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茶々外伝・②③②話『関東の乱』編・第十二話 お江の手紙大作戦

勝報が届いてから、城の空気は少しだけ軽くなった。


 真琴様が無事であること。

 大きな働きをされたこと。

 関東で黒坂の名がまた重くなったこと。


 それは、留守を預かる私たちにとって、たしかに明るい報せだった。


 けれど、明るい報せというものは、不思議と長くは持たない。

 翌日には、また次の文を待つ。

 また次の使者の足音を気にする。

 そしてまた、食事の間に置かれた真琴様の空席を見てしまう。


 勝った。

 怪我はない。

 でも、まだ帰ってこない。


 その事実だけは、少しも変わっていなかった。


 その日の昼下がり、食事の間には、どことなく重い沈黙が漂っていた。


 私は文の控えを見ていた。

 お初は向かいで針仕事をしている。

 お江は、青い座布団の端を指でつついていた。

 桜子たちは静かに動いていたが、皆どこか言葉少なだった。


 勝報の翌日というのは、こういうものなのかもしれない。


 喜びが一度通り過ぎたあと、残るのは待つ時間だ。

 そして待つ時間は、思っているより人の心を削る。


「……ねえ」


 最初に沈黙を破ったのは、お江だった。


「何です」


 私は顔を上げた。


 お江は、しばらく青い座布団を見つめていたが、やがて勢いよく顔を上げた。


「手紙、書こう」


「手紙?」


「うん。みんなで」


 私は筆を置いた。


「真琴様へ、ですか」


「ほかに誰に書くの」


 お江は当然のように言った。


「昨日、勝ったでしょ。でも、まだ帰ってこないでしょ。だったら、こっちからいっぱい書けばいいじゃん」


 お初が針を止めた。


「いっぱいって何よ」


「いっぱいはいっぱい。姉上様も、お初姉様も、私も、桜子たちも。みんなで書くの」


「そんなに送られたら邪魔でしょ」


「邪魔じゃないよ。嬉しいよ」


「戦の最中に?」


「だからこそ、嬉しいんじゃないの?」


 お江はあっさり言った。


 私は、少しだけ返事に迷った。


 たしかに、戦の最中に長々と文を送りつけるのは考えものだ。

 真琴様には読む時間も限られている。

 けれど、短くとも、大津が待っていることを伝える文は、悪くないのかもしれない。


 それに、お江の提案には、もう一つ意味があった。


 城の中が重い。

 皆、言いたいことを抱えている。

 帰ってきてほしい。

 寝てほしい。

 無理しないでほしい。

 おかえりと言いたい。

 でも、その全部を口にする相手がここにいない。


 ならば、紙へ預けるのも一つの手だ。


「……よいでしょう」


 私がそう言うと、お江の顔がぱっと明るくなった。


「ほんと?」


「ただし、長すぎぬこと。戦の陣で読まれるものです」


「うん!」


「あと、余計なことを書かぬこと」


「余計なことって?」


「お土産を催促するなど」


「書こうと思ってたのに」


「書かない」


 お初が即座に言った。


「ほら、お初姉様も参加ね」


「私は書くなんて言ってない」


「今、口出した」


「それは止めただけ」


「手紙の作戦会議に参加したから、もう仲間」


「何その理屈」


 お初は本気で嫌そうな顔をしたが、針仕事の手はもう完全に止まっていた。


 私は桜子へ視線を向けた。


「紙と筆を。控えの間に小机をいくつか」


「承りました」


 桜子は少しだけ微笑んだ。


 どうやら、彼女もこの重い空気を変えたいと思っていたらしい。


 控えの間に小机を並べると、思った以上に人が集まった。


 お江は当然として、お初も「私は監視」と言いながら座った。

 桜子、梅子、桃子も、最初は恐縮していたが、私が「一言でよい」と言うと、それぞれ筆を取った。

 お市は参加なさらなかったが、御殿の方から「皆が書くなら、それもよいでしょう」とだけお言葉をくださった。


 お江は、筆を持つとすぐに書き始めた。


 迷いがない。

 実にない。


「お江、あまり大きな字にしないように」


「大きい方が読みやすいよ」


「文箱に入りません」


「あ、そっか」


 お江は慌てて筆を少し細く持ち直した。


 私は横からちらりと見た。


 マコへ。

 勝ったって聞いたよ。すごいね。

 でも、ちゃんと寝てね。

