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茶々外伝・②②⑦話『関東の乱』編・第七話 城に戻るのは、勝報だけではない

 戦場から戻ってくるものは、勝ちの報せだけではなかった。


 それを、私はその日の昼過ぎに思い知った。


 春の雨が上がったばかりで、大津城の石畳にはまだ薄く水が残っていた。空は明るいのに、雲の端だけが重く、湖から渡る風には濡れた土と木の匂いが混じっている。地震のあとに直した塀の一部は、雨を吸って色が少し濃くなり、まだこの城が完全に元通りになったわけではないことを、見るたびに私へ思い出させた。


 私は表の間で、安土へ送る文の控えを見ていた。


 大津城は乱れなく回っている。

 それを真琴様へ伝えるための文だった。

 蔵、水、湯殿、城下の様子、母上様と妹たちのこと。

 できるだけ短く、けれど足りなくならぬように。


 そう考えながら筆を置いた時、門の方が少し騒がしくなった。


 私は顔を上げた。


 城の中で起こる騒ぎには、いくつか種類がある。

 笑い声から生まれる騒ぎ。

 物を落とした時の騒ぎ。

 噂が先走る時の騒ぎ。

 そして、誰かが傷を負って帰ってきた時の騒ぎ。


 今のは最後のものだった。


「桜子」


「はい」


「門へ。いえ、私も行きます」


 立ち上がると、桜子が一瞬だけ何か言いかけた。

 止めたいのだろう。

 だが、私が行かねばならぬことを、この子も分かっていた。


「梅子、薬箱を。桃子、湯殿ではなく、まず清水と布を。湯を使うかどうかはこちらで見ます」


「はい!」


 指図を出しながら廊下を進む。

 途中でお江が飛び出してきた。


「姉上様、何?」


「怪我人のようです」


 そう答えた途端、お江の顔が強張った。


「マコ?」


「違います」


 私はすぐに言った。


 そう言ってから、しまったと思った。

 私自身が最初にそれを考えたと、お江へ知られてしまった気がしたからだ。


 けれど、お江は何も言わなかった。

 ただ、唇をぎゅっと結んだ。


 門前には、すでに数人の兵が集まっていた。


 担ぎ込まれてきたのは、前線から戻った若い足軽二人と、使者一人だった。

 一人は肩に布を巻かれ、血がにじんでいる。

 もう一人は足を引きずっていた。

 使者は大きな怪我こそないようだが、顔が土気色で、目だけが妙にぎらついている。長い道を休まず戻された者の顔だった。


「御方様」


 門番が頭を下げる。


「前線より、安土経由で戻られた者にございます」


「中へ」


 私は即座に言った。


「表で立たせておくものではありません。肩の者は座敷へ。足の者は畳を汚して構いません、支えなさい。使者にはまず水を」


 兵たちが動く。

 動きに迷いがある。

 それを見て、私は声を少し強くした。


「急ぐのと慌てるのは違います。落とさず運びなさい」


「はっ!」


 その返事で、ようやく動きが整った。


 怪我人を見た瞬間、私は自分の胸の内が冷えるのを感じた。

 血の匂いは、戦場へ行かずとも届く。

 それは湖の風とも、湯殿の湯気とも、台所の味噌とも違う匂いだった。


 戦は遠い。

 そう思っていた。

 けれどこうして人の体についた血と疲れが城へ戻ってくると、遠いなどとは言っていられなくなる。


 座敷へ運ばせると、梅子がすぐに傷を見た。


 肩の傷は深いが、命へすぐ届くものではない。

 足を痛めた兵も、骨が大きく折れているわけではなさそうだった。

 ただ、二人ともひどく疲れている。

 怪我そのものより、そこへ至るまでの道中で体力を削られていた。


「水を少しずつ」


 私は桃子へ言った。


「一気に飲ませてはなりません」


「はいです」


「梅子、血止めを先に。そのあと傷口を洗います。湯はぬるめ。熱すぎると痛みが立ちます」


「承りました」


 お江は座敷の入口で立ち止まっていた。

 いつものように飛び込んでいかない。

 目は怪我人から離せないのに、足が動かないようだった。


「お江」


「……うん」


「怖いなら、母上様のところへ」


