茶々外伝・②③①話『関東の乱』編・第十一話 勝ちの報せ、笑えぬ夜
勝報は、昼下がりに届いた。
その日は、朝から妙に蒸していた。
夏というにはまだ少し早いが、春の軽さはもう遠のき、廊下を歩く女中たちの額にはうっすら汗が浮いている。食事の間には、お江が選んだ青い座布団が置かれ、簾越しの光が畳の上で揺れていた。
私は表の間で、安土へ送る文の控えを見ていた。
大津城は乱れなし。
城下の水は落ち着きつつあり、地震後の修繕も進む。
蔵の出入りは安定。
夏支度は順に進行。
そうした何でもないような言葉を、一つひとつ整える。
外で戦が動いている時ほど、内が静かであることを伝える文は大事になる。真琴様にとって、それは何よりの安心になるはずだと、私は自分に言い聞かせていた。
そこへ、門の方から足音が走った。
駆け込むような乱れではない。
急いでいるが、声を抑えた足音。
知らせを持つ者の足だ。
私は筆を置いた。
「桜子」
「はい」
「門へ」
そう言いかけたところで、すでに桜子は動いていた。
最近のこの子は、私が命じるよりわずかに早く必要な方へ動くことがある。頼もしくもあり、少しだけ私に似てきたようで可笑しくもある。
ほどなく、使者が表の間へ通された。
安土からの使者だった。
旅塵はある。だが、以前戻ってきた負傷兵や疲れ切った伝令とは、顔つきが違う。
目に明るさがある。
それを見た瞬間、私は胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。
使者は膝をつき、深く頭を下げた。
「御方様。関東より、勝報にございます」
勝報。
その一言で、部屋の空気が動いた。
控えていた女中たちが、小さく息を呑む。
廊下の向こうにいた桃子が、思わず「まあ」と声を漏らしかけて、慌てて口を押さえた。
お江はどこから聞きつけたのか、襖の隙間から顔を出している。
お初も、少し遅れて現れた。顔には何も出さぬふりをしているが、その足の速さがもう隠せていない。
「申しなさい」
私は、出来るだけ落ち着いて言った。
使者は文を差し出した。
「黒坂様、諸勢の動きを読み切られ、敵方の連携を崩し、こちらの陣を乱さず押し返されたとのこと。安土にては、常陸様の采配見事との声、すでに高く」
私は文を受け取った。
紙は薄い。
けれど、今日の紙はいつもの文より重く感じた。
封を切ると、そこには戦況が簡潔に記されていた。
関東の諸家の動き。
真琴様の判断。
危うかった道が押さえられたこと。
敵方の足並みが乱れたこと。
そして、黒坂真琴の名が、さらに諸将の間で重くなったこと。
文字を追ううちに、食事の間の囲炉裏の火や、夏用の座布団や、湯殿の湯気が、すべて少し遠のいたような気がした。
真琴様は、勝ったのだ。
いや、正しくは、勝ちへ向かう大きな流れを作ったのだろう。
けれど大津城にいる私たちに届く言葉は、ただ一つだった。
勝報。
「……ご無事なのですね」
私は、まずそこを確かめた。
使者はすぐに頭を下げた。
「はい。お怪我はなしと」
その瞬間、部屋の空気がはっきりと緩んだ。
お江が廊下で「よかったぁ」と素直に声を漏らした。
桃子は今度こそ目を潤ませ、桜子は静かに頭を下げる。
梅子はすでに、台所へ何か祝いめいた膳を出すべきか考え始めている顔だった。
お初は、何も言わなかった。
ただ、襖の陰で腕を組んだまま、使者と文を交互に見ている。
顔は平静だ。
けれど、握った指先だけが白い。
「殿は」
私は文から目を上げた。
「食事は取られておりますか」
使者は、また一瞬だけ迷った。
勝報を持ってきた者は、たいてい明るいことを言いたがる。
それは悪気ではない。
城を喜ばせたいのだ。