 帰ってきたら、青い座布団に座ってね。

 あと、おみやげはいりません。


 最後の一行で、私は思わず目を細めた。


「お江」


「書いてないよ!」


「書いています」


「あ、いらないって書いたからいいかなって」


「……まあ、催促ではありませんね」


 お初が横から覗き込んで、鼻で笑った。


「それ、絶対“本当はほしい”って読まれるわよ」


「えー」


「だって、お江だもの」


「ひどい」


「事実」


 お江はむくれたが、そのまま消すことはしなかった。

 真琴様なら、きっと苦笑するだろう。

 そう思うと、私もそのままでよい気がした。


 桜子は、ひどく丁寧に書いていた。


 大津城は滞りなく回っております。御方様のもと、皆それぞれの役を果たしております。どうか御身をおいといくださいませ。


 桜子らしい文だった。

 控えめで、忠義深く、必要なことだけが並んでいる。


 梅子は少し迷った末に、食のことを書いていた。


 お戻りの折には、胃にやさしいものをご用意いたします。戦中も、どうか一口でも召し上がってくださいませ。


 これもまた梅子らしい。

 真琴様が読めば、少し困った顔をするだろうが、たぶん心には残る。


 桃子は、何度も書き直していた。


「どうしました」


 私が声をかけると、桃子は紙を抱えるようにして言った。


「御方様、何を書いても、なんだか重くなってしまって……」


「重くなってもよいのです。真心があれば」


「でも、殿が読んで困られたら」


「困らせぬ文など、案外すぐ忘れられます」


 私がそう言うと、桃子は目をぱちぱちさせた。


「そういうものでしょうか」


「たぶん」


 横からお初が言う。


「ちょっとくらい困る方が、読んだってことになるんじゃない」


「お初が言うと妙に説得力がありますね」


「どういう意味」


「そのままです」


 お初はむっとしたが、桃子は少し気が楽になったらしい。


 結局、桃子はこう書いた。


 殿のお部屋は、いつでもお戻りになれるよう整えております。青い座布団も、夏の寝具も、皆で選びました。どうかご無事で。


 その文を見て、お江が少し得意げになった。


「青い座布団、やっぱり大事」


「座布団が主役みたいになってきたわね」


 お初が呆れる。


「でも、マコの席だもん」


 お江が言うと、皆、少しだけ黙った。


 そうだ。

 青い座布団は、ただの座布団ではない。

 真琴様の帰る席を、目に見える形で置いておくものなのだ。


 問題は、お初だった。


 お江が一枚を書き終え、桜子たちもそれぞれ文を畳み終えた頃になっても、お初の紙はほとんど白いままだった。


 書かぬなら書かぬでよい。

 だが、本人はずっと筆を持っている。

 つまり、書く気はある。

 ただ、何を書くかで止まっている。


「お初姉様、まだ?」


「急かさないで」


「一行でもいいんだよ」


「それが難しいの」


 お初は苛立ったように言った。

 けれど、その苛立ちはお江へではなく、自分へ向いているように見えた。


 私はあえて口を挟まなかった。


 お初の文は、お初自身が決めなければならない。

 私が言葉を与えれば、それはもうお初の文ではなくなる。


 長い沈黙の末、お初はようやく筆を置いた。


 紙には、たった数行だけ。


 勝ったと聞きました。

 皆、喜んでいます。

 私は怒っています。

 倒れたら、今度こそ本当に許しません。

 でも、ちゃんと帰ってきたら、許します。


 お江が、声を出さずに目を丸くした。

 桃子は口元を押さえ、桜子は静かに視線を伏せた。

 梅子は少しだけ微笑んでいる。


 私は、その文を見て、胸の奥が柔らかく痛んだ。


 お初らしい。

 あまりにも、お初らしい。


 怒っている。

 けれど、怒りの中に心配も寂しさも、そして待っていることも全部入っている。

 素直ではない。

 でも、嘘はない。


「……変?」


 お初が、こちらを見ずに問うた。


「いいえ」


 私は答えた。


「よい文です」


「ほんとに?」


「ええ」


「姉上様、そういう時たまに甘いから」


「今回は甘くありません」


 私は文へ視線を落とした。


「真琴様には、きっと届きます」


 お初は、何か言い返そうとして、やめた。

 その代わり、文を乱暴になりすぎぬよう丁寧に畳んだ。


