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茶々外伝・②③⑨話『常陸国引っ越し騒動』編・第四話 常陸へ、船で参る?

 真琴様は、時々、とんでもないことを軽い声で言う。


 それが小さなことなら、まだよい。


「今日の湯、少し熱めがいいな」とか、

「お江、その菓子三つ目じゃない?」とか、

「お初、怒る前に一回深呼吸しよう」とか、そういうことなら、こちらも笑って返せる。


 けれど、この方はたまに、国を動かすような話を、まるで明日の湯加減でも相談するような顔で口にする。


 その日の夕餉のあとだった。


 昇進の沙汰から数日が経ち、祝いの品の仕分けもようやく一段落し、返礼の順もひとまず形になった。食事の間には久しぶりに少し落ち着いた空気があり、お江は膳の端に残った漬物を眺め、お初は茶を飲みながら眠そうな顔を隠している。桜子たちも、今日はようやく肩の力が抜けていた。


 真琴様も、囲炉裏の向こうで湯呑を手にしておられた。


 その姿を見て、私は内心でほっとしていた。


 ようやく少し休める。

 少なくとも今夜くらいは、文も使者も帳面も横へ置き、ただ食事の間の火を眺める時間に出来るかもしれない。


 そう思った矢先である。


「そういえば、常陸へは船で行くことになると思う」


 真琴様は、あまりにも自然にそう仰った。


 私は湯呑を持ったまま、動きを止めた。


 お初も止まった。

 お江だけが目を輝かせた。


「船!?」


 声が弾む。


「船って、あの船? 湖じゃなくて、海の方?」


「うん。海を使う」


「え、すごい! 船旅!」


「お江、待ちなさい」


 私は湯呑を静かに置いた。


 声は落ち着いていたと思う。

 落ち着かせた、と言うべきかもしれない。


「真琴様」


「はい」


「今、さらりと仰いましたが」


「うん」


「常陸へ、船で参ると」


「そう」


「いつ頃から、そのようなお話に?」


 真琴様は少しだけ視線を逸らした。


「いや、前から候補にはあって」


「候補」


「陸路だと人も荷も時間もかかるし、途中の警護も面倒だし。船なら、積めるものは限られるけど、まとまって動かせる」


「積めるものは限られる」


 私はその言葉を繰り返した。


 その瞬間、頭の中で帳面が勝手に開いた。


 衣類。

 調度。

 文箱。

 薬。

 水。

 食料。

 女中。

 護衛。

 湯道具。

 寝具。

 お江の余計なもの。

 桃子の減らせない衣。

 お初が必要と言い張る実用道具。

 桜子の帳面。

 梅子の台所道具。


 そして、母上様。


 胸の奥で、何かが小さく重くなった。


「軽く言う話ではございません」


 私は、なるべく静かに言った。


 真琴様は苦笑された。


「やっぱりそうなるよね」


「当然です」


 お初が、ようやく我に返ったように口を開いた。


「船って……酔ったらどうするの」


 そこだった。


 さすがお初である。

 真っ先に現実を見る。


「酔い止めの薬は用意する」


 真琴様が答える。


「全員に効くとは限らないでしょ」


「まあ、それは」


「あと、荷物が濡れたらどうするの。風が強かったら。途中で嵐になったら。女中が騒いだら。お江が海に身を乗り出したら」


「ちょっと、お初姉様!」


 お江が抗議する。


「私、海に落ちたりしないよ!」


「今、落ちるとは言ってない。身を乗り出すとは言った」


「乗り出すかもだけど」


「ほら」


「だって海だよ? 見たいじゃん!」


 私はこめかみを押さえたくなった。


 まだ何も始まっていないのに、もう頭が痛い。


 真琴様は、少し楽しそうに笑っている。


「お江は縄で縛るか」


「縛らないで!」


「冗談」


「真琴様」


 私が呼ぶと、真琴様はすぐに姿勢を正した。


「はい」


「冗談を言っている場合ではございません」


「ごめん」


 素直に謝るところは、この方のよいところでもあり、困ったところでもある。


 その場で、急ぎの小さな評定のようなものが始まった。


 場所は食事の間。

 出ているのは、湯呑と膳の名残。

 それなのに話している内容は、常陸へ船で移るための人員と荷と警護である。


 これが黒坂家の日常なのかと思うと、少し笑いたくなった。

 もちろん、笑っている余裕はあまりない。


「船は何艘ほどですか」


「主要な者を乗せる船と、荷船を分ける。護衛もつけるから、数はそれなりに」


「“それなり”では帳面が作れません」


「……あとで正確に出します」


「今日中に」


「明日の朝では?」


「今日中に」


「はい」


 お初が横で感心したように言った。


「姉上様、真琴の扱いがどんどん上手くなるわね」


「必要に迫られております」


「否定しないんだ」


「事実ですから」


 お江はまだ目を輝かせている。


「船って、魚釣れる?」


「移動中に釣りはしません」


「えー」


「船旅ではなく、移動です」


「でも船に乗るんでしょ?」


「乗ります」


「じゃあ船旅じゃん」


「違います」


 お江は納得していない顔だった。


 桜子が、いつの間にか帳面を持って控えていた。

 さすがである。こういう時の桜子は、こちらが呼ぶ前に必要なものを察して動く。


