茶々外伝・②③⑧話『常陸国引っ越し騒動』編・第三話 奥方の仕事、さらに増える
昇進の沙汰が届いた翌日から、大津城の門は少しばかり忙しくなった。
人が増えた、というより、運ばれてくるものが増えた。
祝いの品。
挨拶の文。
季節の品に見せかけた探りの贈り物。
安土から、近江から、これまでならもう少し間を置いて届いたはずのものが、急に足並みをそろえたように入ってくる。
朝餉を終えたばかりの食事の間に、桜子が帳面を抱えてやって来た。
「御方様」
「今度は何です」
「祝いの品が、三件ほど」
「“三件ほど”と言う顔ではありませんね」
桜子は、少しだけ困ったように目を伏せた。
「正確には、朝のうちに三件。そのあと昼前に二件、午後にも一件来る見込みです」
「……ほど、ではありません」
「はい」
私は茶碗を置いた。
真琴様は隣で、いかにも気まずそうな顔をしている。
その顔を見て、お初がすぐに言った。
「真琴、なんで自分は関係ないみたいな顔してるの」
「いや、関係はあるんだけど」
「あるどころじゃないでしょ」
「でも贈り物の仕分けは、茶々の方が圧倒的に強いし」
「投げた」
「投げてない。信頼」
「便利な言葉ね」
お江が口を挟む。
「贈り物いっぱい来るなら、開けていい?」
「駄目です」
私とお初の声が、綺麗に重なった。
お江は目を丸くする。
「二人で言わなくてもいいじゃん」
「言われるようなことを言うからです」
「だって、何が入ってるか気になる」
「気になるものほど、勝手に開けてはなりません」
私は立ち上がった。
「桜子、表の間へ。まず送り主ごとに分けます。梅子、品物が食材なら台所へ回す前に私へ。桃子、反物や衣に関わるものは触る前に確認。お江は――」
「はい!」
「触らない係です」
「係じゃない!」
お初が小さく笑った。
「一番大事な係じゃない」
「お初姉様まで!」
そうして、黒坂家の“祝い対応”が始まった。
表の間に並べられた品々を見ると、私は思わず息をついた。
反物。
香木。
干鮑。
茶器。
漆の箱に入った菓子。
春の山菜を添えた見舞いめいた祝い。
そして、文。
品物だけを見れば、華やかでありがたい。
だが、奥方の仕事として見るなら、それだけでは済まない。
誰が何を贈ってきたか。
どの格で返すべきか。
今すぐ返すべきか、少し置くべきか。
真琴様の昇進への純粋な祝いなのか、それとも常陸へ向かう前の距離測りなのか。
贈り物とは、口よりもよく物を言う。
「これは……」
桜子が、反物の箱を開けた。
落ち着いた色の、上質なものだった。派手ではない。だが安物でもない。
贈り主を見ると、安土で何度か顔を合わせた奥方の名がある。
「上手な品ですね」
私は言った。
「高すぎず、軽すぎず。こちらの格を認めつつ、踏み込みすぎない」
「返礼は」
「同格より少しだけ控えめに。近づきすぎず、離しすぎず」
桜子がすぐに帳面へ記す。
梅子が、別の包みを見て顔を上げた。
「御方様、こちらは干鮑と昆布にございます」
「祝いらしい品ですね。送り主は」
名を聞いて、私は少し考えた。
「ここは厚めに返します。今後、船移動や常陸の湊の話も出てくるでしょう。海の品を送ってきたのは偶然ではないかもしれません」
お初が横で眉を寄せた。
「贈り物ひとつで、そこまで見るの」
「見ます」
「大変ね」
「あなたも手伝うのです」
「え」
お初が露骨に嫌そうな顔をした。
「私も?」
「もちろんです。あなたはもう、黒坂家の内の女ですから」
その言葉に、お初は少しだけ黙った。
以前なら、ここで「そういう言い方やめて」と照れ隠しで怒っただろう。
けれど今のお初は、少し違う。
側室として真琴様のそばにいること。
黒坂家の一員として、私の隣で働くこと。
そのどちらも、まだ完全に慣れてはいない。けれど、逃げることもしない。
「……何すればいいの」
私は少しだけ微笑んだ。
「まず、文を読みます。誰が本当に祝っていて、誰が様子を見ているかを、言葉の端から拾いなさい」
「そんなの分かる?」
「分かるようになります」
「姉上様、そういうのすぐ言う」
「私も最初から分かったわけではありません」
お初は、文を一通手に取った。
「これ、字が綺麗」
「字だけ見ていては駄目です」
「分かってるわよ」
そう言いながら、お初は真剣に文へ目を落とす。
その横顔を見て、私は胸の奥で静かに頷いた。
妹だったお初が、今は私の隣で文を読んでいる。
少し前なら、それだけで妙な感慨を覚えただろう。
だが今は、それを感慨だけで終わらせてはいられない。
お初には、これから覚えてもらわねばならぬことが山ほどある。
昼過ぎには、表の間が箱と帳面で埋まりかけた。
お江は“触らない係”をしばらく頑張っていたが、やがて我慢しきれなくなったらしく、桃子の後ろから箱を覗こうとしている。
「お江」
「見てるだけ!」
「見てるだけから始まるのです」
「何が?」
「事故が」
お初が即座に言った。
「ひどい!」
「本当のことでしょ。前も箱開けて香をひっくり返しかけたじゃない」
「あれは箱が勝手に」
「勝手に開く箱なんてないわよ」
その横で、桃子が反物を見てうっとりしている。
「この色、御方様にお似合いかと……」
「桃子、仕事に戻りなさい」
「はいです。でも本当にお似合いです」