 そう言うと、お江は首を振った。


「怖いけど、いる」


 小さな声だった。

 けれど、逃げないという意思はあった。


「では、そこにいなさい。声を大きくしないこと。笑わせようともしなくてよいです」


「……わかった」


 お江は素直に頷いた。


 ほどなく、お初も来た。


 怪我人の姿を見るなり、顔つきが変わる。

 この妹は、怖がるより先に怒ったような顔になる。

 それが自分を保つための癖なのだと、今の私はもう知っていた。


「誰」


「前線から戻った足軽と、使者です」


「真琴は」


「ここにはおりません」


「分かってる」


 返事が早い。

 やはり、分かっていて問うているのだ。


 お初は一歩近づき、肩を負傷した若い足軽を見下ろした。


「痛い?」


 いきなりそう聞いた。


 足軽は驚いたように目を上げ、すぐに恐縮した。


「い、いえ、この程度は」


「痛いなら痛いって言いなさい」


 お初の声は少しきつい。

 だが、妙に実用的だった。


「痛くないふりしたら手当てが遅れるでしょ」


 足軽は戸惑いながら、やがて小さく言った。


「……痛みます」


「最初からそう言いなさい」


 お初はそう言って、私の方を見た。


「布、もっと要る」


「桃子」


「はいです!」


 私は思わず、ほんの少しだけ笑いそうになった。

 お初らしい。

 やさしい言葉は苦手なのに、必要なことはちゃんと相手へ言わせる。


 それは看病の夜にも見た姿だった。


 使者は、水を少し飲むと、ようやく息が整ってきた。


 私は座敷の端に席を作らせ、そこへ座らせた。


「まずは息を整えなさい」


「いえ、御方様、先に報を」


「息が乱れたままでは、言葉も乱れます」


 私がそう言うと、使者はぐっと口を結んだ。

 それから、深く一度息を吐いた。


「……失礼いたしました」


「よろしい」


 私は頷いた。


「申して」


 使者は、懐から文を出した。

 血も土もつかぬよう、油紙で包まれている。

 真琴様の直筆ではない。

 安土の控え役がまとめた戦況の報せだった。


 そこには、関東での動きがまた一段進んだことが記されていた。

 どの家の兵が動いたか。

 どの城が緊張しているか。

 誰が誰へ使者を送り、どの道が危ういか。

 そして、真琴様がその整理のために、また別の陣へ向かわれたこと。


 私はその一文を見た時、思わず指先へ力が入った。


 また動かれた。

 また、別の場所へ。


 前に進む人だと分かっている。

 けれど、こうして文で知るたび、胸が追いつかない。


「殿は」


 私は使者へ問うた。


「お元気ですか」


 使者は一瞬だけ返事に迷った。


 その迷いを、私は見逃さなかった。


「正直に」


 声が少し低くなった。


「……お疲れは、ございます」


 使者はそう言った。


「ですが、采配に乱れはなく、周りの者よりも先を見ておられます」


 私は目を伏せた。


 それは、元気だという返事ではない。

 ただ、倒れてはいないという返事だ。


「食事は」


「……時に、軽く」


「眠りは」


 使者は答えなかった。


 答えないことが答えだった。


 お初が、横で小さく息を吸う音がした。


 私は文をたたみ、使者へ向き直った。


「あなたは今夜、ここで休みなさい」


「しかし、戻りの――」


「戻る前に倒れられては、伝えるものも伝わりません」


「御方様」


「これは命です」


 私がそう言うと、使者はようやく頭を下げた。


「……承知いたしました」


 命じたあとで、私は自分の声が少し震えていたことに気づいた。

 怒りなのか、不安なのか、どちらともつかない。


 真琴様は食べていない。

 眠っていない。

 それなのに動いている。


 文の短さだけではなかった。

 噂だけでもなかった。

 今こうして、使者の沈黙がそれを裏づけてしまった。


 負傷した兵たちの手当てが終わるまで、私は座敷を離れなかった。


 梅子の手際はよく、桜子は湯と布を切らさず、桃子も今日は物を落とさなかった。