「御方様、荷の分類を先に作りましょうか」


「ええ。まず、絶対に必要なもの。次に常陸で調達できるもの。最後に持っていきたいだけのもの」


「持っていきたいだけのもの、ですか」


「そこが最も増えます」


 桃子がびくりとした。


「御方様……」


「桃子」


「はいです」


「衣装箱は、絞ります」


「……どれくらい」


「かなり」


 桃子がこの世の終わりのような顔をした。


「かなり……」


「船に積める量は限られます」


「ですが、御方様のお召し物や、お初様のお召し物や、お江様のものも」


「必要なものは持ちます。ですが、全部ではありません」


「全部では……」


 桃子がふらりと揺れたので、梅子が支えた。


「桃子、まだ倒れるところではありません」


「梅子姉様、衣装箱を削るのは心が痛いです」


「船が沈む方が困ります」


「それはそうです」


 お初がばっさり言った。


「衣より命よ」


「お初様、それはそうなのですが……!」


 この先、桃子との戦いが長くなりそうだと私は悟った。


 梅子は冷静だった。


「船上の食事は、火の扱いが限られます。水も考えねばなりません。傷みやすいものは避け、保存のきくものを中心に」


「お願いします」


「湯はどうされますか」


「……湯」


 私は一瞬、言葉に詰まった。


 大津城で、湯殿はほとんど家の中心の一つになっていた。

 だが船の上で湯殿など、あるはずもない。


 真琴様が、少し気まずそうに言う。


「船上で湯は無理かな」


「承知しております」


 承知はしている。

 しているが、納得はまた別である。


「では、湯に代わる手拭いと温めた布を多めに。常陸へ着くまで、皆の体調を崩さぬようにします」


「茶々、そこまで考えるんだ」


「考えます」


 私は真琴様を見た。


「誰が熱を出すか分かりませんから」


 真琴様は視線を逸らした。


 お初がすかさず言う。


「真琴のことね」


「はい」


「二人とも直球だなあ」


「前科があります」


 私が言うと、真琴様は何も言えなくなった。


 話が進むにつれ、食事の間の空気はすっかり“船移動評定”になっていった。


 お江は「船の上で寝るの?」「夜は怖くない?」「海賊って出る?」と質問を重ね、お初が片っ端から止める。

 桜子は帳面に人と荷を分け、梅子は食と水を計算し、桃子は衣装箱削減の悲しみと戦っている。


 真琴様は、最初こそ軽い調子だったが、次第に私たちの現実的な問いに押され、最後には少し真面目な顔になっていた。


「これ、思ったより大変だね」


「思ったより、ではございません」


 私は即座に返した。


「最初から大変です」


「はい」


「戦より大変なこともあります」


「船で移動するだけなのに?」


「“だけ”ではありません」


 私は帳面を指さした。


「人を動かす。荷を動かす。女たちを動かす。水と食を持つ。途中で病人を出さない。到着後すぐに動けるようにする。これは立派な軍事行動です」


 お初がぼそりと言った。


「姉上様、完全に軍師みたい」


「生活軍師です」


 お江が笑った。


「生活軍師って強そう!」


「強くなければ船は出せません」


 私は真面目に答えた。


 その時、母上様が静かに入ってこられた。


 いつから聞いておられたのか分からない。

 けれど、部屋の空気だけで全て察したような顔をなさっていた。


「常陸へ、船で」


 母上様が言われた。


 私は頭を下げた。


「はい。真琴様より、そのように」


 お市は真琴様を見た。


「大きく動きますね」


「はい」


 真琴様は、今度は軽く返さなかった。


「これからの常陸には、早めに入った方がいいと考えています。船を使えば、まとまって動けます」


「そうですか」


 母上様は静かに頷かれた。


 その顔を見て、私は胸の奥にあった重みを思い出した。


 母上様も常陸へ行かれるのか。

 それとも。


 まだ誰も、その話を口にはしていない。

 けれど、いつかは向き合わねばならぬことだった。


 私はその問いを胸の中へ一度しまった。


 今は、船移動の全体を整えるのが先だ。

 ただ、母上様の静かな横顔が、妙に遠く見えた。


 その夜、私は寝所へ戻る前に、もう一度表の間の帳面を見た。


 常陸へ持っていくもの。

 大津に残すもの。

 船へ積む順。

 人の割り振り。

 水と食料。

 警護。

 病人が出た時の対応。


 並べれば並べるほど、やることは増える。


 それでも、不思議と心は少しずつ定まっていた。


 大津城から常陸へ。

 陸ではなく、船で。

 黒坂家は、また場所を変える。


 だが、場所が変わっても、家がなくなるわけではない。


 真琴様がいて、私がいて、お初がいて、お江がいて、桜子たちがいて、皆で騒ぎながら帳面を囲む。

 きっと船の上でも、形は違えど同じなのだろう。


 私は小さく息を吐いた。


 軽く言う話ではない。

 けれど、言われてしまった以上、私は整えるしかない。


 常陸へ、船で参る。


 その一言で始まった新しい騒ぎは、どうやら黒坂家の次の大きな一歩になるらしかった。

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