茶々外伝・②②⑨話『関東の乱』編・第九話 母の言葉、妻の怖れ
茶会が終わったあとの大津城は、いつもより静かだった。
人が少ないわけではない。
桜子たちは座敷を片づけ、梅子は残った菓子と茶器の数を改め、桃子は使った布や膳を奥へ運んでいる。お江はお初の「別に」をまだ面白がって真似し、お初は「しつこい」と言いながら本気で怒るほどではない顔をしていた。
けれど、その賑やかさの奥に、私だけが少し遅れて疲れを感じていた。
茶会とは、不思議なものだ。
座って茶を出し、花を見せ、笑みを浮かべ、言葉を選ぶだけ。
それなのに、終わったあとは、半日歩き回った時よりも体の奥が重くなる。
きっと、気を張っていたのだろう。
奥方衆の視線。
言葉の裏。
真琴様の不在をどう見られるか。
黒坂家が乱れていないと、どこまで伝えられるか。
私は茶碗を一つ置くにも、返事を一つ返すにも、心の中で何度も針の穴を通すような思いをしていた。
それでも、茶会は悪くなかった。
帰っていく奥方衆の顔には、大津城を軽く見る色はなかった。
少なくとも、殿不在で奥が乱れているとは思われなかったはずだ。
お初も、控えの間からよく見ていた。
お江の明るさも、今日は妙に役に立った。
なのに、ほっとした瞬間、胸の奥から別のものが出てきた。
真琴様は今、どこにいるのだろう。
そう思っただけで、茶会の達成感はあっさり薄れてしまった。
外では、真琴様の武功の噂がまた広がっている。
鬼神の如し。
病み上がりとは思えぬ。
陣を乱さず、人の腹を読んで先を打つ。
奥方衆も、その噂を当然知っていた。
茶会の中でも、言葉の端々にそれが見えた。
私は、そのたびに笑って答えた。
夫の名が上がることは、家にとってありがたいことです。
あの方は必要な場所へ立つ方です。
大津は大津で、帰る場所を整えております。
そう言えた。
言えたのに、今になって、胸が少し苦しい。
誇らしい。
それは本当だ。
けれど、怖い。
名が上がるほど、真琴様は次の戦へ、次の評定へ、次の危うい場所へ押し出されていく。
人があの方を必要とするほど、私の手の届かぬ場所へ行ってしまう。
そのことが、どうしようもなく怖かった。
夕方、私は母上様の御殿へ向かった。
茶会の報告をするという名目だった。
実際、それも必要ではある。
誰が何を言い、誰がどの反応をし、どの家の奥方がどこを見ていたか。母上様へ伝えておくべきことはいくつもあった。
けれど、私が本当に求めていたのは、たぶん報告ではなかった。
御殿へ入ると、母上様は庭を見ておられた。
春の夕暮れの光は、障子を通ると少し金色になる。
母上様の横顔は、その光の中でもほとんど揺れない。
いつ見ても、不思議な方だと思う。
地震の夜も、真琴様が倒れた夜も、今日の茶会の前も、この方は大きく崩れなかった。
私は一礼した。
「母上様」
「茶々」
母上様は振り返り、すぐに座を示された。
「茶会は、よく務めましたね」
「ありがとうございます」
「奥方衆の顔は」
「探りはございました。ですが、帰り際には、大津城は落ち着いていると受け取られたように思います」
「ならば、十分です」
母上様はそう言って、私の顔を見た。
「ですが、そなたの顔は十分ではありませんね」
私は返事を失った。
母上様の前では、隠したつもりのものも、たいてい隠れない。
「……疲れただけにございます」
「それだけではありません」
静かな声だった。
責める響きはない。
だからこそ、逃げられない。
私は膝の上で手を重ねた。
「母上様」
「何です」
「夫の名が上がることは、喜ぶべきことなのでしょうか」
問いを口にした瞬間、自分でも少し幼いと思った。
喜ぶべきに決まっている。
戦国の世で、夫が武功を上げ、主君から重んじられ、諸家に名を知られる。家にとって、これ以上の誇りは少ない。
そんなことは、分かっている。
それでも、問わずにはいられなかった。
母上様は、すぐには答えられなかった。
少しだけ庭へ視線を戻し、散り残った梅の枝を見ておられる。
やがて、静かに言われた。
「喜ぶべきことです」
私は目を伏せた。
「はい」
「そして、怖れるべきことでもあります」
私は顔を上げた。
母上様は、こちらを見ておられた。