 お江は座敷の隅で、怪我人が痛みに顔をしかめるたびに、自分まで顔をしかめている。

 お初はずっと、肩の傷を負った若い兵のそばにいた。


 その若い兵は、まだ十代の半ばほどに見えた。


 たぶん、私たちとそう変わらぬ年だ。

 それなのに、肩には刀傷がある。

 それを見て、私はようやく、戦というものが“遠くの大きな出来事”ではなく、一人一人の体に刻まれて帰ってくるものなのだと、はっきり理解した。


「名は」


 私はその兵へ問うた。


「……又八にございます」


「又八」


「はい」


「よく戻りました」


 その一言だけで、又八の顔が少し歪んだ。


 泣くまいとしている顔だった。

 けれど、まだ若い。

 痛みも、疲れも、怖さも、きっと体の中に残っている。


「今夜はここで休みなさい」


「ですが、私などが城内で」


「戻った者を休ませるのも、城の役目です」


 私はそう言った。


「戦は、前線だけでは終わりません」


 自分で口にして、その言葉が胸へ落ちた。


 そうだ。

 戦は、前線だけでは終わらない。


 帰ってきた者の傷。

 伝令の疲れ。

 それを受け取る城の寝所。

 傷を洗う湯。

 粥を作る台所。

 痛みに眠れぬ者のそばに座る誰か。


 そこまで含めて、戦なのだ。


 又八は、震えるように頭を下げた。


「ありがたき……」


「礼は、治ってからでよろしい」


 お初が横から言った。


「今は寝なさい。痛いなら痛いって言う。熱が出たら隠さない」


 又八は、少しだけ驚いてから「はい」と答えた。

 私はそのやり取りを見て、少しだけ胸が温かくなった。


 お初は、お初なりに人を支えている。


 夜、私は母上様へ報告に上がった。


 お市は、静かに最後まで聞いてくださった。

 負傷兵の数。

 使者の疲れ。

 真琴様が眠っていないらしいこと。

 関東の情勢がまた一段動いたこと。


 すべて聞いたあと、母上様は言われた。


「勝報でなくとも、城は受けねばなりません」


「はい」


「むしろ、こういう報せの時こそ、奥の真価が出ます」


 私は黙って頷いた。


「戦に勝ったと聞けば、人は喜びます。ですが、傷ついて戻った者、疲れ果てた使者、眠れぬ主。そのすべてを受け止める場所がなければ、勝ちも長くは続きません」


 その言葉は、今日一日で私が感じたことそのものだった。


「母上様」


「何です」


「私は、戦場に出ておりません」


「ええ」


「それでも、戦の中にいるのですね」


 母上様は、まっすぐ私を見た。


「その通りです」


 それは重い答えだった。

 けれど、不思議と怖くはなかった。

 重いものを重いと分かって持つ方が、何も分からぬまま抱えるより、まだ耐えられる。


 その夜、負傷兵たちは城内の一室で休ませた。


 梅子が薬湯を回し、桜子が夜番を決め、桃子が布を余分に用意した。

 お江は「また明日、顔見に行く」と言っていた。

 お初は「余計に騒がないで」と言いながら、自分も明日また様子を見るつもりなのが見え見えだった。


 私は最後に、その部屋の前で立ち止まった。


 中から、浅い寝息と、ときおり痛みに漏れる小さなうめき声が聞こえる。

 それは、戦場から大津城へ戻ってきた音だった。


 勝ちの報せだけが城へ戻るわけではない。

 武功の噂だけが人の口に乗るわけでもない。

 こうして傷も、疲れも、眠れぬ夜も戻ってくる。


 ならば私は、それらを拒まず受け止める城にしなければならない。


 真琴様が外で戦国武将として名を上げるなら、

 私はここで、戻ってきた者たちが人に戻れる場所を守る。


 そう思った時、真琴様の空いた席だけでなく、この城にあるすべての寝所や湯や火までが、私の預かるものなのだと改めて感じた。


 私は静かに襖から手を離した。


 戦は遠い。

 けれど、もう遠いだけではない。


 それは傷を負った足音となって、今日、大津城へ帰ってきたのだった。

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