だが、その一瞬の迷いを、私はもう見逃せなくなっていた。
「正直に」
私が言うと、使者は姿勢を正した。
「多くは、召し上がっておられぬようにございます。ただ、以前よりは少し」
以前よりは少し。
それは、十分に食べているという返事ではない。
「眠りは」
「短くはございますが……」
そこまで言って、使者は口を閉じた。
私は文を膝の上へ置いた。
勝った。
怪我はない。
名は上がった。
けれど、食べてはいない。
眠ってもいない。
その事実が、勝報の明るさの下から、冷たい水のように滲み出てきた。
「ご苦労でした」
私は使者へ言った。
「水と食事を。今日は城で休みなさい」
「いえ、すぐに戻りの――」
「休みなさい」
私は重ねた。
使者は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに頭を下げた。
「……承知いたしました」
その返事を聞いて、私はようやく文をたたんだ。
勝報は、城の中を早かった。
知らせを止めるつもりはなかった。
勝ちは勝ちとして、城中へ伝えるべきである。
ただし、浮かれすぎぬように、という一言は添えた。
それでも、空気は変わる。
女中たちの顔は明るくなり、門番の背筋は伸び、台所では梅子が少しだけ味のよい汁を考え始めた。
お江はもう、ほとんど走り出しそうな勢いで広間へ入ってきた。
「姉上様、勝ったんでしょ!」
「走ってはいけません」
「走ってない!」
「走る直前でした」
「でも、勝ったんでしょ!」
その喜び方があまりにも真っ直ぐで、私は少しだけ笑ってしまった。
「ええ。よい報せです」
「やった!」
お江は両手を上げかけ、母上様の御殿の方を見て、慌てて下ろした。
少しは成長している。
「マコ、すごいね」
「ええ」
「怪我してない?」
「怪我はないそうです」
「じゃあ、よかった!」
お江は本当に、それだけでよかったのだろう。
そして、私も本当はそう思いたかった。
怪我がない。
無事。
勝った。
それだけで今日は笑っていいはずなのに、胸のどこかが重かった。
お初が遅れて入ってきた。
「お江、騒ぎすぎ」
「だって勝ったんだよ」
「勝ったら騒いでいいわけじゃないでしょ」
「えー」
お江は不満そうだったが、お初の顔を見て少しだけ声を落とした。
「……お初姉様、嬉しくないの?」
「嬉しいわよ」
「じゃあ、なんでそんな顔?」
「こういう顔なの」
「違う。怒ってる時の顔」
お初は言い返そうとして、やめた。
私は文をお初へ渡した。
「読みますか」
「読む」
短い返事だった。
お初は文を受け取り、黙って目を通した。
読み終えてから、しばらく何も言わない。
「怪我はないって」
お江が横から言う。
「見ればわかる」
「でも、よかったよね」
「……よかった」
お初の声は小さかった。
それから、文の端を指で押さえたまま、ぽつりと言う。
「でも、これ、また寝てないやつでしょ」
その言い方があまりに的確で、私は何も返せなかった。
お江が困った顔をする。
「勝ったのに?」
「勝ったから、寝てないのよ」
「なんで?」
「勝つまで寝なかったんでしょ」
お初の声には、苛立ちと心配が混じっていた。
「怪我がなければいいってものじゃない」
その一言に、私の胸が痛んだ。
まさに、私が思っていたことだった。
夕方、母上様の御殿へ報告に行った。
お市は勝報を聞いて、静かに頷かれた。
「よい報せですね」
「はい」
「茶々」
「はい」
「喜んでよいのですよ」
私は、思わず顔を上げた。
まるで、胸の内を読まれたようだった。
「……喜んでおります」
「ええ。けれど、顔がそれだけではありません」
私は文を膝へ置いたまま、少し黙った。