「夫の名が上がるということは、その夫が人より前へ出るということです。前へ出れば、敵の目にも味方の期待にも晒されます。武功は家を大きくしますが、同じだけ夫の命を遠くへ運びます」
私は、胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
「では、私は……」
「喜びなさい」
母上様は、はっきりと言われた。
「そして、怖れなさい」
その言葉は、不思議なほどすとんと胸へ落ちた。
「どちらかだけを選ぼうとするから苦しくなるのです」
「どちらかだけ……」
「ええ。誇らしいと思うなら、それは正しい。怖いと思うなら、それも正しい。武家の妻は、いつもその二つを同じ器に入れて持つのです」
私は、しばらく何も言えなかった。
同じ器に入れて持つ。
今日の茶会で、私は誇らしい顔をしていた。
奥方衆へ、真琴様の働きを恥じぬ妻として答えた。
けれどその裏では、怖いと感じる自分を、どこか情けないもののように押し込めていたのかもしれない。
怖いと思うことが、夫の武功を曇らせるようで。
不安がることが、御方様として弱いことのようで。
けれど母上様は、怖れてよいと言った。
「母上様は」
私は、気づけばそう問うていた。
「父上のことで、そのように思われたことがあるのですか」
口にしてから、少し踏み込みすぎたかと思った。
浅井長政。
私の父。
母上様の夫。
もう遠い過去のようでいて、決して遠くならない名。
母上様は、怒らなかった。
ただ、ほんの少しだけ目を細められた。
「あります」
短い答えだった。
「幾度も」
私は息を呑んだ。
「武家の男は、自分の名と家の名を背負って外へ出ます。妻は、それを誇りに思うよう育てられます。ですが、誇りだけで夜を越せるわけではありません」
母上様の声は静かだった。
けれど、その静けさの奥に、長い年月の重みがあった。
「外で名が上がるほど、帰らぬかもしれぬ夜も増える。人から褒められるほど、こちらはその人がどれほど削られたかを考える。皆が“立派な殿”と言う時、妻だけは“無理をしていないか”と思うものです」
私は唇を結んだ。
まさに、私が今感じていることだった。
城下で真琴様の武功が噂になる。
奥方衆が褒める。
安土からの文に、その働きが記される。
私はそれを誇らしく思う。
だが、そのたびに、食事は取っておられるのか、眠っておられるのか、熱は戻っていないのかと、そんなことばかり考えてしまう。
それは、情けないことではなかったのか。
「茶々」
「はい」
「夫の武功を喜べる妻でありなさい」
「はい」
「そして、その夫が帰った時に、誰より早く疲れを見抜ける妻でありなさい」
私は、深く頭を下げた。
その二つは、矛盾していないのだ。
誇ることと、案じること。
名を喜ぶことと、体を思うこと。
どちらも妻の役目なのだ。
母上様の御殿を出ると、廊下の向こうにお初がいた。
明らかに、立ち聞きをしていたわけではない。
ただ、来るかどうか迷っていたのだろう。
私と目が合うと、少し気まずそうに視線をずらした。
「お初」
「……何」
「母上様に用ですか」
「別に」
その“別に”は、もうほとんど合図のようなものだった。
言いたいことがある時ほど、この子はそれを使う。
「では、少し歩きましょう」
「なんで」
「私が歩きたいからです」
そう言うと、お初は渋々ついてきた。
夕暮れの廊下は、昼とは違う冷え方をしている。
障子の向こうでは、庭の草が雨上がりの匂いを残し、遠くからお江の笑い声が微かに聞こえた。
あの子はたぶん、桃子か誰かを巻き込んで、また妙なことをしているのだろう。
お初はしばらく黙っていた。
私は先に口を開かないことにした。
この妹は、急かすと逃げる。
けれど、黙って隣を歩けば、ふいに本音を落とすことがある。
案の定、庭へ面した曲がり角で、お初がぽつりと言った。
「……みんな、真琴のこと褒めるね」
「ええ」
「すごい殿だって」
「はい」
「強いって」
「はい」
「怖くないのかな」
私は足を止めた。
お初も、少し遅れて止まる。
その横顔は、怒っているようにも、拗ねているようにも、泣きそうにも見えた。
「誰がです」
「みんな」
「褒める人たちが?」
「そう」
お初は、庭の方を見たまま言った。
