茶々外伝・②②⑥話『関東の乱』編・第六話 お初、言わずに怒る
お初が不機嫌であることは、朝餉の汁椀を置く音で分かった。
かん、と小さく鳴っただけである。
乱暴に置いたわけではない。
母上様の前で、そのような真似をするほど幼くはない。けれど、普段なら畳へ音を吸わせるように置くところを、その朝のお初は、ほんのわずかに硬く置いた。
私は箸を取る前に、その音だけで察した。
ああ、これは怒っている。
何に怒っているのかは、問うまでもなかった。
真琴様から届いた短い文。
“まだ死んでいないので安心して”などという、安心させたいのか怒らせたいのか分からぬ一文。
そして、その文の短さから滲む、戦場の忙しさと、こちらへ何も知らせないまま無茶をしているに違いない気配。
お初は、それを飲み込めていない。
いや、飲み込む気がないのかもしれない。
けれど口にすれば、きっと自分でも持て余す。だから黙っている。
黙っているくせに、汁椀の音や、箸先の止まり方や、湯呑を持つ指の強さに、全部出てしまう。
お江は、そういう姉の様子をじっと見ていた。
「お初姉様」
「何」
「怒ってる?」
「怒ってない」
返事が早すぎる。
お江は、味噌汁の椀を両手で持ったまま、首を傾げた。
「怒ってる時の“怒ってない”だ」
「違う」
「違わないよ。昨日からずっと、なんか目がこう……きゅってしてる」
「目がきゅって何よ」
「きゅって」
お江は自分の目尻を指で吊り上げるような真似をした。
私は思わず口元を押さえた。
だが、お初は笑わなかった。
「お江」
私は声を挟んだ。
「あまり朝から人の顔をいじるものではありません」
「だって気になるんだもん」
「気になることを全部口にすればよいわけではありません」
「姉上様も気になってるでしょ」
私は箸を止めた。
お江は本当に時々、逃げ道をなくすようなことを言う。
お初の視線が、一瞬こちらへ向いた。
その目に、少しだけ警戒があった。
問われるのではないか。
何を怒っているのかと。
真琴様のことかと。
寂しいのかと。
そういう問いを、あの子は先回りして怖がっている。
だから私は、あえて汁椀を手に取った。
「気にはなります」
お初の肩が、ほんの少しだけ強張る。
「ですが、朝餉が冷めます」
そう言うと、お江が「えー」と不満を漏らした。
「そこ?」
「そこです」
私は汁をひと口飲んだ。
「温かいものは温かいうちに。怒るのも拗ねるのも、そのあとで十分です」
「だから怒ってないって言ってるでしょ」
お初がすぐに返した。
その声に、ようやく少しだけいつもの調子が戻った。
私はそれでよいと思った。
母上様は、何も言わずに飯を召し上がっておられた。
けれど、その目の端はたしかにお初を見ている。
お市は、見ていないふりをするのが本当にお上手だ。
朝餉のあと、お初はすぐに立ち上がった。
「湯殿、見てくる」
「今ですか」
「桶の数、昨日合わなかったから」
確かに、昨日の夕方に湯殿の桶を数え直すよう指示はした。
けれど、それは今すぐ走っていくほど急ぎのことではない。
つまり、逃げたのだ。
私はその背を止めなかった。
止めてもよかった。
だが、今のお初をその場へ座らせて問い詰めれば、きっと余計に硬くなる。
それなら手を動かしながら腹の中を少し整理させた方がよい。
お江は、お初が出ていった襖を見てから、私の隣へにじり寄ってきた。
「姉上様」
「何です」
「お初姉様、やっぱり寂しいんだよ」
声は小さかった。
お江なりに気を遣ったらしい。
「そうかもしれません」
私がそう答えると、お江は目を丸くした。
「あ、認めるんだ」
「認めるも何も、そう見えるなら、そういう部分もあるのでしょう」
「姉上様は?」
「私?」
「姉上様も寂しい?」
まっすぐな問いだった。
私は、膝の上で手を重ねた。
少し前までの私なら、すぐに“御方様としてそのようなことは”と返していたかもしれない。
けれど、今は違う。
「寂しくないと言えば、嘘になります」
お江は、少しほっとしたような顔をした。
「そっか」
「ですが、寂しいからといって、城のことを止めるわけにはまいりません」
「うん」
「だから、寂しいまま動きます」
お江は真面目な顔で頷いた。
そして、少し考えてから言った。