 お江が小声で言う。


「お初姉様、すごくお初姉様っぽい」


「うるさい」


「褒めてる」


「それがうるさいの」


 そのやり取りに、控えの間が少し笑った。


 最後は、私の番だった。


 実は、私はまだ一文字も書いていなかった。


 皆の文を見ているうちに、自分が何を書くべきか分からなくなっていたのだ。


 御方様として書くなら、城の状況を整然と伝えるべきだ。

 妻として書くなら、もっと素直に無事を願うべきかもしれない。

 けれど、どちらか一つだけでは、どうにも足りない。


 私は筆を取り、しばらく紙の白さを見つめた。


 真琴様の短い文を思い出す。

 まだ死んでいないので安心して。

 あの軽さ。

 あの短さ。

 あの人らしい強がり。


 ならば私は、あの軽さに合わせるべきか。

 それとも、こちらはこちらの重さを少しだけ渡すべきか。


 迷った末、私はこう書いた。


 大津城は、今日も静かに回っております。

 母上様は変わらず、城の芯におられます。

 お江は青い座布団を選び、お初は怒りながらも手を動かしております。

 桜子、梅子、桃子も、それぞれ帰城の日を思い支度をしております。

 御身が外で名を上げられることを、私は誇りに思います。

 けれど、帰られた時にまず疲れを見抜く役目は、私が預かります。

 どうか、その役目を私から奪わぬよう、必ずお戻りくださいませ。


 書き終えたあと、私はしばらく筆を置けなかった。


 少し、書きすぎただろうか。

 重すぎただろうか。


 そう思った時、お江が隣からそっと覗いた。


「姉上様の、長い」


「読まないでください」


「ちょっとしか見てない」


「十分見ています」


 お江は、にこっと笑った。


「でも、いいと思う」


「あなたに言われると、少し心配です」


「ひどい!」


 お初も、ちらりと私の文を見た。

 そして、少しだけ目を伏せた。


「……姉上様らしい」


「硬いですか」


「硬いけど」


 お初は少し考えてから言った。


「ちゃんと、姉上様」


 その言葉に、私は返事を忘れた。


 ちゃんと、私。

 それは、今日の中でいちばん嬉しい言葉だったかもしれない。


 夕方、皆の文を一つの包みにまとめた。


 正式な文とは別に、私的なものとして、安土経由で届けてもらうことにした。

 戦場へ大量の文を送るのは慎むべきだが、一包みならよいだろう。

 もし読む暇がなければ、真琴様があとで開けばよい。


 包みを桜子へ渡す時、私は少しだけ手を止めた。


 この中には、大津城の空気が入っている。


 お江の無邪気な明るさ。

 お初の怒りと心配。

 桜子たちの忠義と暮らしの気遣い。

 そして、私の誇りと怖れ。


 戦場にいる真琴様が、それをどう受け取られるかは分からない。

 笑うかもしれない。

 困るかもしれない。

 また「みんな重い」とでも言うかもしれない。


 それでもいいと思った。


 重いなら、重いでよい。

 その重さこそ、帰る場所があるという証なのだから。


「桜子」


「はい」


「大事に」


「必ず」


 桜子は丁寧に包みを受け取った。


 夜、食事の間には、どこかすっきりした空気があった。


 真琴様が帰ってきたわけではない。

 戦が終わったわけでもない。

 それでも、皆、紙へ少しだけ胸の内を預けたことで、息がしやすくなったのだろう。


 お江は「マコ、読むかな」と何度も言い、お初は「読むでしょ、あの人、変なところ律儀だから」と返した。

 桃子は「お部屋のことを書きすぎたでしょうか」と心配し、梅子は「食のことは書いておいてよかったです」と頷く。

 桜子は静かに微笑んでいた。


 私は、その様子を見ながら思った。


 待つことは、ただ黙って耐えることではない。

 文を書くことも、座布団を選ぶことも、湯殿を整えることも、怒ることも、笑うことも、全部が待つことの一部なのだ。


 お江の思いつきは、案外よい作戦だったのかもしれない。


 手紙大作戦。

 お江らしい、少し幼い名だ。

 けれど今日、大津城の女たちはその名の通り、紙の上で少しだけ戦った。


 帰ってきてほしい。

 倒れないでほしい。

 おかえりと言わせてほしい。


 その思いを、ようやく形にして送り出したのだから。

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