茶々外伝・②④①話『常陸国引っ越し騒動』編・第六話 大津城、荷造り戦争
船と陸の役割が決まった翌朝、大津城は戦場になった。
もちろん、槍も鉄砲も出ていない。
鬨の声もない。
敵兵が攻め寄せてきたわけでもない。
けれど私には、これはもう立派な戦に見えた。
相手は、荷である。
大津城で暮らしてきた日々の積み重ねが、箪笥の中から、蔵の奥から、湯殿の棚から、台所の隅から、次々に姿を現す。
器。布。薬。文箱。釜。香炉。夜具。火鉢。帳面。反物。調度。菓子型。古い手拭い。なぜ残っているのか分からない小箱。お江が拾ってきた石。
それらが畳の上に並び始めた時、私は本気で思った。
城というものは、人が思っているよりずっと多くの物で出来ている。
「御方様」
桜子が、すでに一冊目の目録を抱えて私の前に立っていた。
「まず、奥御殿の荷を五つに分けます」
「ええ」
私は頷いた。
「一つ、常陸へ必ず持っていく物。二つ、大津に残す物。三つ、後便へ回す物。四つ、南蛮式鉄甲帆船へ積む重い物。五つ、道中すぐ使う手回りの物」
「承知しております」
「さらに、常陸到着直後に使う物は、船便でも陸路でも分けて印をつけます」
桜子は一瞬だけ沈黙した。
「……六つ目でございますか」
「いえ、五つの中に印をつけます」
「助かりました」
声は落ち着いていたが、目はまったく助かっていなかった。
表の間には、すでに女中たちが集まっている。
皆、それぞれ両手に何かを抱えていた。
普段は整って見える大津城も、荷造りとなると一気に生活の裏側が顔を出す。
梅子は薬箱を三つ並べ、桃子は真琴様の寝具らしき布を抱え、お江は菓子の道具と謎の石を持ち、お初は腕を組んでそれらを見下ろしていた。
「……多い」
お初が言った。
「まだ始まったばかりです」
私が答えると、お初は露骨に嫌な顔をした。
「これで?」
「これで、です」
「常陸って、そんなに遠いの」
「遠い近いの問題ではありません。暮らしを移すのです」
そう言うと、お江がぱっと顔を上げた。
「暮らしを移すなら、これいるよね?」
両手で差し出してきたのは、丸い石だった。
「それは何です」
「庭で拾った石」
「なぜ要るのです」
「大津の思い出」
私は一瞬、言葉に詰まった。
こういう時のお江は困る。
完全に不要と言い切りたいのに、言葉だけは妙に胸へ刺さる。
「思い出は、荷にしすぎてはなりません」
「でも一個だけ」
「昨日、三個持っていましたね」
「選んだ」
「選んでも石です」
お江は不満そうに石を抱えた。
お初が横から言う。
「そんな石、常陸にもあるでしょ」
「大津の石は大津の石だもん」
「石に国境を持たせないで」
私は額へ手を当てたくなったが、堪えた。
「お江」
「はい」
「その石は、一つだけなら手回りではなく後便に入れることを許します」
「ほんと?」
「ただし、それ以上増やしたら全て大津に残します」
「一つだけにする!」
お江は嬉しそうに石を抱え直した。
お初が呆れたように言う。
「姉上様、甘い」
「御主人様ほどではありません」
「それはそう」
二人で自然に同意してしまい、少しだけ笑いそうになった。
問題は、お江の石だけではなかった。
桃子が持ってきた寝具である。
最初、私はそれを見て、旅用の一揃えだと思った。
だが、広げさせてみると、どう見ても一揃えではない。
「桃子」
「はいです」
「これは、何人分ですか」
「殿の分です」
「真琴様は、一人です」
「はい」
「では、なぜ三人分ありますか」
桃子は少しだけ目を泳がせた。
「道中用、常陸到着直後用、予備用でございます」
「予備が厚すぎます」
「ですが、もし殿がお疲れになって、硬い寝具ではお休みになれなかったら」
「その心配は分かります」
私は、畳の上に積まれた布を見た。
桃子の心配は、まったく的外れではない。
真琴様は倒れたことがある。熱を出し、寝台から起き上がれなくなった。
だから桃子が寝具を多めにしたくなる気持ちは分かる。
分かるが、この量は違う。
「道中用は必要最低限。常陸到着直後用は別に一組。予備は薄手を一つ。厚手は後便へ」
「後便ですか」
「ええ。南蛮式鉄甲帆船へ積めば、潮気もございます。良い布を長く船底へ置くのは避けます」
桃子はまだ少し未練がありそうだった。
お初が横からぴしゃりと言う。
