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茶々外伝・②③⑤話『関東の乱』編・第十五話 帰城

 その朝、私は夜明け前に目を覚ました。


 眠れなかった、というほどではない。

 けれど深く眠ったとも言えなかった。意識の底で、ずっと門の音を待っていたのだと思う。


 障子の向こうは、まだ薄暗い。

 春の朝の冷えが、紙一枚を隔てて寝所の中へ忍び込んでいた。私は身支度を整え、廊下へ出る前に、ほんの少しだけ息を整えた。


 今日、真琴様が帰ってくる。


 そう思うだけで、胸の奥が静かに波立つ。

 嬉しい。

 安堵している。

 けれど、それだけではない。


 関東で戦国武将として名を上げた人が帰ってくる。

 けれど、私が迎えるのは、その名ではない。

 この城の門をくぐり、この食事の間へ戻り、湯に入り、膳を前にしてようやく肩の力を抜くはずの、あの人なのだ。


 廊下を進むと、すでに桜子が控えていた。


「御方様」


「湯殿は」


「火を入れております。湯は予定どおり、少しぬるめから」


「よろしい。熱くしたくなっても、今日は急がないように」


「承知しております」


「梅子は」


「台所に。膳の下ごしらえは整っております」


「桃子は」


「寝所の香を……三度ほど選び直しておりましたが、今は落ち着きました」


 私は思わず少し笑ってしまった。


「落ち着いたならよろしいです」


 食事の間へ入ると、囲炉裏の火が小さく起こされていた。

 まだ誰も座っていない。

 けれど、火があるだけで、そこはもう迎える場所になっていた。


 少し遅れて、お江が駆け込んできた。


「姉上様!」


「走らない」


「走ってない!」


「今のは走っていました」


「だって今日だよ!」


 お江は頬を赤くしている。

 寝不足なのか、興奮なのか、たぶん両方だろう。


「真琴、いつ来るかな。朝? 昼? もう門の外にいたりしない?」


「そんなに早くはありません」


「でも、ちょっと見てくる」


「駄目です」


 私が言うより先に、お初の声がした。


 振り返ると、お初が廊下の入口に立っていた。

 髪も衣もきちんと整えている。

 整えすぎているほどだ。


「お江、あんたが門にいたら邪魔」


「お初姉様だって気になるくせに」


「気になってない」


「嘘」


「嘘じゃない」


「じゃあ、なんでそんなに早起きなの?」


 お初は一瞬詰まった。

 そして、こちらを見た。


「……姉上様に呼ばれると思ったから」


「呼んでおりません」


「ほら!」


 お江が勝ち誇った顔をする。


 お初は真っ赤になるほどではなかったが、少しだけ耳のあたりを赤くした。


「もう、ほんとにうるさい」


 その声を聞いて、私はふっと肩の力が抜けた。


 いつものやり取り。

 けれど今日のそれは、いつもより少しだけ浮いている。

 皆、帰城を前に、普段どおりでいようとして、少しずつ普段どおりではない。


 母上様が入ってこられたのは、その時だった。


「朝から賑やかですね」


「母上様」


 私たちは揃って頭を下げた。


 お市は、食事の間を一目見て、それから私を見た。


「よく整っています」


「ありがとうございます」


「茶々」


「はい」


「迎える時、最初の一言は決めておりますか」


 私は、少しだけ息を止めた。


 決めているようで、決めていなかった。

 何度も心の中では繰り返した。

 お帰りなさいませ。

 ご無事で何よりです。

 お疲れでございましょう。

 湯の支度が整っております。


 けれど、どれも違う気がしていた。


「……いいえ」


 私は正直に答えた。


「その時、出る言葉にいたします」


 母上様は、静かに頷かれた。


「それでよいでしょう」


 その一言で、少しだけ救われた。


 真琴様の帰城を知らせる声が上がったのは、巳の刻を少し過ぎた頃だった。


 最初に気づいたのは、やはりお江だった。


「来た!」


 廊下の向こうで声がした。

 私はちょうど湯殿の桶を最後に確かめていたところだった。


「お江、走らない!」


 お初の声が響く。


「走ってない!」


「走ってる!」


 私はそのやり取りを聞きながら、急いで、けれど乱れぬように門へ向かった。


 門の内側には、すでに家臣や女中たちが整列していた。

 誰も大声では騒がない。

 けれど、空気が明らかに違う。


 待っていたものが、ついに戻ってくる。

 その緊張と喜びが、城門の内側に満ちていた。


 門の向こうから馬の足音が近づく。

 人の声。

 甲冑の触れる音。

 旅塵を含んだ風。


 そして、門が開いた。


 真琴様がいた。


 以前より、少し痩せて見えた。

 顔色は悪くない。

 だが、疲れはある。

 肩に積もったものは、出立の日より確実に重くなっている。


 それでも、目はこちらを見ていた。


 私の知っている目だった。


 戦場で名を上げた人の目であり、同時に、大津城へ帰ってきた人の目だった。


 私は一歩前へ出た。


 言葉は、決めていなかった。

 だから、その時に出たものをそのまま口にした。


「お帰りなさいませ、真琴様」


 ごく普通の言葉だった。

 けれど口にした瞬間、胸の奥へ熱いものが込み上げた。