「じゃあ、お初姉様も、怒ったまま動いてるの?」
「ええ」
私は小さく笑った。
「お初らしいでしょう」
「うん。すごく」
お江はそこでようやく笑った。
その笑いが、少しだけ食事の間の空気を軽くした。
午前のうちに、安土から次の文が届いた。
真琴様の直筆ではない。
安土の評定に関わる覚え書きであり、関東の諸家の動きを簡潔にまとめたものだった。
それ自体は重要だが、私たちが待っていたものではない。
それでも、私は丁寧に読み、母上様へ回し、控えを取らせた。
その間、お初は戻ってこなかった。
昼前になって、ようやく湯殿の方から出てきたと聞き、私は廊下へ向かった。
春の日差しが障子を透かし、廊下の板にやわらかな光を落としている。
城の中だけ見れば、戦など遠いものに思える。
だが、そうした静けさの中ほど、誰かの沈黙は目立つ。
湯殿の入口では、お初が桶を並べ直していた。
もう十分に整っている。
むしろ、整いすぎている。
大きさごとにぴたりと揃えられ、手拭いの端も同じ向きに折られている。
それでも、お初は一つの桶を少し動かし、また戻した。
「お初」
「何」
振り向かない。
「それは、もう整っています」
「まだ」
「どこが」
「……気分」
私は少しだけ笑いそうになった。
けれど笑えば怒るだろうから、堪えた。
「気分を整えるために、桶を整えているのですか」
「悪い?」
「悪くはありません」
私は湯殿の入口へ立った。
「ただ、桶はそろそろ許してあげなさい」
お初が、ようやくこちらを見た。
「桶を?」
「ええ。これ以上動かされる理由がありません」
お初は一瞬だけぽかんとした顔をし、それから、少しだけ口元を歪めた。
「姉上様、たまに変なこと言う」
「あなたほどではありません」
「私は変じゃない」
「桶に八つ当たりしております」
「してない」
言いながら、お初はようやく桶から手を離した。
私はその隣へ並ぶ。
湯殿の中には、まだ昼の湯気はない。
空の桶と、磨かれた床と、外から入る白い光だけがあった。
「怒っておりますね」
私は静かに言った。
お初の顔が、すぐに硬くなる。
「怒ってない」
「では、腹を立てておりますね」
「同じでしょ」
「少し違います」
「どう違うのよ」
「怒りは外へ向かいます。腹立ちは、胸の中でぐるぐるします」
お初は黙った。
図星だったのだろう。
「……姉上様って、そういう言い方するからずるい」
「ずるいですか」
「言い返しにくい」
「なら、言い返さずともよいのです」
私は、湯殿の床へ目を落とした。
「真琴様へ腹を立てているのですね」
お初は、しばらく何も言わなかった。
だが今度は、否定もしなかった。
それで十分だった。
「短い文だったから」
「それもある」
お初が、ぽつりと言った。
「体のこと何も書いてないから」
「はい」
「また寝てない気がするから」
「ええ」
「……帰ってこないから」
最後の言葉は、驚くほど小さかった。
私はすぐには返さなかった。
返せなかった。
お初は自分でもその一言を出してしまったことに驚いたのか、すぐに顔を背けた。
「別に、そういう意味じゃない」
「どういう意味ですか」
「……知らない」
私は、そこで少しだけ息をついた。
知らない。
それはきっと本音だった。
自分の感情の置き場所が分からない。
怒りなのか、心配なのか、寂しさなのか。
姉の夫を心配する妹としてなのか、この家の一員としてなのか、それともそれ以上の何かなのか。
お初自身が、一番分かっていないのだろう。
私はそれを、今ここで暴くつもりはなかった。
「分からぬままでよいのです」
そう言うと、お初がこちらを見た。
「よくない」
「今は、よいのです」
「姉上様は、すぐそうやって」
「ええ。すぐそうやって、今は横へ置きます」
私は、お初の目をまっすぐ見た。
「分からぬものを無理に名づけても、余計に痛くなるだけです。今は、腹が立つなら腹を立てたまま、手を動かしなさい」
お初の目が、少しだけ揺れた。
「それでいいの」
「ええ」
「姉上様は?」
「私も同じです」
私は静かに答えた。
「心配です。腹も立ちます。短すぎる文にも、軽すぎる言葉にも。けれど、ここで私たちが倒れるわけにはまいりません」
お初は、唇を噛んだ。
「……ずるい」
