茶々外伝・②③⓪話『関東の乱』編・第十話 夏の気配、帰れぬ人
季節は、人の都合など待ってくれない。
真琴様が東へ向かわれてからも、大津城の庭では春の花が散り、若葉が伸び、やがて風の中に少し湿った匂いが混じるようになった。
朝はまだ涼しい。けれど昼近くになると、障子を閉めきっている部屋には熱がこもり、女中たちの額にも汗がにじむ。
ついこのあいだまで、火鉢の炭をどれだけ残すか、湯殿の湯をどう温めるか、夜具を何枚にするかと気を配っていたのに、今は風の通し方や、食べ物の傷みやすさを考えねばならない。
城は、同じ場所に立っている。
けれど、中で暮らす者は、季節が変わるたびに別の城を預かっているようなものだ。
その日、私は朝から夏支度の帳面を見ていた。
蔵の米と味噌は、今のところ乱れはない。
塩は湿りに気をつけねばならない。
干し魚は、保存の仕方を少し変える必要がある。
井戸の水は地震後の濁りがようやく落ち着いてきたが、暑くなればまた別の心配が出る。
湯殿は冬ほど湯を張らずともよいが、汗を流す者が増える分、別の形で手間がかかる。
「御方様、こちらの簾は西の廊下へ回してよろしゅうございますか」
桜子が控えめに問う。
「ええ。午後になると、そちらの部屋が熱を持ちます」
「承りました」
「梅子、食事は少し軽くしましょう。魚も汁も、昼は重くしすぎぬように」
「はい。梅干しと香の物を少し多めに」
「よろしいです。桃子」
「はいです」
「寝所の布を入れ替えます。厚手のものは完全にしまわず、病人が出た時のために二組だけ残しなさい」
「はいです!」
桃子が元気よく返事をしたあと、少しだけこちらを見た。
「御方様」
「何です」
「殿の分も、薄手に替えておきますか」
私は筆を止めた。
ほんの小さな問いだった。
桃子に悪気がないことも分かっている。
真琴様がいつ戻られてもよいように、寝所を整えておきたいだけなのだろう。
けれど、その“殿の分”という言葉が、思っていたより深く胸へ落ちた。
真琴様の寝所は、今も整えてある。
不在だからといって畳んでしまうことはない。
けれど、そこにあの方はいない。
布を替え、枕を整え、風を通しても、主の体温だけがない。
「……替えておきなさい」
私は答えた。
「ただし、夜に冷えた時のため、羽織は近くへ」
「はい」
桃子はそれ以上、何も言わずに下がった。
私は、しばらく帳面を見つめたまま動けなかった。
夏支度をする。
それは当たり前のことだ。
城が生きている証でもある。
けれど季節が進むほど、真琴様だけがその季節の中にいないことが、はっきりしてくる。
梅を見せたいと思った。
若葉の庭を見てほしいと思った。
そして今は、夏の風が入る寝所へ戻ってきてほしいと思っている。
季節が変わるたびに、帰っていないことを数えてしまう。
それが、こんなにも堪えるものだとは知らなかった。
昼前、お江が廊下を駆けてきた。
駆けてきた、と言っても、私に見つかる直前で足を緩めた。
最近は少し学んだらしい。
「姉上様」
「走っていましたね」
「ちょっとだけ」
「少しだけでも走っていました」
「急ぎだったから」
「何がです」
お江は両手に何かを抱えていた。
白っぽい布と、薄い青の紐である。
「夏用の座布団、これでいい?」
私は少しだけ目を瞬いた。
「座布団?」
「うん。食事の間の。冬のやつ、暑そうだから」
見ると、お江が持っているのは、確かに夏向きの薄い布だった。
色も涼しげで、悪くない。
「誰が選んだのです」
「私」
「本当に?」
「桃子ちゃんにちょっと聞いた」
「でしょうね」
お江は口を尖らせた。
「でも、ほとんど私が決めたよ」
