


「でも合ってるでしょ?」


 私は少しだけ考えた。


「……大筋は、間違っていません」


「ほら!」


 お江は勝ち誇った顔をした。


 お初が小声で言う。


「不安だわ」


「何がです」


「大筋で合ってる時のお江が一番不安」


 その言葉に、私はとうとう笑ってしまった。


 夜、食事の間に戻ると、いつもの囲炉裏の火が小さく灯っていた。


 今日一日、船の話ばかりをしていたせいか、畳の上に座っているだけで少し安心する。

 大きな船。

 鉄板をまとった船体。

 三隻の帆が常陸の海へ現れる光景。

 まだ実際に見てもいないのに、頭の中で何度もその姿が浮かんだ。


 お江はもう船の名前を考えている。

 お初は「絶対に変な名前は許さない」と見張っている。

 桜子は船積み目録と陸路目録と手回り目録と後便目録と到着直後目録を前に、無言で筆を削っている。

 梅子は船に積む保存食の湿気対策を考え、桃子はまだ寝具の数に未練がありそうだった。


 そして私は、火を見ながら静かに思った。


 常陸へ参るということは、土地を移ることではない。

 黒坂家そのものを、新しい形へ動かすことだ。


 大津で築いた暮らし。

 安土で得た格。

 信長公より賜った三隻の南蛮式鉄甲帆船。

 真琴様の名。

 母上様の重み。

 妹たちの騒がしさ。

 桜子たちの手。

 そのすべてを連れて、常陸へ入る。


 私は、囲炉裏の火へ手をかざした。


 船か陸か。

 最初はそんな話に聞こえた。


 けれど結局、答えはどちらかではなかった。


 陸を行く者がいる。

 海を行く荷がある。

 そして、その両方を一つの家としてまとめる者がいる。


 ならば私は、その役を果たさねばならない。


 常陸へ向かう前から、もう黒坂家の引っ越しは始まっているのだ。

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