茶々外伝・②③⑥話『常陸国引っ越し騒動』編・第一話 帰ってきたのに、休めない
帰城とは、休むことだと思っていた。
少なくとも私は、そうであってほしいと思っていた。
門をくぐり、湯に入り、温かい膳を前にして、囲炉裏の火を眺めながら肩の力を抜く。
それが、戦から戻った人に許される最初の時間であってほしい。
だからこそ私は、湯殿の湯加減を見て、膳を軽く整え、寝所の香まで控えめにした。
ところが、真琴様が帰ってきた大津城は、私の願いなどまるで知らぬ顔で、すぐに動き出した。
湯から上がった真琴様が、ようやく食事の間に腰を下ろされた時だった。
私は膳を出しながら、まずは粥と焼き魚を少し、あとは湯で体を休めていただこうと考えていた。
「まずは召し上がってくださいませ」
「うん。正直、助かる」
真琴様が箸を取る。
その顔には疲れがあった。けれど、帰城直後に見た時よりは幾分やわらいでいる。湯で旅塵が落ちたせいだろう。
お江はその横で、早く話しかけたくて仕方ない顔をしていた。
「真琴、関東って遠かった?」
「遠いね」
「どのくらい?」
「お江が途中で絶対飽きるくらい」
「それ、かなり遠い」
お初がすぐに言った。
「飽きる前に船酔いとか馬酔いとかするでしょ、この子は」
「しないもん」
「するわよ」
そのいつものやり取りに、私は少しだけ安心した。
そうだ。
この食事の間は、こうでなくてはならない。
真琴様が戻ってきて、お江が騒ぎ、お初が突っ込み、母上様が静かに見守る。そういう何でもない騒がしさが、ずっと欲しかった。
だが、その安堵は長く続かなかった。
「御方様」
襖の外から、桜子の声がした。
声の調子だけで分かる。
ただの給仕ではない。
「何です」
「安土より、急ぎの使者が」
箸を持っていた真琴様の手が止まった。
私は、ほんの一瞬だけ目を閉じたくなった。
帰ってきたばかりなのに。
まだ膳の半分も召し上がっていないのに。
けれど、使者を待たせるわけにはいかない。
「通しなさい」
私が言うと、真琴様は苦笑された。
「ごめん、茶々」
「謝ることではございません」
「でも、膳、冷めるね」
「温め直します」
少し強めに言うと、真琴様は「はい」と素直に頷いた。
その横で、お初が低い声で呟く。
「帰ってきたのに、全然休めてないじゃない」
「お初」
「事実でしょ」
私は否定できなかった。
入ってきた使者は、安土からの正式な文を持っていた。
関東での戦後処理に関する確認、諸家への通達、信長公への報告の追加、そして今後の動きについて。
内容はまだ大きな沙汰そのものではない。けれど、それだけでも真琴様をすぐに“家の人”から“政の人”へ引き戻すには十分だった。
真琴様は文を受け取り、目を走らせる。
その顔が変わる。
私はその瞬間を見るのが、少し怖かった。
さっきまでお江と軽口を交わしていた人が、文字を追ううちに、一気に遠くなる。
大津の囲炉裏の前にいるのに、その目だけはもう安土の評定の間へ行っている。
「……なるほど」
真琴様が短く言った。
「返書をすぐ?」
私が問うと、真琴様は頷いた。
「うん。長くはないけど、今日中に戻した方がいい」
お江が露骨に頬を膨らませた。
「えー。今?」
「今」
「ご飯は?」
「食べながら考える」
「だめだよ、それ!」
お江が珍しく本気で怒った。
「帰ってきたばっかりじゃん。湯も入ったし、ご飯もあるし、今日は寝る日でしょ?」
「寝る日って」
「寝る日!」
真琴様は困ったように笑ったが、お江は引かなかった。
お初も、ここぞとばかりに続く。
「お江の言い方はともかく、休むべきなのは間違いないわよ」
「お初まで」
「私まで、じゃない。前に倒れたの忘れたの?」
「忘れてない」
「なら、なんで帰って早々に文読んでるの」
「文が来たから」
「子どもみたいな返事しないで」
その声はきつい。
けれど、心配が滲んでいた。
私は二人を止めなかった。
今の真琴様には、少しくらい言われた方がよい。
ただし、使者の前で騒ぎすぎるのもまずい。
「お江、お初」
私が名を呼ぶと、二人は同時にこちらを見た。
「お気持ちは分かります。ですが、返書は必要です」
「姉上様まで」
お江が不満そうに言う。
「ただし」
私は真琴様へ向き直った。
「返書を書かれたら、そのあとは膳を召し上がっていただきます。報告は食後。湯殿へもう一度は不要ですが、寝所へは早めに」
真琴様が、少しだけ目を丸くした。