私は布を受け取り、指先で触れた。
軽い。
暑い日の食事の間にはよいだろう。
こういう小さなものを替えるだけで、部屋の空気は意外と変わる。
「よいと思います」
そう言うと、お江はぱっと顔を明るくした。
「ほんと?」
「ええ。ただし、全部を同じ色にするのではなく、母上様の席と客の席は少し落ち着かせましょう」
「じゃあ、真琴の席は?」
また、その名が来る。
私はほんの一拍だけ黙った。
お江は、自分が何を言ったか気づいたのか、少しだけ目を伏せる。
「……帰ってきたら座るでしょ」
「ええ」
私は布を返した。
「真琴様の席には、その青でよいでしょう」
「うん」
お江は頷いたが、いつものようにすぐ走っていくことはしなかった。
「姉上様」
「何です」
「夏になる前には帰ってくるかなって、思ってた」
その言葉は、何気ないようでいて、胸の奥にまっすぐ届いた。
私も思っていた。
いや、思おうとしていた。
春のうちには戻られるだろう。
梅が散る頃には。
若葉が濃くなる前には。
暑くなる前には。
そうやって、季節の節目ごとに勝手な目印を置いて、そのたびに少しずつ外れていく。
「戦は、こちらの思うようには動きません」
私は静かに答えた。
「うん」
「ですが、帰る場所を整えておくことは出来ます」
「それ、姉上様よく言う」
「よく言うほど、大事なのです」
お江はしばらく考えたあと、布を抱え直した。
「じゃあ、ちゃんと涼しくしとく」
「お願いします」
「帰ってきて暑いって言ったら、怒る?」
「怒りはしません」
「お初姉様は怒りそう」
「ええ」
私は少し笑った。
「きっと怒ります」
お江もそこでようやく笑った。
その笑顔を見て、私は少しだけ救われた。
お初は、午後になってもなかなか表へ出てこなかった。
姿が見えぬわけではない。
女中の支度に口を出し、湯殿の手拭いを見て、夏物の衣の仕分けも手伝っている。
けれど、話しかけると返事は短い。
昔のお初なら、夏支度の布や衣を見れば、もっと好き嫌いを言った。
「この色は暑苦しい」とか、「これはお江には似合わない」とか、「姉上様は落ち着かせすぎ」とか。
それが今日は少ない。
私は夕方近く、衣を仕分ける部屋へ行った。
お初は、夏用の小袖を畳んでいた。
手つきは丁寧だ。
丁寧すぎるほどだった。
「お初」
「何」
「その小袖、もう三度畳み直しています」
「……そう?」
「ええ」
お初は手元を見て、それから小さく息をついた。
「別に、気に入らなかっただけ」
「布がですか」
「畳み方が」
「そうですか」
私は隣へ座った。
お初はしばらく黙っていた。
私も黙っていた。
部屋の外では、お江が何かを落として桃子に謝っている声が聞こえる。
それに対して梅子が落ち着いた声で「走らないでくださいませ」と言っていた。
日常は戻っている。
たしかに戻っている。
けれど、そこに真琴様はいない。
「夏物、増えたね」
お初がぽつりと言った。
「ええ。大津の夏は湿りもありますから」
「真琴、暑いの嫌いそう」
「寒いのも嫌いです」
「それは知ってる」
お初の口元がほんの少しだけ動いた。
笑いかけたのだろう。
けれど、すぐに消えた。
「……いつまでなのかな」
私は、手元の布から目を上げた。
「何がです」
「こういうの」
お初は、畳んだ小袖の端を指で押さえたまま言った。
「夏支度して、文を待って、噂を聞いて、また支度して。帰ってきたらって言いながら、ずっといないの」
私はすぐには答えなかった。
答えを知らなかったからだ。
そして、知らぬまま慰めの言葉を置いても、お初には見抜かれる。
「わかりません」
私は正直に言った。
