茶々外伝・②③③話『関東の乱』編・第十三話 帰る報せ
お江の手紙大作戦は、思っていたより城の空気を軽くした。
もちろん、戦が終わったわけではない。
真琴様が今どこで、どのように陣を動かし、誰と向き合っておられるのか、私たちには届く文と噂でしか分からない。
それでも、手紙を書くという行いは、不思議なものだった。
ただ待つだけではなく、こちらから言葉を送る。
それだけで、人の心は少し前へ出る。
お江は「ちゃんと寝てね」「お土産はいらないから帰ってきてね」「帰ってきたら梅じゃなくて、もう桜かも」と、思いつくままに書いていた。
お初は、あれほど嫌がっていたくせに、結局いちばん長く机に向かっていた。
そして私は、最後まで筆を置けずにいた。
言葉は、いくらでも浮かぶ。
けれど、どれも重すぎる気がした。
無事を祈っております、と書けば、それは当然すぎる。
お体を大切に、と書けば、あの方はきっと笑って流す。
早く帰ってきてください、と書けば、私の本音に近すぎて、筆が止まる。
結局、私はこう書いた。
――大津城は変わらず回っております。
母上様も、お江も、お初も、それぞれの役を果たしております。
御帰城の折には、湯と温かい膳を整えてお待ちしております。
それだけだった。
お江に見せると、「姉上様、かたい」と言われた。
お初には、「姉上様らしいけど、もっと言いたいことあるでしょ」と言われた。
どちらも正しい。
でも、私にはそのくらいでなければ書けなかった。
その手紙を送り出した翌日、大津城には朝から妙なそわそわした空気があった。
お江は「そろそろ返事来るかな」と何度も言った。
お初は「そんなにすぐ来るわけないでしょ」と言いながら、廊下を通るたびに門の方へ目をやっていた。
私も、人のことは言えない。
文使いの足音に、何度も耳が向いた。
けれど、その日届いたのは返事ではなかった。
午の刻を少し過ぎた頃、表門の方からいつもより慌ただしい足音が響いた。
私は表の間で桜子と蔵の帳面を見ていたが、その足音だけで、手を止めた。
「御方様」
桜子が顔を上げる。
「ええ」
私は小さく頷いた。
良い報せか、悪い報せか。
足音だけでは分からない。
だが、ただの定時の文ではないことだけは分かった。
やがて、若い小姓が襖の前へ膝をついた。
「御方様。安土より急ぎの御文にございます」
「通しなさい」
声は落ち着いていた。
だが、膝の上に置いた手は、ほんの少しだけ強く握られていた。
文使いは泥にまみれていた。
ひどく疲れているが、顔には恐怖ではなく、どこか明るい緊張があった。
それを見た瞬間、私は胸の奥で何かが跳ねるのを感じた。
悪い報せではない。
たぶん。
「申し上げます」
文使いは深く頭を下げた。
「黒坂様、関東鎮撫の大筋を終えられ、安土へ戻られる由。ほどなく大津へ御帰城とのことにございます」
その言葉が、部屋の中へ落ちた。
私は一瞬、意味が分からなかった。
ほどなく。
大津へ。
御帰城。
それらの言葉が、ばらばらの珠のように私の中へ落ちて、少し遅れて一つの形になった。
帰ってくる。
真琴様が、帰ってくる。
「……いつ」
私の声は、自分でも驚くほど小さかった。
「早ければ、二日三日のうちに」
文使いが答える。
「道中の様子次第ではございますが、すでに安土へ戻る支度に入られたとのこと」
私はそこで、ようやく息をした。
今まで、ずっと息を止めていたような気がした。
「ご苦労でした。まず湯と食事を」
「はっ」
文使いが下がると、桜子が私を見た。
その顔には、抑えきれない笑みがあった。
けれど、私が何も言わぬので、桜子も声を出さなかった。
私は、ゆっくりと文を開いた。
短い。
やはり短い文だった。
――大筋は片づいた。
安土に戻り次第、大津へ帰る。
皆の手紙、読んだ。
お江には、寝る努力はしていると伝えて。
お初には、倒れない努力もしていると伝えて。
茶々には、湯と膳を楽しみにしている、と。
それだけ。
それだけなのに、私はしばらくその文から目を離せなかった。
湯と膳を楽しみにしている。
私が書いた言葉を、ちゃんと受け取ってくださったのだ。
私は文を膝の上へ置き、静かに息を吐いた。
その瞬間、自分の体から、今まで張りつめていたものが少しずつ抜けていくのが分かった。
帰ってくる。
その事実だけで、城の空気は変わる。
真っ先に駆け込んできたのは、お江だった。
「姉上様!」
襖を開ける勢いが強すぎて、桜子が思わず目を丸くする。
「真琴、帰ってくるって本当!?」
「お江。廊下を走らない」
「走ってない!」
「走っていました」
「ちょっとだけ!」
私は、そのやり取りに思わず笑ってしまった。
「本当です。早ければ二日三日のうちに」
「やった!」
お江はその場で跳ねた。
「じゃあ、何する? お餅? お風呂? 飾り? あ、手紙読んだかな? 読んだよね? 返事は?」
「落ち着きなさい」
「無理!」
そこへ、お初が入ってきた。
