茶々外伝・②③⑦話『常陸国引っ越し騒動』編・第二話 昇進の沙汰、城がざわつく
真琴様が帰城されてから、三日も経たぬうちだった。
ようやく大津城の空気が少し落ち着き、真琴様も食事の間で膳をきちんと終えられるようになった頃、安土から正式な使者が来た。
朝から妙な予感はあった。
桜子の足音がいつもより少し早い。
梅子が台所で「今日は少し多めに茶を」と言っている。
桃子が何もない廊下で二度もつまずきかけた。
そしてお江は、庭に出たまま戻ってこない。おそらく、門のあたりを気にしているのだろう。
「また何か来るのかしら」
お初が、ぼそりと呟いた。
私は表の間で文箱を整えながら答えた。
「何も来ない朝の方が、最近は珍しい気もします」
「嫌な慣れ方ね」
「まったくです」
そんな会話をしているうちに、表門の方から使者到着の知らせが入った。
安土から。
正式な沙汰。
信長公の御意を受けたもの。
その言葉だけで、城の空気がぴんと張った。
私はすぐに表の間へ向かった。真琴様は少し遅れて入ってこられた。まだ病み上がりの名残はあるが、歩みに迷いはない。
ただ、私としては、もう少しゆっくりしていただきたい。そう思ってしまうのは、妻として当然だと自分に言い聞かせた。
使者は、丁重に頭を下げた。
そして告げられたのは、真琴様のこれまでの働きに対する沙汰だった。
官位、役目、加増、今後の常陸に関わる扱い。
その細かな内容は、原作に従うべきものとしてここでは私が勝手に形を変えることはしない。
ただ、ひとつだけ確かだった。
黒坂家は、また一段、上へ押し上げられた。
「……承りました」
真琴様は、いつものように淡々と受けられた。
けれど、私には分かった。
淡々としているようで、ほんの少しだけ、息を整えておられる。
真琴様ご自身も、この沙汰がただの褒美ではないことを理解しているのだ。
これは、働きを認められたということ。
同時に、これからさらに重いものを任されるということでもある。
使者が下がったあと、しばらく表の間は静かだった。
最初に口を開いたのは、お江だった。
「えっと……つまり、真琴が偉くなったってこと?」
真琴様が少し笑う。
「まあ、ざっくり言えば」
「ざっくりすぎます」
私は思わず言った。
お江は首を傾げる。
「じゃあ、官位っておいしいの?」
「食べ物ではありません」
「でも、なんか名前がお菓子みたいなのあるじゃん。中納言とか」
「どこがですか」
「なんとなく」
お初が横でため息をついた。
「お江、お願いだから安土の奥方衆の前でそれ言わないで」
「言わないよ!」
「本当に?」
「……たぶん」
「たぶんじゃ駄目」
このやり取りで、場の緊張が少しだけほぐれた。
だが、私は笑ってばかりもいられなかった。
官位が上がる。
役目が増える。
所領の扱いが変わる。
それは、ただ真琴様の名が上がるだけでは済まない。
屋敷の格式。
使者への応対。
贈答品の格。
女中の配置。
真琴様のお召し物。
私自身の装い。
お初やお江の立ち居振る舞い。
黒坂家の奥向きすべてが、それに合わせて変わらなければならない。
「桜子」
「はい」
「帳面をすべて見直します。安土からの贈答、近江の諸家、これから常陸に関わる者たち。これまでの返礼の格では足りぬものが出ます」
「承りました」
桜子の顔が、少し青ざめた。
けれど、すぐに目は動いた。どの帳面を開くべきか、もう頭の中で並べ始めているのだろう。
「梅子」
「はい」
「今後、来客の膳の格も変わります。ただし、派手にすればよいわけではありません。無駄に豪華にして“浮かれた家”と思われるのは避けます」
「では、品数より素材と出し方で」
「ええ」
「承知しました」
「桃子」
「はいです!」
「真琴様のお召し物を勝手に華美にしないこと」
桃子の肩が跳ねた。
「はうっ」
「何か考えていましたね」
「少しだけ……御主人様の格にふさわしい、きらきらしたものを……」
「きらきらはいりません」
「でも、昇進ですし」
「きらきらはいりません」
二度言うと、桃子はしょんぼりした。
真琴様が苦笑する。
「茶々、そこまで駄目?」
「駄目です」
「少しくらいなら」
「真琴様」
「はい」
「お似合いになるかどうかと、必要かどうかは別でございます」
お初が小さく吹き出した。
「真琴、負けたわね」
「俺、今負けたの?」
「完敗よ」
お江が楽しそうに言う。
「でも、真琴がきらきらしてたら面白いよ」
「面白さで官位を受け止めないでください」
私はそう言いながらも、少しだけ笑ってしまった。
午後には、城中が本格的にざわつき始めた。
まず、桜子が帳面を抱えて走ってきた。
「御方様」
「何です」
「返礼の格を上げる必要がある家が、思ったより多うございます」
「でしょうね」
「それと、これまでなら後回しでよかった方々が、今後は早めに返さねば失礼になるかと」
「書き出しなさい」
「はい」
梅子は台所で、来客用の膳の試案を作っていた。
派手ではなく、しかし軽く見えぬ。
言うのは簡単だが、形にするのは難しい。
「鯉を使うと少し重く見えます」
「祝いには合いますが、続くとくどいですね」
「では、湖魚と山菜を合わせて」
「よいでしょう」
桃子は衣装部屋で、何度もため息をついていた。
「桃子」
「はいです……」
「そんなに落ち込むことですか」
