茶々外伝・②②⑤話『関東の乱』編・第五話 文の短さ、想いの重さ
真琴様からの文は、いつも短い。
もともと、あの方は手紙で余計な飾りを好まれぬ。
必要なことを先に書き、次に動くべきことを書き、最後にほんの少しだけ、人の心へ触れるような言葉を置く。
それだけだ。
けれど今の私は、その“それだけ”が、かえって恐ろしい。
長い文なら、まだ余裕があるのだろうと思える。
どうでもよい冗談や、道中で見た梅の色や、誰それが妙な顔をしていた、などという一言でも入っていれば、そこに人の息がある。
だが短い文は違う。
短ければ短いほど、言葉を削るほどに、向こうにある時間のなさや、気を張っている強さまでが透けて見える気がする。
その日の昼、安土からの使いが一通を届けた時も、私は封を切る前から、妙に胸がざわついていた。
表の間には春の日差しが少しだけ入っていたが、風はまだ冷たかった。
私は帳面机の前で、城下から上がった井戸の澄み具合と、蔵の減りを見ていた。地震のあとからこちら、どれほど関東が騒がしくなろうと、大津の水と米が勝手に増えるわけではない。だから、こうして日々の“持ち”を見ていくのが、今の私の仕事だった。
「御方様」
桜子が、文を両手で捧げるように差し出した。
「安土より」
私は一瞬だけ、その封へ目を落とした。
黒坂の印。
外の土の匂い。
道を急いできた紙の、少し乾いた手触り。
「誰が持ってきたのです」
「昨夜のうちに安土を立った者にございます。殿の側近から直接預かったと」
私は小さく頷き、封を切った。
文は、思っていた通り短かった。
関東の内はなお騒がしく、誰を押し立てるかの思惑が家ごとにずれていること。
北条の動きは見過ごせず、佐竹の名が立つたびに別の家が身構えること。
安土では信長公の前で方針が定まりつつあり、自分もすぐにまた動くこと。
そして最後に、ほんの一行だけ。
「まだ死んでないので安心して」
私は、そこを見た瞬間、思わず目を閉じた。
安心して、とは。
誰がその一行で、素直に安心など出来るものか。
だが同時に、そのあまりに真琴様らしい軽さに、ひどく胸が痛くもなった。
今の状況で、こちらへ重さをそのまま落とすまいとしているのだろう。
だから、わざと軽く書く。
軽く書けるほど楽なのではなく、軽く書かねばならぬほど向こうが重いのだと、私はもう知っている。
「姉上様」
いつの間に来ていたのか、お江が私の肩越しに文を覗き込んでいた。
「何て書いてあるの」
「覗き込まない」
「だって気になるもん」
私は文を少し畳み、お江へ向き直った。
「ご無事だそうです」
「ほんと?」
「ええ。ただし」
「ただし?」
「忙しそうです」
お江は、少しだけ頬をふくらませた。
「それ、いつもじゃない?」
「今は、いつもよりです」
そこへ、お初が入ってきた。
扉のところで私たちの顔を見比べて、すぐに分かったのだろう。
あの子は何か起きた時、その“起きた”内容より先に、人の顔の変わり方を見る。
「文?」
「ええ」
「……見せて」
私は少しだけ迷った。
けれど隠したところで、お初はかえってろくでもない方へ考える。
「座りなさい」
そう言って文を差し出すと、お初は私の正面へ座った。
そして読み始めて、案の定、最後の一行でぴたりと眉を寄せた。
「何これ」
私は答えずにいた。
代わりに、お初がそのまま続ける。
「“まだ死んでないので安心して”って……そういう問題じゃないでしょ」
声は強くない。
強くないのに、ひどく刺々しく聞こえた。
「そうね」
私は静かに言った。
「私も同じことを思いました」
「もっと他に書くことあるでしょ」
お初は文を持ったまま、いらだたしげに言った。
「熱はもう出てないとか。ちゃんと寝てるとか。薬飲んでるとか。食べてるとか」
「それが書いてあれば、少しは安心できますか」
私が問うと、お初は一瞬だけ言葉を止めた。
それから、小さく息を吐く。
「……少しは」
その“少し”が、ひどくお初らしかった。
全部安心するとは言わない。
それでも、少しは。
あの子の中にある心配と、あの子なりの意地が、その一語へきれいに並んでいる。
「姉上様は?」
お初が今度は私を見た。
「少しで済みません」
私は正直に答えた。
お初の口元が、少しだけゆるむ。
笑ったというほどではない。
だが、“同じだ”と思った時の、ほんの少しの安堵だった。