お初がちらりとこちらを見る。
「姉上様でも?」
「私でも」
「……そう」
お初は、意外なほど素直に受け取った。
「ただ」
私は続けた。
「分からぬからこそ、支度を続けます」
「またそれ」
「ええ。またです」
私は畳まれた小袖を一枚、手に取った。
「季節は進みます。こちらが待っていても、待っていなくても。ならば、進んだ季節の中で帰ってこられるようにしておくしかありません」
お初は黙っていた。
その沈黙は、怒りではなかった。
たぶん、疲れだった。
「姉上様」
「何です」
「私、たぶん、夏が来るのが嫌だったの」
私はお初を見た。
「真琴が帰ってこないまま夏になるのが嫌で。だから、夏物見るのも、なんか嫌だった」
お初は、言ってから少しだけ後悔したような顔をした。
けれど、もう取り消さなかった。
私は静かに頷いた。
「私も、少し似ています」
「姉上様も?」
「ええ」
私は、窓の外へ目をやった。
「梅が散るまでには、と思っておりました。若葉が濃くなる頃には、とも。今は、暑くなる前には、と考えていた自分に気づきます」
お初は、何も言わずに聞いていた。
「けれど、どれもこちらが勝手に置いた目印です」
「うん」
「真琴様が帰れぬのは、私たちを忘れたからではありません」
「……わかってる」
「ええ。分かっているから、余計に苦しいのでしょう」
お初の目が少し揺れた。
私は、それ以上は踏み込まなかった。
こういう時、言葉を重ねすぎると、せっかく出てきた本音がまた奥へ引っ込んでしまう。
代わりに、私は小袖を一枚広げた。
「これは、真琴様が戻られた時の寝所に置きましょう」
「それ、女物じゃない?」
「部屋の掛け布です」
「ああ」
お初は少しだけ拍子抜けした顔をした。
それから、別の布を手に取る。
「こっちの方が涼しそう」
「少し薄すぎます」
「暑いって言われるよりいいでしょ」
「夜に冷えることがあります」
「じゃあ、二枚重ねられるように置けばいい」
私は少しだけ笑った。
「よい案です」
お初は褒められて、また居心地悪そうに顔をそらした。
「別に」
「はいはい」
「お江みたいに言わないで」
そのやり取りで、ようやく部屋の空気が少し軽くなった。
夜、夏用の簾が食事の間に掛けられた。
火鉢はもう片づけてある。
囲炉裏の火も小さく、湯気よりも風を通す方が大事な季節になってきた。
お江が選んだ青の座布団は、真琴様の空いた席に置かれている。
まだ誰も座っていないその青が、やけに目に鮮やかだった。
「変かな」
お江が不安そうに聞いた。
「いいえ」
私は答えた。
「涼しげです」
「よかった」
お初も、少し離れたところからそれを見ていた。
「……悪くないんじゃない」
お江はぱっと振り返る。
「お初姉様が褒めた!」
「褒めてない。悪くないって言っただけ」
「それ褒めてる!」
「違う」
いつものやり取りが戻る。
それだけで、私は少しだけ息がしやすくなった。
母上様も座に来られ、青の座布団を一目見て、静かに言われた。
「よい色ですね」
お江が得意げになる。
お初は少し不満げに「調子に乗る」と呟く。
桜子たちは笑いをこらえる。
その食事の間には、真琴様はいない。
けれど、真琴様の帰る席はある。
それだけでも、今日の私には大事なことだった。
夏の気配は、もう大津城に入り込んでいる。
季節は進む。
私たちの寂しさなど知らぬ顔で、風も、光も、食卓も変わっていく。
それでも、変わる季節の中で帰る場所を整え続けることは出来る。
私は、真琴様の空いた席を見つめながら思った。
帰れぬ人を責めるのではなく、帰れる場所をなくさないこと。
それが、待つ側の戦なのだ。