「御主人様に、少しだけでも立派なお召し物をと思いましたのに」
「立派であることと派手であることは違います」
「はいです」
「生地はよいものを。色は落ち着いたものを。紋は正しく。そこを整えなさい」
桃子はぱっと顔を上げた。
「それなら、よろしいのですか?」
「もちろんです」
「はいです! それなら私、頑張ります!」
どうやら“きらきら”を捨てても、“整える”方へ気持ちを向けられたらしい。
扱い方を間違えなければ、桃子は本当に細やかに働く。
問題は、お江だった。
「姉上様!」
お江が、何やら紙を持って飛び込んできた。
「走らない」
「走ってない!」
「走っていました」
「それより見て!」
差し出された紙には、何やら大きな丸と矢印が描かれている。
「これは何ですか」
「官位お祝い配置図!」
「……何の配置ですか」
「真琴を真ん中にして、みんなでお祝いする時の座り方」
お初が横から覗き込んで、すぐに顔をしかめた。
「なんで私が真琴の真横なの」
「側室だから!」
「声が大きい!」
お初が真っ赤になりかける。
「だってそうでしょ」
「そうだけど、そういうことを配置図に堂々と書くな!」
「えー」
私は頭を抱えたくなった。
「お江」
「はい」
「その配置図は没です」
「なんで!」
「理由を聞きますか」
「聞く」
「まず、真琴様を祝う席で真琴様を見世物の中心にしてはいけません。次に、側室という文字を大きく書きすぎです。さらに、母上様の席がなぜ菓子の隣なのですか」
「母上様、甘いもの好きかなって」
「好みで席を決めない」
お初が腹を抱えて笑いかけ、途中で自分が“側室”と大書きされたことを思い出してまた怒った。
真琴様は、遠くからその紙を見ていたが、やがてぽつりと言った。
「お江、俺の席、なんか祭壇みたいじゃない?」
「えっ、だめ?」
「だめというか、生きてるからね」
「それはそう」
その返しに、とうとう桜子まで肩を震わせた。
まったく、昇進の沙汰で大津城が一段重くなるはずだったのに、気づけば食事の間は妙な笑いに包まれている。
けれど、私はそれでよいとも思った。
重い沙汰を、重いまま受け止めすぎれば、人は沈む。
お江の無茶な配置図も、お初の怒りも、真琴様の困ったような笑顔も、今の黒坂家には必要なのだ。
夕方、母上様の御殿へ報告に行くと、お市は静かに聞いておられた。
「城が浮き立っておりますね」
「はい」
「悪いことではありません」
「ですが、浮つかせぬようにいたします」
母上様は頷かれた。
「その加減です」
私は少しだけ息をついた。
「官位が上がるというのは、思った以上に暮らしを変えるものですね」
「ええ」
「真琴様は、受けた直後はあまり変わらぬ顔をしておられましたが」
「男は、そういうところを見せぬものです」
母上様は穏やかに言われた。
「ですが、周りは変わります。相手の目が変わり、席の位置が変わり、言葉遣いが変わる。本人が変わらぬつもりでも、家は変わらされる」
その言葉は、今日一日で私が感じたことそのものだった。
「茶々」
「はい」
「真琴殿の格が上がれば、そなたの振る舞いもまた見られます」
「はい」
「喜びは持ちなさい。ただし、はしゃぎすぎてはなりません。重く受け止めなさい。ただし、沈みすぎてはなりません」
「……難しゅうございます」
「御方様とは、難しいものです」
母上様は何でもない顔でそう仰った。
私は思わず小さく笑った。
「最近、母上様はそればかりです」
「事実ですから」
この人には、やはり敵わない。
夜、真琴様は食事の間で、ようやく少し落ち着いて茶を飲んでおられた。
お江の配置図は没になったが、なぜか本人はまだ諦めきれないらしく、紙の端へ小さな丸を書いている。
お初はそれを見張っている。
桜子は帳面を開いたまま、返礼の順を確認している。
桃子は衣装の色をぶつぶつ唱えている。
梅子は明日の膳の仕込みを思案している。
昇進の沙汰ひとつで、城中がこうも動く。
私は囲炉裏の火を見つめながら、今日一日を思い返した。
真琴様の官位が上がった。
役目が増えた。
黒坂家の格が変わった。
それは誇らしい。
だが、同時に、私たちの暮らしも変わる。
膳も、衣も、文も、贈り物も、人の目も。
私は喜びながら、すでに次の帳面を開いている。
それが少し可笑しくもあり、少し怖くもあった。
真琴様が、ふと私を見た。
「茶々」
「はい」
「大変?」
「大変です」
私は即答した。
真琴様が目を丸くする。
「そこは遠慮しないんだ」
「遠慮しても帳面は減りません」
「ごめん」
「謝ることではございません。ですが、増えた仕事の分は、きちんと働いていただきます」
「俺も?」
「当然です」
お初が横で笑った。
「真琴、昇進って大変ね」
「今、すごく実感してる」
お江が明るく言う。
「でも偉くなったんでしょ? お祝いだよ!」
その声に、私は少しだけ微笑んだ。
そうだ。
大変だ。
けれど、祝いでもある。
この喜びと重みを、どちらか一方にせず抱えていく。
それが、これからの黒坂家なのだろう。
私は静かに茶を口へ運んだ。
火の音が、小さく鳴った。
また一段、家が大きくなる。
それに合わせて、私もまた大きくならねばならない。
そう思いながら、私は明日開くべき帳面の数を、頭の中でそっと数え始めていた。