「ありがとう。ですが今は仕分けです」
「はいです……」
梅子は台所へ回す品と、返礼に使える品を冷静に分けていた。
「こちらの菓子は日持ちしませぬ。今日中に一部を女中へ下げ渡してもよろしいかと」
「よいでしょう。ただし、送り主の名は出さぬように」
「承知しました」
「こちらの茶は?」
「よいものです。すぐに使うより、客人用に保管がよろしいかと」
「ではそうします」
桜子は筆を走らせながら、低く呟いた。
「帳面が、足りませぬ」
「増やしなさい」
「はい」
「黒坂家の格が上がれば、帳面も増えます」
そう言うと、真琴様が食事の間から顔を出した。
「なんか、怖い言葉が聞こえた」
「現実です」
「俺の昇進、帳面増加事件になってない?」
「なっております」
真琴様は少しだけ肩を落とした。
「申し訳ない」
「謝るのは違います」
「じゃあ、何をすればいい?」
私は一瞬考えた。
こういう時、真琴様を暇にしておくと、余計なことを考え始める。
かといって、奥向きの細かい仕分けに口を出されると、場が混乱する。
「そこに座って、いただいた文の中から、政に関わるものだけ抜いてください」
「了解」
「それ以外の品評はなさらぬように」
「なんで?」
「桃子とお江が便乗します」
「ああ……」
真琴様はすぐに納得した。
お江が頬を膨らませる。
「便乗しないもん」
「さっき箱を覗こうとしていました」
「それは見学」
「見学と便乗は近いです」
お初がぼそりと言う。
「お江の場合、見学の次が参加で、その次が事故」
「お初姉様!」
表の間に、少しだけ笑いが広がった。
忙しい。
頭が痛い。
だが、この忙しさの中にも黒坂家らしい騒がしさがある。
それが、私は嫌いではなかった。
夕方近く、お初が一通の文を持ってきた。
「姉上様」
「何です」
「これ、変」
私は文を受け取った。
送り主は、これまでさほど親しくしていなかった家の奥方だった。
文面は丁寧である。
祝意も述べてある。
だが、途中に何度も「常陸での御暮らし」「東国の御支度」「新しき御所向き」といった言葉が入っている。
私は少しだけ目を細めた。
「なるほど」
「これ、祝いっていうより、常陸の話を探ってる?」
「ええ」
お初の目が少しだけ大きくなった。
「当たった?」
「当たりです」
「……ほんとに?」
「ええ。よく読みましたね」
お初は、褒められたのが不意だったのか、少しだけ顔をそらした。
「別に。何回も同じ言葉出てくるから、気持ち悪いと思っただけ」
「それでよいのです」
「気持ち悪い、でいいの?」
「文を読む時、その違和感は大事です」
お初は文をもう一度見た。
「じゃあ、これはどう返すの」
「常陸への支度は進めているが、詳細はまだ、と。こちらから余計な情報は出さず、しかし無視もしない返礼にします」
「面倒」
「奥方の仕事です」
「……これを毎日やるの?」
「増えます」
「嫌な予告」
お初はため息をついたが、文を投げ出しはしなかった。
むしろ、自分で帳面の端に小さく印をつけている。
私はそれを見て、胸の奥が少し温かくなった。
側室としてのお初。
妹としてのお初。
真琴様を心配して怒るお初。
そして、黒坂家の奥向きで文を読み、違和感を拾うお初。
どれも同じお初だ。
その全部が、少しずつこの家の中で場所を得ている。
夜、ようやく贈り物の仕分けが一段落した。
表の間には、帳面の山と、返礼待ちの箱と、下げ渡し用の品が整然と並んでいる。
整然としている、というだけで今日は勝った気がした。
お江はすっかり疲れて、食事の間でぐったりしていた。
「贈り物って、開けるだけなら楽しいのに」
「開けるだけで済まないから仕事なのよ」
お初が言う。
「お初姉様、今日は姉上様みたい」
「やめて」
「どういう意味ですか」
私が問うと、お江は眠そうな顔で言った。
「細かくて怖い」
「お江」
「でも頼もしい」
その付け足しに、お初は言い返す言葉を失った。
真琴様が笑う。
「お初、褒められてるよ」
「褒め方が雑なのよ」
「お江らしい」
「それはそう」
私はそのやり取りを聞きながら、火の前へ座った。
今日は、奥方の仕事がさらに増えた一日だった。
けれど、ただ私一人の仕事ではなくなりつつあることも分かった。
桜子が帳面を守り、梅子が品の行き先を考え、桃子が装いを整え、お江が場をかき回し、お初が文の違和感を拾う。
皆が、それぞれの形で黒坂家を支えている。
私は、それを頼もしいと思った。
黒坂家は大きくなる。
常陸へ向かう話も、もう遠い先のことではない。
その分、奥向きの仕事も増える。
文も、品も、人の目も増える。
けれど、私一人で全部を背負う必要はないのかもしれない。
背負うべき中心には立つ。
けれど、周りにはもう、手を伸ばせる者たちがいる。
そのことを思うと、山のような帳面も、少しだけ軽く見えた。
真琴様が、こちらを見て言った。
「茶々、今日もお疲れ」
「真琴様も、明日は文の仕分けを増やします」
「労われたと思ったら仕事が増えた」
「黒坂家ですから」
お初が横で笑った。
「諦めなさい」
お江も眠そうに言う。
「みんな仕事だね」
その言葉に、私は小さく頷いた。
ええ。
みんなで仕事をする家になってきたのです。
そう思いながら、私は明日の返礼の順を、もう一度頭の中で並べ直した。