歩いている。
走ってはいない。
だが、顔を見れば、知らせを聞いて急いで来たことは明らかだった。
「……帰ってくるの」
「ええ」
私は文を差し出した。
お初はそれを受け取り、すばやく目を走らせる。
そして、途中で眉を寄せた。
「何よ、倒れない努力って」
「あなたへの返事でしょう」
「そんなの、返事になってない」
そう言いながら、お初の口元はわずかに緩んでいた。
本人は気づいていないかもしれない。
けれど、私は見た。
安心した顔だった。
「お初姉様、嬉しいんでしょ」
「違う」
「嬉しいよね」
「違うって言ってるでしょ」
「でも顔が嬉しいよ」
「お江!」
いつものやり取りが戻ってくる。
それだけで、食事の間の火が一段明るくなったように思えた。
私は文を受け取り直し、丁寧に畳んだ。
「浮かれるのはよいですが、支度があります」
「はい!」
お江だけが元気よく返事をした。
お初は、少しだけ気まずそうに顔をそらす。
「……何をすればいいの」
その声が、思ったより柔らかかった。
私は立ち上がった。
「まず、母上様へ報告します。そのあと、湯殿、食事の間、寝所、門まわりを整えます」
「全部じゃない」
「帰る人を迎えるのですから、全部です」
お江が嬉しそうに拳を握った。
「よし、私、飾り!」
「飾りすぎてはいけません」
「ちょっとだけ!」
「あなたのちょっとは信用なりません」
お初が横から言う。
「じゃあ、お初姉様が見張ってよ」
「なんで私が」
「だって、止めるの得意じゃん」
お初は言い返そうとして、結局やめた。
「……分かったわよ」
その返事に、私は少しだけ目を細めた。
城が動き始める。
帰ってくる人を迎えるために。
母上様は、私の報告を静かに聞いておられた。
「そうですか」
それだけだった。
けれど、その一言に深い安堵があった。
「早ければ二日三日と」
「ええ」
お市は、しばらく文を見つめてから、静かに畳まれた。
「では、迎える支度を整えねばなりませんね」
「はい」
「茶々」
「はい」
「浮き立つ城を、浮つかせぬように」
私は頭を下げた。
「心得ております」
帰ってくる。
その報せは、喜びである。
だが、喜びは時に城を乱す。
女中たちは浮き立つ。
家臣たちは張り切りすぎる。
城下へ噂が流れれば、人々も門の近くへ集まるかもしれない。
だからこそ、迎える支度には、喜びと同じだけの節度がいる。
母上様はそれを、たった一言で教えてくださったのだ。
その日の大津城は、夕方まで妙に明るかった。
誰も大声で騒いでいるわけではない。
けれど、足音が軽い。
台所から聞こえる声も、湯殿の桶を運ぶ音も、廊下を掃く音も、どこか弾んでいる。
私はそれを叱りすぎないようにした。
喜びは、抑え込みすぎればかえって不自然になる。
ただし、形だけは整える。
「桜子、湯殿の桶は新しいものを」
「はい」
「梅子、食事は重くしすぎないこと。戦帰りの方に、いきなり濃いものを出してはなりません」
「承知しております」
「桃子、寝所の香は控えめに。甘すぎるものは不要です」
「は、はいです」
「お江」
「はい!」
「飾りは、食事の間と門の内側だけ」
「えー」
「だけ」
「……はい」
「お初」
「何」
「あなたは、お江の見張りと、湯殿の火加減を」
「結局、見張りなのね」
「重要な役です」
「物は言いよう」
そう言いながらも、お初は動いた。
私はその背を見送りながら、ふっと胸が温かくなるのを感じた。
帰る報せが来た途端、皆が“迎える側”になっている。
それは、真琴様がこの城にどれほど根づいているかの証でもあった。
夜、私は一人で食事の間に残った。
囲炉裏の火は穏やかに燃えている。
真琴様の席は、まだ空いている。
けれど、昨日までの空き方とは違った。
昨日までは、不在の席だった。
今日は、帰りを待つ席だ。
同じ空席なのに、こんなにも見え方が変わるものなのかと思う。
私は畳んだ文を膝に置いた。
湯と膳を楽しみにしている。
その一文だけで、私はどれほど救われただろう。
真琴様は、戦国武将として名を上げて帰ってくる。
関東で働き、諸家の思惑の中をくぐり抜け、きっと多くのものを背負って戻る。
けれど、この城に戻った時、私はまずその方を“家へ帰ってきた人”として迎えたい。
戦の話を聞く前に、湯へ。
武功の話をする前に、温かい膳を。
人々が称える前に、まずこの囲炉裏の前で息をつけるように。
それが、私の役目だ。
私は火を見つめながら、静かに思った。
帰ってくる。
ただそれだけのことが、こんなにも城を明るくする。
明日からは、迎える支度でまた忙しくなるだろう。
お江は飾りすぎるだろうし、お初は文句を言いながら誰より細かく動くだろう。
桜子たちは緊張し、母上様は静かに全体を見てくださる。
そして私は、そのすべてを整える。
真琴様。
大津城は、あなたを迎える支度を始めました。
どうか、無事に。
そして今度こそ、ちゃんと帰ってきてくださいませ。