「真琴のためって言えば何でも積めると思ったら駄目」
「そ、そんなつもりでは」
「顔がそんなつもりだった」
桃子はしゅんとした。
少し可哀想だが、ここは仕方ない。
「桃子」
「はい……」
「あなたの心配は役に立ちます。ですが、その心配を荷にしすぎてはなりません」
私がそう言うと、桃子は小さく頷いた。
「……はい。必要な分にいたします」
「よろしい」
それで寝具の山は、ようやく半分になった。
それでもまだ多い気がしたが、これ以上減らすと桃子が泣きそうなので、今日のところは許した。
梅子の荷は、別の意味で厄介だった。
薬である。
薬箱、乾燥した薬草、煎じる道具、小さな陶器の壺、包み紙、乳鉢、保存用の箱。
それらが几帳面に並んでいる様子は美しい。
だが、美しいから軽いとは限らない。
「梅子」
「はい」
「これは、どれが道中用ですか」
「こちらでございます」
梅子が指したのは、かなり大きな箱だった。
「これは道中用ですか」
「はい。熱、腹痛、傷、打ち身、船酔い、虫刺され、水あたり、食あたり、眠れぬ時、冷え、暑気あたり、急な咳、喉の痛み、目の腫れ、湿疹、毒消し――」
「待ちなさい」
私は片手を上げた。
「道中に、戦でもするのですか」
「備えは大切にございます」
「それは分かります」
分かる。
分かりすぎるほど分かる。
地震のあと、真琴様が倒れたあと、薬がどれほど大事かを私は身に染みて知っている。
だが、この量を陸路で持てば、薬を運ぶために人が疲れる。
「道中用は、最低限の急病と怪我に絞ります。あとは鉄甲帆船ではなく陸の後便へ」
「船へ回してはいけませんか」
「湿気が怖いです。特に粉薬と乾かした薬草は」
梅子は一度だけ目を伏せ、すぐに頷いた。
「承知いたしました。では、薬箱を二つに分けます」
「三つです」
「三つ」
「道中用、後便用、常陸到着直後に屋敷へ入れる用」
梅子は静かに息を吸った。
「承知いたしました」
その返事には覚悟があった。
薬の仕分けも戦なのだろう。
梅子の目は、もう薬師の補佐のようになっていた。
昼を過ぎる頃には、表の間だけでは足りなくなった。
荷は廊下まで広がり、女中たちは目録札を持って行き来し、桜子の筆は止まらない。
お江の石は一つだけに減ったはずなのに、今度は菓子型が増えていた。
「お江」
「これは石じゃないよ」
「そういう問題ではありません」
「常陸でお菓子作る時に使うでしょ」
「菓子型は必要です。ですが、全部は要りません」
「全部かわいいのに」
「かわいさで荷を決めてはなりません」
お初が呆れ顔で、お江の箱を覗き込んだ。
「これ、何の型?」
「魚」
「常陸っぽい」
「でしょ?」
「だからって五つも要らない」
「魚の形が違うもん!」
「魚は食べれば同じよ」
「違う!」
魚の形で口論が始まりかけたので、私は手を叩いた。
「二つまで」
「三つ」
「二つです」
「姉上様、交渉して!」
「すでに結論です」
お江は不満そうだったが、最終的に魚型は二つになった。
なぜ私は戦国大名家の常陸移転の最中に、魚型の数を裁いているのだろう。
けれど、たぶんこういうものも家なのだ。
暮らしとは、大きな船や米俵だけで成り立つのではない。
誰かが気に入っている菓子型や、桃子が心配して増やした寝具や、梅子の薬箱や、お江の石のような、少し面倒なものの集まりでもある。
だからこそ、全部は持っていけない。
選ぶ必要がある。
午後遅く、私は一度、蔵へ向かった。
そこには政道がいた。
帳面を前に、米俵や調度の搬出順を確認している。まだ若いが、こういう時の目は鋭い。
「御方様」
「政道、鉄甲帆船へ回す荷の目録は」
「こちらに。米俵、武具、建築道具、釜、湯殿関係の資材、予備の木材。調度品のうち、見せてもよいものは別にしております」
「見せてもよいもの」
「はい。常陸の港で荷を下ろす際、目に入る品にございます。粗末なものだけでは黒坂家の格に関わり、豪奢に過ぎれば反感を買います」
私は頷いた。
政道は、その辺りの加減が分かっている。
真琴様が信を置くのも当然だった。
「文書類は」
「陸路です。御方様のご指示通り、船へは回しませぬ」
「よろしい」
私は蔵の中を見渡した。
大津城で使ってきた道具たちが、いま分類されている。
持っていく物。