「すごい、すごいって言うけど、そのぶん真琴が無茶するって思わないのかな。強いって言うけど、強い人は疲れないわけじゃないでしょ」
私は何も言わなかった。
お初は続ける。
「鬼神みたいとか、そういうの、なんか嫌」
「嫌ですか」
「嫌」
はっきりした声だった。
「真琴は鬼神じゃない。熱出すし、倒れるし、雑炊四口半で揉めるし、寒いと熊着るし」
私は思わず笑ってしまいそうになった。
けれど、お初は真剣だった。
「そういう人なのに、みんな勝手に強そうな言葉で遠くへやる」
その一言で、私は胸の奥を突かれた気がした。
勝手に強そうな言葉で遠くへやる。
たしかに、そうかもしれない。
鬼神。
名将。
戦国武将。
そう呼べば呼ぶほど、その人が食事を抜けば弱り、眠らねば倒れ、寒ければ震える一人の人間であることを、周りは忘れやすくなる。
そして、お初はそれが嫌なのだ。
「お初」
「何」
「あなたは、真琴様を遠くへやりたくないのですね」
お初は、すぐに言い返そうとして、出来なかった。
しばらく黙り、それから小さく言った。
「……姉上様は、いいの」
「よくはありません」
私は正直に答えた。
「ですが、遠くへ行かれることを止めることも出来ません」
「だから嫌なのよ」
「ええ」
私は静かに頷いた。
「私も、嫌です」
お初がこちらを見た。
少し驚いた顔だった。
私は続けた。
「誇らしいのです。皆が真琴様を褒めることも、国があの方を必要とすることも。けれど、そのたびに怖くもなります。遠くへ行ってしまうようで」
「……姉上様も?」
「はい」
私はお初の目を見た。
「私もです」
お初は何も言わなかった。
けれど、肩の力が少しだけ抜けた。
たぶん、この妹は一人で怒っているつもりだったのだろう。
自分だけが、武功の噂を素直に喜べないのだと。
自分だけが、真琴様を“強い人”ではなく、“倒れる人”として見てしまうのだと。
違う。
私も同じだ。
そのことが、少しだけお初を楽にしたのかもしれない。
「でも」
私は少しだけ声を改めた。
「だからこそ、私たちはここを守らねばなりません」
「またそれ」
「またです」
私は小さく笑った。
「あの方が外でどんな名を得ようと、ここへ戻ればただの真琴様に戻れるように」
お初は黙った。
「熱を出したことも、熊を着たことも、雑炊四口半で揉めたことも、忘れぬ城にしておかねばなりません」
そこでようやく、お初の口元が少しだけゆるんだ。
「それ、本人が聞いたら嫌がりそう」
「嫌がられても構いません」
「姉上様、最近強いね」
「あなたも強くなりました」
「私は別に」
「また“別に”ですか」
お初は、今度は少しだけ笑った。
夜、食事の間へ戻ると、お江が本当に妙な遊びをしていた。
木切れをいくつか並べ、それを兵に見立てている。
桃子が相手をさせられているらしく、困った顔で木切れを一つ持っていた。
「こっちがマコ軍」
「その呼び方はやめなさい」
私が言うと、お江は振り返った。
「あ、姉上様。じゃあ黒坂軍」
「それならよろしいです」
「で、こっちが悪いやつ」
お初がすかさず言う。
「雑」
「だって名前わかんないもん」
「関東の家の名前、さっき聞いたでしょ」
「いっぱいありすぎて忘れた」
私は、思わず笑ってしまった。
お江の戦は、まだ木切れの上にある。
それでいいのだと思う。
この子まで、地図の上の家名と人の思惑を全部背負う必要はない。
お江にはお江の役目がある。
私は囲炉裏の前へ座った。
火は今日も静かに燃えている。
母上様の言葉が、まだ胸の中に残っていた。
夫の武功を喜べる妻でありなさい。
そして、その夫が帰った時に、誰より早く疲れを見抜ける妻でありなさい。
私は、その言葉を何度も心の中で繰り返した。
喜びと怖れを、同じ器に入れて持つ。
それが武家の妻なら、私はその持ち方を覚えねばならない。
そして、真琴様がどれほど戦国武将として名を上げても、ここへ帰れば人として息をつけるようにしておく。
その場所を守ることが、今の私の役目だ。
私は火を見つめながら、静かに思った。
鬼神でも、名将でも、戦国武将でもない。
帰ってきた時、あの方をまず“お帰りなさいませ”と迎えられる場所。
それを守るためなら、私もこの大津城で戦える。