「怪我はないそうです」
「ええ」
「ですが、食も眠りも足りておらぬ様子で」
「でしょうね」
母上様は、驚くほど穏やかにそう言われた。
「でしょうね、で済ませてよろしいのでしょうか」
「済ませるしかないこともあります」
その言葉は冷たくはなかった。
ただ、現実としてそこに置かれた。
「武功が上がる時、人はたいてい何かを削っています。眠り、食、気力、時には寿命まで。妻は、それを知っていても、その場では止められぬことがある」
「はい」
「だからこそ、勝ったと聞いた時、ただ笑えない。けれど、笑えぬからといって、勝ちを曇らせてもなりません」
私は、母上様の言葉を胸へ入れた。
勝報を喜ぶこと。
その裏を案じること。
どちらも本当で、どちらかだけには出来ない。
「今夜は、城中を少し明るくしてよいでしょう」
母上様が言われた。
「ただし、浮かれすぎぬように」
「はい」
「勝ちの報せを受け止めることも、留守居の務めです」
私は深く頭を下げた。
その夜、食事の間はいつもより少しだけ明るかった。
派手な祝い膳にはしなかった。
ただ、汁に少しよい出汁を使い、香の物を一品増やし、菓子を小さく添えた。
戦時の城にふさわしい、控えめな明るさだった。
お江はそれでも嬉しそうだった。
「今日はちょっと豪華」
「少しだけです」
「少しだけでも嬉しい」
桃子もこっそり頷いている。
桜子は表情を崩さないようにしているが、目元が少しやわらいでいた。
梅子は「皆さま少しは召し上がられるでしょう」と、どこかほっとした顔をしている。
お初は、最初こそ静かだった。
けれど、お江が何度も「勝ったね」と言ううちに、とうとう小さく言った。
「勝ったのはよかったわよ」
「でしょ?」
「でも、帰ってきたらまず寝かせるから」
お江が笑った。
「お初姉様、勝った話なのに寝る話ばっかり」
「大事でしょ」
「大事だけど」
「姉上様もそう思うでしょ」
急に振られて、私は少しだけ箸を止めた。
「ええ」
私は答えた。
「帰られたら、まず湯と食事と睡眠です」
「ほら」
お初が勝ち誇った顔をする。
「でも、その前に“おかえり”ね」
お江が言った。
お初は少しだけ黙り、それから「……それは、まあ」と小声で返した。
そのやり取りに、食事の間が少し笑った。
私はその笑いを聞きながら、ようやく、勝報を受け入れられた気がした。
笑っていい。
けれど、忘れない。
勝ちの裏に眠れぬ夜があり、食べ損ねた膳があり、疲れきった使者がいることを。
そして、それでも勝ったという事実が、この城の者たちへ力を与えることも。
夜更け、私は一人で真琴様の空いた席の前に座った。
青い座布団は、夏の支度としてお江が選んだものだ。
まだ誰も座っていない。
けれど今日、その席は少しだけ明るく見えた。
私は文をもう一度開いた。
勝報。
怪我なし。
武功大きく、名さらに上がる。
その文字を見て、今度はようやく小さく笑えた。
「おめでとうございます」
誰もいない席へ向けて、私は小さく呟いた。
そして、そのあとで続けた。
「でも、帰られたら、今度こそ眠っていただきます」
言ってから、自分で少しだけ笑ってしまった。
お初の言い方が移ったのかもしれない。
勝ちの報せは、確かに嬉しい。
けれど私は、勝ちの向こうにいる一人の人を忘れずにいたい。
黒坂真琴という名がどれほど大きくなっても、帰ってきた時には、疲れて、腹を空かせ、たぶんまた何でもない顔で「ただいま」と言う人なのだから。
私は文を丁寧に畳み、胸元へそっと押し当てた。
笑えぬ夜ではなかった。
けれど、ただ笑うだけの夜でもなかった。
それが、戦国武将の妻として受け取る勝報なのだと、私は静かな囲炉裏の火の前で思った