「またですか」
「そういうふうに言われたら、何も言えない」
「言わずに怒っているよりは、少しよいでしょう」
お初は答えなかった。
けれど、その沈黙は朝のものより少しだけやわらいでいた。
午後、お江が騒ぎを起こした。
正確には、騒ぎというほどでもない。
ただ、城の中の空気を少しでも変えようとした結果、やり方が少々雑だったのである。
お江は、女中たちを集めて「真琴が帰ってきたら言うこと」を考え始めた。
「まず、“おかえり”でしょ」
広間の隅で、お江が指を折る。
「それから、“ちゃんと寝た?”でしょ」
女中の一人がくすりと笑う。
「それから、“おみやげは?”」
「それは不要です」
私はすぐに止めた。
「えー」
「戦から帰る人へ土産をせがむものではありません」
「でも言ったら笑うかもしれないじゃん」
「笑うかもしれませんが、今はやめなさい」
お初が、広間の入口で腕を組んで聞いていた。
「お江、あんたほんと呑気ね」
「呑気じゃないよ。帰ってきた時の練習だよ」
「練習?」
「うん。いざ帰ってきた時、みんな泣いたり怒ったりして変な空気になったら困るでしょ」
その一言に、私は少しだけ目を見開いた。
お江は得意げに続ける。
「だから、先に何言うか決めとくの。そしたら、ちゃんと“おかえり”って言える」
お初が黙った。
私も、すぐには何も言えなかった。
お江は、時々こういうことを言う。
無邪気で、浅いようでいて、こちらが避けていたものを真っ直ぐ拾い上げる。
帰ってきた時、ちゃんと“おかえり”と言えるように。
それは、今の私たちに必要なことなのかもしれなかった。
「……お江」
お初が、ぽつりと言った。
「何?」
「それ、悪くないかも」
お江は目を輝かせた。
「でしょ!」
「でも、おみやげは駄目」
「そこは姉上様と同じなんだ」
「当たり前でしょ」
女中たちが、今度ははっきりと笑った。
笑い声が広間に広がる。
地震のあと、看病のあと、そして真琴様の不在の中で、こういう笑いがどれほどありがたいかを、私はもう知っていた。
お初の顔も、少しだけほどけていた。
怒りが消えたわけではない。
寂しさが消えたわけでもない。
けれど、そのまま笑いの中へ身を置けるくらいには、少し落ち着いたのだろう。
夜、私はお初と二人で、真琴様への返書を改めた。
お江の「おかえり練習案」は、さすがにそのまま書くわけにはいかない。
けれど、何も書かぬのも違う気がした。
私は筆を取り、まず大津の状況を記した。
城は乱れなく回っております。
蔵、水、湯殿、文の往復、いずれも滞りなし。
母上様も、お江も、お初も、それぞれ務めを果たしております。
そこまで書いてから、少し迷った。
お初が横から覗き込む。
「また硬い」
「事実を書いています」
「硬い事実」
「では、あなたが書き足しますか」
「……いいの?」
「ええ」
私は筆を渡した。
お初はかなり長く迷った。
筆先を紙へ置きかけては止め、また持ち上げる。
やがて、ようやく小さく書いた。
倒れたら、今度こそ本当に怒ります。
私はそれを見て、静かに頷いた。
「よいと思います」
「ほんとに?」
「ええ」
「姉上様なら消すかと思った」
「消しません」
私は、返書の最後へもう一行だけ加えた。
皆、帰城の日に“おかえり”と言う支度をしております。
お初が、それを読んで少しだけ目を伏せた。
「……それ、いいね」
「お江の案です」
「悔しいけど、いい」
その言い方があまりにお初らしくて、私は小さく笑った。
この子はまだ怒っている。
きっと、明日もまた不機嫌になるだろう。
文が短ければ腹を立て、噂が届けば心配し、真琴様が帰ってこなければ黙り込む。
けれど、それでよいのだ。
怒ったまま、寂しいまま、それでも手を動かす。
それが今のお初の戦いなら、私はそれを無理に止めるつもりはない。
文をたたみ、封をして、私は火の方を見た。
大津城の夜は静かだった。
だが、その静けさの中に、朝とは少し違うぬくもりがあった。
たぶん、お江のせいだ。
そして、少しだけ素直になったお初のせいでもある。
真琴様。
こちらは、怒りながら、心配しながら、寂しがりながら、それでも城を回しております。
どうか、そのことだけは覚えていてくださいませ。