 真琴様は、ほんの少しだけ目を細められた。


「ただいま、茶々」


 その声を聞いた時、ようやく私は、この人が本当に帰ってきたのだと知った。


 お江が隣で、もう我慢できないという顔をしている。


「真琴!」


「お江、待ちなさい」


 私が止めるより早く、お江は一歩踏み出していた。

 しかし、飛びつく直前でお初に襟首を掴まれる。


「いきなり抱きつくなって言ったでしょ」


「だって!」


「だってじゃない。疲れてるんだから」


 真琴様が笑った。


「ただいま、お江。お初も」


 お初は、一瞬だけ視線を逸らした。


「……お帰り」


 それだけだった。


 けれど、その声は震えていなかった。

 怒ってもいない。

 ただ、長く待っていたものがやっと目の前にいることを、どう受け止めればよいか分からない声だった。


 真琴様は何か言おうとして、やめた。

 それがよかった。


 今のお初には、余計な言葉より、その沈黙の方が届く気がした。


 母上様が静かに前へ出られた。


「ご無事の帰城、何よりにございます」


「母上様。ただいま戻りました」


 真琴様が頭を下げる。

 その姿を見て、私は改めて思った。


 この人は外で、たくさんの顔を持っている。

 武将として。

 黒坂家の主として。

 信長公に仕える者として。

 関東の乱へ関わった者として。


 けれど今、この門の内側では、まず“帰ってきた人”なのだ。


 門前での挨拶を長くはしなかった。


 母上様の言葉どおり、迎える側が重くしてはならない。

 私はすぐに真琴様を湯殿へ案内させた。


「まず湯へ」


「うん。ありがたい」


 その返事だけで、どれほど疲れているかが分かった。


 真琴様が湯殿へ向かわれると、城内の空気が一気にほぐれた。

 女中たちは顔を見合わせ、家臣たちは安堵を隠しきれず、桜子たちはもう次の膳の支度へ動き出している。


 お江は、ようやくお初の手から解放されて、私のそばへ寄ってきた。


「姉上様」


「何です」


「帰ってきたね」


「ええ」


「ほんとに帰ってきたね」


「ええ」


 私は同じ返事を繰り返した。

 それ以上言うと、声が揺れそうだった。


 お初は少し離れたところで、湯殿の方を見ていた。


「お初」


 私が声をかけると、妹は顔を上げた。


「何」


「怒らないのですか」


「何を」


「倒れない努力をしている、などと書いたことを」


 お初は一瞬だけ黙った。

 それから、小さく息を吐く。


「あとで怒る」


「そうですか」


「今は……帰ってきたから」


 それだけ言って、お初は視線をそらした。


 その横顔を見て、私は何も言わなかった。

 言わないことが、たぶん今は一番よい。


 湯のあと、真琴様は食事の間へ戻られた。


 髪はまだ少し湿っていて、顔色は出立前よりずっと楽に見えた。

 湯で戦場の塵を少し落としたのだろう。

 それでも、体の奥に残った疲れは、すぐには消えない。


 私は膳を前へ置いた。


「まずは軽く」


「やっぱり軽めか」


「当然です」


「濃いものは?」


「却下です」


 真琴様が笑う。


「ただいまって感じがする」


 その言葉に、私は少しだけ笑った。


「それは、よろしゅうございました」


 お江が横から覗き込む。


「真琴、手紙読んだ?」


「読んだよ」


「寝てる?」


「努力してる」


「努力じゃだめって姉上様が言ってた」


「皆、同じこと言うなあ」


 お初が、そこでぼそりと言った。


「同じこと言わせてるのは、あんたでしょ」


 真琴様は、少しだけ苦笑した。


「うん。ごめん」


 その一言に、お初は黙った。

 たぶん、怒る言葉を用意していたのに、先に謝られて行き場を失ったのだろう。


「……次は、ちゃんと長く書いて」


 ようやく出たのは、それだった。


「はい」


「短すぎると、余計に腹立つから」


「うん」


 真琴様は、素直に頷いた。


 私はそのやり取りを見ながら、胸の奥が静かに満たされていくのを感じた。


 帰ってきた。

 この人は、本当に帰ってきたのだ。


 その夜、食事の間の囲炉裏には、いつもより少しだけ長く火を残した。


 真琴様は、膳を半分ほど食べたところで、少し眠そうな顔になった。

 お江はまだ話したそうだったが、母上様の一瞥で口を閉じた。

 お初は「寝た方がいい」とだけ言った。


 真琴様は、皆を見回して、ぽつりと呟いた。


「やっぱり、大津はいいね」


 その一言で、私はもう十分だった。


 戦国武将・黒坂真琴として名を上げ、関東の乱を鎮めるために働き、たくさんのものを背負って戻ってきた人が、今この囲炉裏の前でそう言った。


 それだけで、この城を守っていた日々が報われた気がした。


 私は静かに答えた。


「お帰りになる場所ですから」


 真琴様は、少しだけ笑った。


「うん。ただいま」


「はい」


 私は、今度は迷わずに言えた。


「お帰りなさいませ」


 囲炉裏の火が、ぱちりと鳴った。


 帰ってきたのだ、この人は。

 そして私は、この人を再び家へ戻すことが出来た。


 その実感が、静かに、深く、胸の底へ沈んでいった。

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