お江は、そのやり取りを聞いて首を傾げている。
「“死んでない”なら、まあ、いいんじゃないの?」
私は思わずお江を見た。
悪気はない。
この子は本当に、そういう言葉の字面を、そのまま受け取ることがある。
けれど今は、そのまっすぐさが少しだけありがたかった。
「ええ」
私は頷いた。
「その通りです。まずは、それでよいのです」
「でも、お初姉様は怒ってる」
「怒ってないわよ」
「怒ってるじゃん」
「怒ってない」
「怒ってるって」
「怒ってない!」
言い合いになりかけたところで、私は小さく息をついた。
「二人とも」
少しだけ声を低くすると、お江はすぐに黙り、お初も唇を結んだ。
私は手元の文を見た。
短い。
やはり短い。
その短さの中に、向こうの忙しさも、削るような緊張も、全部入っている。
そして、その中にわざわざ“安心して”と置いてくれたこともまた、見ないわけにはいかなかった。
その日の夕方、私は一人で母上様の御殿へ向かった。
お市は、もう文のことを耳にしておられたらしい。
私が座ると、何も言わぬうちに問いを置かれた。
「短かったのでしょう」
私は少しだけ目を上げた。
「……はい」
「なら、よい文です」
その一言に、私はすぐには頷けなかった。
よい文。
そう言われても、あまりにも軽い。あまりにも短い。あまりにも私たちの不安へ寄り添うには素っ気ない。
そう思っていたのだ。
「茶々」
母上様が、私の顔をまっすぐ見ておられた。
「長く書ける時というのは、まだ心に余りがある時です」
私は黙って聞く。
「短い文しか出せぬ時は、それだけ外が重いのです。ですが、その重い中で、そなたへ一言を割いたのでしょう」
私は、手元でそっと指を重ねた。
たしかに、そうなのかもしれなかった。
向こうには、関東の家々の思惑があり、信長公の前での方針があり、病み上がりの体で背負っているものがある。
その中で、ほんの一行だけでも私へ落としてくれたのなら、それは軽いのでなく、むしろ重いのだろう。
「……“まだ死んでないので安心して”と」
私がそう言うと、母上様はほんのわずかに口元を緩められた。
「真琴殿らしい」
「ええ」
「そなたは、あれを軽く感じましたか」
私は少し考えてから、首を振った。
「いいえ。軽く見せているのだと思いました」
「ならば、十分です」
私はその言葉に、胸の奥の何かが少しだけほどけるのを感じた。
十分。
不安が消えるわけではない。
けれど、軽く流されたわけではないと思えるだけで、人の気持ちはずいぶん違う。
夜、食事の間ではお江が「返事を書くなら何て書く?」と騒ぎ始めた。
「姉上様、“ちゃんと寝て”って書く?」
「それは書きます」
「“ちゃんと食べて”も」
「ええ」
「“倒れたら今度は許さない”も」
それには、お初がすぐに顔を上げた。
「それ、いい」
私は思わず二人を見た。
お江は大真面目で、お初は本気だった。
「お初」
「何よ」
「さすがに、そのままは」
「でも本音でしょ」
私は一瞬、返す言葉を失った。
その通りだったからだ。
倒れたら今度は許さない。
それはたぶん、お初の本音であり、私の本音でもある。
地震の後のあの寝所の夜をもう一度くぐることなど、考えるだけで胸が痛い。
「もう少し、柔らかく書きます」
私がそう言うと、お江は「じゃあ“無理しすぎないでね”かな」と言い、お初は「それじゃ弱い」と不服そうな顔をした。
私はその二人を見ながら、ようやく少しだけ笑った。
真琴様の短い文一つで、こうして家の中の空気まで変わる。
怒ったり、安心したり、文句を言ったり、笑ったり。
だからやはり、文とは恐ろしくもあり、ありがたくもあるのだ。
私は囲炉裏の火を見つめながら思った。
文は短い。
けれど、その短さの中にあるものを、私はもう読み違えたくはない。
軽いのではない。
軽く見せているだけだ。
そして、その軽さへ、こちらもまた自分の想いをどう返すかが、今の私の役目なのだろう。
明日、返事を書こう。
長くは書かぬ。
長く書けば、かえって重くなりすぎる。
けれど、湯も、食も、寝所も、ここは変わらず整えて待っていること。
大津の城も、城下の女たちも、ちゃんと息をしていること。
そして何より、
あなたが戻る場所を、私は守っております
ということだけは、きちんと書いておきたかった。