「茶々、段取りが完全に決まってる」
「決めております」
「反論の余地は?」
「ございません」
「うん。分かった」
その素直さに、お初が疑わしげな目を向ける。
「本当に分かってる?」
「分かってるよ」
「真琴の“分かってる”は信用ならない」
「今日、みんな厳しくない?」
「今までが甘かったのです」
私がそう言うと、真琴様はとうとう笑った。
その笑顔を見て、私は少しだけ胸を撫で下ろした。
疲れてはいる。
けれど、笑える。
ならばまだ、大丈夫だ。
返書は、本当に短かった。
真琴様は食事の間の脇に小机を出させ、膳を冷まさぬよう近くへ置いたまま、筆を取った。
桜子が灯りを調整し、私は使者へ湯を出させる。
お江は不満そうに真琴様を見ていたが、やがて小声で「ご飯、冷めちゃう」と呟いた。
お初は腕を組んで立っている。完全に見張りである。
「お初、座りなさい」
「見張ってるの」
「誰を」
「真琴」
真琴様が筆を走らせながら言った。
「見張られてると、書きにくいんだけど」
「早く書けばいいじゃない」
「正論が痛い」
私は思わず笑いそうになった。
このやり取りを見ていると、ひどく日常に戻ったように思える。
けれど、机の上にあるのは安土からの文であり、真琴様が書いているのは戦後の政の返事である。
日常と天下が、同じ食事の間に並んでいる。
黒坂家とは、いつの間にかそういう家になっていた。
返書が書き上がると、真琴様は使者へ渡した。
「安土へ。急ぎだけど、道中で馬を潰さないように」
「はっ」
「それと、向こうには明日以降、詳細をまとめると伝えて」
「承知いたしました」
使者が下がると、お江がすぐに膳を真琴様の方へ押した。
「はい、ご飯!」
「はい」
「ちゃんと食べて」
「はい」
「お初姉様、見てて」
「見てる」
真琴様は箸を取り、苦笑しながら粥を口へ運んだ。
「なんか、戦場より厳しい」
「当たり前です」
私は言った。
「ここは大津城ですから」
真琴様は一瞬だけ私を見て、それから小さく笑った。
「それ、すごく強いね」
「強くしております」
そう答えると、母上様が静かに笑われた。
「よいことです」
食後、予定どおり報告の整理が始まった。
私は本当なら、すぐ寝所へ連れていきたかった。
けれど、帰城直後の確認だけは避けられない。
だから、時間を区切ることにした。
「半刻だけです」
「うん」
「半刻を過ぎたら、残りは明日へ」
「うん」
「返事が軽いです」
「ちゃんと聞いてる」
お初が横から言う。
「怪しい」
「お初、今日は本当に厳しいな」
「今日だけじゃないわよ」
「それは知ってる」
「どういう意味よ」
また言い合いになりかけたので、私は手を叩いた。
「始めます」
場が静まる。
真琴様は、関東で見たこと、安土へ戻る前に整理したこと、今後常陸のことも含めて考えねばならぬことを、簡潔に語られた。
その話を聞きながら、私は改めて感じていた。
帰ってきた。
けれど、帰ってきただけでは終わらない。
この人の中には、もう次の仕事がある。
関東の処理。
安土への報告。
そしてこれから始まる、常陸への動き。
膳の前にいる夫でありながら、同時に国を動かす一角でもある。
その二つが、今の真琴様の中に同居している。
話が半刻を過ぎかけたところで、私は静かに言った。
「ここまでにいたしましょう」
真琴様が少しだけ口を開きかけた。
だが、お初とお江が同時に睨んだ。
「はい」
真琴様は素直に頷いた。
その素直さに、皆が少し笑った。
夜、真琴様を寝所へ送ったあと、私は一人で食事の間へ戻った。
囲炉裏の火はまだ残っている。
膳は片づけられ、文机も下げられた。
けれど、さっきまでここにあった慌ただしさが、まだ空気の中に残っていた。
帰ってきたのに、休めない。
お江の怒りも、お初の不機嫌も、もっともだった。
けれど私は、別のことも感じていた。
真琴様は、もうただ「帰ってきたから休む」だけでは済まぬ人になっている。
それは悲しいことでもあり、誇らしいことでもあった。
ならば私は、せめてこの城で休ませる順番を守る。
文が来ても、報告が来ても、膳を食べさせ、湯を使わせ、寝所へ押し込む。
それが出来るのは、たぶん私たちだけだ。
私は囲炉裏の火を見ながら、静かに思った。
この人が国に使われる人になったのなら、私はこの人を人に戻す場所を守る。
帰ってきたのに休めないのなら、休ませるために戦う。
それが、これからの私の仕事なのだろう。