残す物。
後から来る物。
船で海へ出る物。
物にも行き先がある。
そう思うと、不思議と胸が少し痛んだ。
「政道」
「はい」
「大津に残す物の扱いも、丁寧に」
「承知しております」
「不要だから置くのではありません。大津を守るために残すのです」
政道は一瞬だけ目を上げ、それから深く頭を下げた。
「心得ました」
その返事を聞いて、私は少し安心した。
大津を捨てるわけではない。
常陸へ行くからといって、ここで築いたものを粗末にしてよいわけではない。
大津に残す物も、常陸へ持っていく物も、どちらも黒坂家の一部なのだ。
夕方、表の間へ戻ると、皆の疲れが目に見えるようになっていた。
お江は最初の勢いを失い、菓子型の箱へ顎を乗せている。
お初は文句を言いながらも、結局一番最後まで小物の仕分けを手伝っている。
桃子は寝具を減らした分、布の畳み方へ異様にこだわり始めた。
梅子は薬箱三つを作り終え、やや燃え尽きた顔をしている。
桜子は、目録を前にして静かに遠い目をしていた。
「桜子」
「はい」
「大丈夫ですか」
「はい。大丈夫でございます」
「目が大丈夫ではありません」
「目録が五種類になった時点で、目が少し遠くなりました」
珍しく本音が漏れた。
「よく頑張りました」
「ありがとうございます」
桜子は深く頭を下げた。
その足元には、分類済みの札がいくつも積まれている。
私は皆を見回した。
「今日はここまでにします」
お江が即座に顔を上げた。
「終わり?」
「今日のところは」
「やった……」
「まだ終わってはいません」
「知ってるけど、今日は終わりでしょ」
「ええ」
お初が伸びをしながら言った。
「引っ越しって、戦より面倒なんじゃないの」
「幸村殿も似たようなことを仰っていました」
「そりゃそうよ。敵は倒せば減るけど、荷は数えるほど増えるもの」
妙に的確だった。
私は少し笑った。
「よい言い方ですね」
「褒められても嬉しくない」
「では、記録しておきます」
「やめて」
お江が横で「荷は数えるほど増える」と真似している。
お初が「真似しない」と怒る。
桃子が笑い、梅子も少しだけ口元を緩める。
その騒がしさを聞きながら、私は畳の上に並んだ荷を見た。
思い出は持っていけない。
けれど、暮らしを始めるための物は選ばねばならない。
今朝、お江の石を見てそう思った。
けれど一日仕分けをして、少し考えが変わった。
思い出は、物の中にだけあるのではない。
選ぶ手つきの中にもある。
残すと決める痛みの中にもある。
持っていくと決める覚悟の中にもある。
私たちは今日、大津の暮らしをただ箱へ詰めたのではない。
常陸で始まる暮らしの形を、少しずつ選んだのだ。
「姉上様」
お江が石を一つ抱えたまま聞いた。
「これ、本当に持っていっていい?」
「一つだけですよ」
「うん。一つだけ」
「なぜそれなのです」
お江は、石を見下ろした。
「なんか、大津っぽいから」
「大津っぽい石」
「うん。丸くて、ちょっと湖っぽい」
意味はよく分からなかった。
けれど、分かる気もした。
「では、それはあなたの手で持っていきなさい」
「うん」
お江は嬉しそうに頷いた。
お初がそれを見て、呆れながらも何も言わなかった。
多分、あの子にも少しだけ分かったのだろう。
夜、私は一人で表の間へ戻った。
昼の騒がしさが嘘のように、荷の札だけが静かに並んでいる。
常陸へ。
大津残し。
後便。
船積み。
手回り。
到着直後。
札の文字を見ているだけで、黒坂家が少しずつ動き始めているのが分かる。
まだ出立の日ではない。
まだ常陸の土を踏んでもいない。
けれど、私たちはもう大津だけの家ではなくなりつつある。
私は、一枚の札を手に取った。
船積み。
その先には、三隻の南蛮式鉄甲帆船がある。
信長公より賜った鉄をまとった船。
海に浮かぶ城。
それらに荷を積み、陸では私たちが進む。
そして常陸で、また一つの家になる。
大きなことだと思った。
だが、その大きなことは、結局こういう小さな仕分けから始まる。
寝具を減らし、薬を分け、菓子型を二つにし、石を一つだけ許す。
その積み重ねが、国を移す準備になる。
私は札を元の場所へ戻した。
常陸へ参る。
その言葉が、昨日より少しだけ現実の重みを持って胸に沈んだ。




